第3話 あてどなく

 翌朝である。レナトは見た目に反して朝に強い。さっと軽い朝食をとり、身支度をして、自宅からトレド異端審問所に出勤する。


 執務室に入ると、レナトのデスクの上には早々に書類が何枚か提出されている。朝一番で確認しなければいけない書類にざっと目を通し、判を捺していき、一杯の果実水で喉を潤したあと、レナトはようやっと重い腰を上げた。


 あの人狼は大人しくしているだろうか。大人しくするなら牢から出すと約束をしたが、牢から出してどうするべきか。生まれた森に帰すべきだろうか。何故商人の荷物に紛れ込んでいたのかは分からない。


 商人を尋問すれば、マドリードまでに通った村や街がわかるだろう。そうすればあの人狼が生まれた森も多少は絞り込めそうでは、あるが。困ったことに検閲所の役人は商人をそのまま解放してしまったらしい。探すにも骨が折れる。となると、人狼を直接尋問して、生まれの森の場所を聞き出すのが一番早いような気もする。ともかく、約束通りあの人狼にもう一度会いに行かなければ。レナトは憂鬱で重い足取りではあるが、地下牢へと向かった。


 地下牢の一番奥に、相変わらず人狼はいた。今は牢の奥の隅で、体を丸めて眠っている。昨日は混乱していてまじまじと見てはいなかったが、年の頃は一四歳程だろうか。女としてはまだ未熟な体つきをしていた。かと言って痩せ細っているわけでもない。ボロ布からはみ出した脚はしっかりと太い。──毛皮の厚みでそう見えるだけかもしれないが。しかし、毛並みは良い。ろうそくの灯りで照らされた銀の毛並みは、金色にも見える。


「セシリア」


 声をかけると、人狼もこちらに気付いたのか、腕で顔を拭い、もそもそとボロ布を体に纏わせた。眠そうな紅い瞳からは、昨日の凶暴さは感じない。


「セシリア、お腹いっぱい食べられたかい?」


「……」


 牢の中には、舐めたのか、異様に綺麗な皿が転がっている。人狼は眠気眼をこすりながらもこちらをじっと見ている。まだ、腹を空かしているのだろうか。


「お腹いっぱいには足りない?」


「……」


 人狼はこちらをじっと見るばかりで言葉を発そうとしない。トルケマダ氏の言ったことは嘘で、本当はやはり人間の言葉など通じないのではないか。そう思い始めた頃、人狼は大きなあくびを一つしてから、のそりと鉄格子の傍に四つん這いで寄ってきた。


「セシリア?」


「……セシリアは、セシリア」


 そんなことは知っている。何が言いたいのだろうか。と、数秒考えて……これは言葉のおぼつかない人狼が、自己紹介をしようとしているのだと合点がいった。そういえば、自分はこの人狼に自己紹介をしていなかったことを思い出す。


「ああ……僕はレナト。よろしく、セシリア」


「レナト。ご飯と水くれたの、レナト?」


「そうだよ。お腹いっぱいになったかな?」


「……セシリア、果物のほうがスキ。でも肉もスキ」


 なるほど、人狼は果物も食べるのか。


「わかった、セシリア。今日は果物を持ってこさせるからね」


「それより、レナト。セシリア暴れない。出して、ここから」


 確かにそう約束した。セシリアが暴れたりしないと約束するのであれば、牢から出すと。しかし、まだこの人狼の処遇を決めていない。今なら多少会話が通じるような気がして、レナトは鉄格子の前にしゃがんだ。


「セシリア、生まれた森の場所はわかるかな?」


「森、わからない」


「近くにある村の名前は?」


「村、村としか言わない」


「……マドリードに来るまで何日くらいかかったの?」


「荷馬車、暗い。朝、夜、わからない。ずっと寝てた」


 聞くだけ無駄であった。結局元の森に帰すことは不可能なのだ。かと言って永遠にこの牢に閉じ込めておくわけにもいかないし、昨日、暴れないなら牢から出すと約束してしまったのだ。レナトは大きくため息を吐いた。


「レナト、セシリアはどうなるの」


「それは……」


「セシリア、どうやってここまで来たかわからない。森、帰れない。村、帰れない」


「……そうだね」


「ヒトはイエ、ねぐら。セシリアもねぐら、欲しい」


 森に帰りたいと駄々をこねるものだとばかり思っていたので、人狼の言葉にレナトは少し狼狽した。つまり、街に居付くつもりなのだろう。森にそこまで執着心はないということか。森の護り人というには余りにもお粗末な子供だ。しかし、子供に責任感や道徳を説いても意味は無い。話からして、生まれた森に帰れと放逐することもできない。


 しかし困った、セシリアの外見はどう足掻いても人間のそれではない。脚の形は狼のそれであるし、人間の耳があるべきところには三角の耳がついている。銀色の尾も、どうしても服に隠せそうにはない。セシリアがこのトレドの街に家を持って人間として生きることは不可能である。何しろ人狼は寿命も長いらしいということはおとぎ話で聞いたことがある。いつまでも若々しい人狼に人々が不信感を抱くのはそう遠くない未来の話だろう。そうして何処からか密告があったとして、結局人狼は人ではないので裁判にならない、という堂々巡りに陥るのだ。無駄な仕事が増えるのはごめんだ。


「セシリア、この部屋はねぐらにならない?」


「ヤダ。外の空気、ない。お日様の光、ない。ジメジメ。ヤダ」


 仰るとおりである。地下牢には窓も無ければ、冷たく湿った空気ばかりだ。人狼がそういうのも当然のことだろう。では、人狼が隠れて安全に住める場所を何とか探さねばならない。如何したものか。


「セシリア、君のねぐらを探してくるから、もう少しここで待っていてくれる?」


「わかった。レナト、嘘つかない?」


「つかないよ。ねぐらになりそうなところを見つけたらすぐに戻ってくるからね」


「果物もくれる?」


「お腹が空いたんだね。わかった、果物を持ってくる」


 言い、レナトは立ち上がって近くの役人に果物を持ってくるよう申しつける。レナトは地下牢から出て、人狼が牢にいることを知っている数名の異端審問官と役人を執務室に集めた。誰か、あの人狼を保護してくれる者はいまいか。そう頼み込んでみても、誰もが家には家族がいるといって首を縦に振ることはなかった。


 確かに、家族がいる家に突然人外が転がり込んでくるなど、家族たちにとっては耐えがたいことだろう。暴れるかもしれない危険な存在を家にいれることに抵抗があるのも分かるというものだ。困ったことにこの時代、適齢期を越えた者は大抵家庭を持っている。


「レナト様は、一人暮らしだったはずでは?」


 とうとう一人の異端審問官から痛いところを突かれた。そう、レナトはこのご時世には珍しく、三〇歳も目前となった今でも悠々自適の独身暮らしをしている。そう言われては返す言葉もない。


「確かに、僕は独身、だ……」


「ではレナト様がお引き取りになるのがよろしいかと」


 まったくぐうの音も出ない。正論である。レナトはトレド異端審問所の代表代理として、ある程度の金を持っている。そして、一人で暮らすには広い家を持っている。いつか結婚することもあるだろうと、二階建ての家を持っているのだ。それに、レナトには結局まだ恋人もいない。あの人狼は、レナトが引き取るべきなのが自然の流れなのだ。トルケマダ氏から人狼の処遇を頼まれたのもレナトなのである。昨日から正論の暴力にさらされ続け、レナトはがっくりと肩を落とした。

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