第8話 地獄からの脱出1
——時は八年前に遡る。
ローゼンタール王宮。地下特殊独房。
三畳程度の石造りの小部屋にカビ臭い地下の匂いと、糞尿垂れ流しのえげつない匂いが混じり合って、最悪の匂いが漂う。他にも科学兵器の薬品の残り香や、腐った残飯の匂いも残って混沌と化している。
悲しいかな、その匂いすらスイはすっかり慣れて、もう何も感じなくなっていた。
魔力を封じる特殊な錠に繋がれて、スイは天上から吊り上げられていた。
まだ九歳のいたいけな少年。その額からは多量の血液が垂れ流され、両目は刃物で抉られて惨い見た目になっている。全身はまるで捨て猫のようにやせ細り、骨にやや肉がついているだけだ。肉体も刀傷や鞭で打たれた痣が目立つ。
普段のスイなら『不死の勇者』の力で肉体は直ぐに再生する。しかし、両腕両足に繋がれた魔力封じの錠がその力を限りなく弱めた。とは言え、強大な魔力を完全に封じことはできず、不死の勇者スイはどんなにいたぶられようとも、何度殺されようとも死ななかった。
もはやローゼンタールの兵士かもわからない者たちが、毎日定刻にスイを殺しにやってくる。
剣で心臓を一突きする者。調理包丁で体に傷をつけてじわじわといたぶる者。化学兵器の実験として体を焼く薬品を試す者。中には痛めつけもせず、自己の秘めたる欲求をスイで解消する者もいた。
半年に及ぶ暴虐はローゼンタール王国、時の王ゾンゲが他の六国と結んできた条約が発端だった。
シーラン大陸七国の王たちは魔王亡き今、勇者の存在は必要ないと判断した。
七国の優秀な研究者たちによって生み出された人造勇者の製法は、魔族との戦争で紛失してしまった。わかっているのは適正のある人間に魔族を融合させたということだけ。主要な研究者も多くが戦死し、現在では二度と生み出すことは不可能と言われていた。
凶暴な魔族の血をもはや抜くことはできない。下手に手を加えて暴走されても困る。
七国は所有する勇者の廃棄を決定した。
「本日、貴様の廃棄が決定した」
その日、街のご飯何処で夕食を取っていたところ、突然店を埋め尽くす大量の兵士が押し寄せ、わけもわからないままスイは王宮に連行された。
魔力封じの錠に繋がれ、最初の処刑が始まった。
スイは状況を飲み込むことができなかった。
王ゾンゲの前で跪かされて、馬鹿な王が実用性のない装飾こてこての黄金の剣でスイは貫かれた。
側近の前で言い格好をして嘲笑うゾンゲの顔をスイ生涯忘れないだろう。
これが、地獄の始まりだった。
共に魔王と戦った仲間は無事生きながらえているのだろうか。日々の苦痛に耐えながら、スイはそのことだけを考えていた。
最初は全身を駆け巡る激痛に涙が止まらなかった。
王家や人のため魔王と戦い、見事勝利を収めた英雄にこんな仕打ち。
絶え間ない虐殺に何も感じなくなったある日。
繰り返される地獄に慣れたのか、それともスイの涙が枯れたのか、自分自身でさえわからない。
その日は普段とは全く異なる異色の雰囲気が特殊独房を満たした。
「看守を全員下がらせてくれ」
その男が放つオーラは常人のそれとは異なる。
三十手前くらいの硬派な大人の男。程よく筋肉のついたバランスのいい肉体。纏う衣装は貴族のものだろう。高価な装飾が肩から吊り下げられた白いジャケット。
「はっ!」
よく見る看守が敬礼し、独房の外に下がっていった。
檻の扉をゆっくりと開いて中に入ってくる。
「うっ……酷いなこれは……」
異臭に耐えかねた男が鼻を覆う。
誰のせいだと、内心悪態をつくスイ。
「時間がない。今から黙って私の指示に従え。そうすればお前をここから出してやる」
てっきり特殊な欲望の捌け口にされるものだと思っていたスイは、予想外の言葉の言葉に顔を上げた。
「……な……に……もの……」
声帯がまともに機能していない。思い返せば声を出すのは数か月ぶりのことだった。
「話せないのか」
「……こ……れ……はず……せ」
視線を魔力封じの錠に向け合図する。
「これを外せばいいのか?」
質問するのと同時に男はスイの錠を外した。まずは両手を縛るもの、次に両足を繋ぐものを外した。
するとたちまち、スイの体が元通り修復されていく。刃物でつけられた幾百幾千の傷が一つ残らず消えた。不健康で病人のような青白い肌は血色を取り戻していった。
「信じられん!」
男は大きく口を開く。目の前で起こる摩訶不思議に、おもわず唸り声をあげた。
スイは拳を握ったり広げたりして、感覚を取り戻す。開放された瞬間は他人の体に魂を入れられたような違和感があった。数十秒すれば感覚が戻った。
「懐かしい」
自分の体が懐かしい。不思議な感覚。
「全く驚いた。すっかり元通りだな」
「これが俺の能力だ」
「すごいな。素直に驚いた」
スイの体がどうなっているのか気になるようで、男は全身を撫でまわしてきた。
「やめろ! 気持ち悪い」
「すまない。つい気になってな……」
子供部屋で親と話しているような、すっかり緊張感がなくなってしまっている。
「どうするんだ? この際、お前が何者だろうと関係ない。ここから出してくれるなら願ったりだ」
空気を引き締めるためにスイが切り出した。
一秒でも早くこの場所を出たい。大人しく気取ってみせても、スイの胸は高鳴るばかりだった。
「そうだったな。まずはこれに着替えてくれ」
男は入獄時に持ってきていた木箱を開封した。木箱には濃紺のセットアップ、看守の制服が入っていた。
「看守の制服か」
「そうだ。早くしろ時間がない。」
どの口が言うのだと思ったが、スイはグッと飲み込んで制服に着替えた。
「馬子にも衣裳だな。どこぞの孤児が立派な兵士になった」
「うるさい」
「では参ろう!」
言われるがまま堂々と脱獄すると、男の快活な歩調に合わせて後を追った。
スイは地獄から脱獄した。
この際、男が何者で何を企んでいるのか、そんな些細なことはスイにとってどうでも良かった。折を見て男からも逃げる腹積もりだったからだ。
魔力封じの錠さえ外れれば、もう怖いものなどなにもない。
スイがいた特殊独房は王宮地下の最奥に位置しており、牢を出ると一本の通路を挟むように左右に牢屋が立ち並んでいた。
真っ直ぐ通路を抜けると階段があった。さすまたを構え、階段を警護しているのは先ほど男が追い払ったばかりの看守だった。
看守はこちらを一瞥するなり苦い顔をした。
「ランゾ様……さすがにそれは……」
苦い顔で真っ直ぐ見てくる看守からスイは視線を逸らす。
謎の男はランゾという名らしい。
「何か問題でも?」
ランゾは毅然としている。
「あ……その……」
ランゾは見るからに貴族だ。鋭い双眸で看守を睨みつけた。
身分の差に怯えた看守はたじたじだ。
「君は何も見なかった。用を足しに厠に行っている間に事件は起こった。単独での脱走だ。……私の言っている意味がわかるな? わかったならこれを……」
懐から出した布の小袋には金貨がみっちりと詰まっている。
「今晩これで妻を食事にでも連れていってやりなさい」
「こ、こんなに⁉」
ランゾが看守の肩を叩く。
食事どころか食事処が買えそうな額だ。自然とスイも唾を飲んだ。
「進もうか」
スイを一瞥すると、ランゾは階段を上がっていった。
「ランゾ様は国家転覆でも考えているのか? ふんっ! 貴様もつくづく数奇な運命だな」
看守の言葉を背中で聞いて、スイは地獄の階段を駆け上がった。
久しぶりのお日様は刺激的に感じた。突き刺してくる陽光に目を覆う。
監房塔から出ても外はまだ王宮敷地内だ。長大な建物をどこまで取り囲む石壁が拡がっていた。
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