新宿の海
アイク杣人
新宿の海
『新宿駅の地下には海がある』
……という話が以前SNSで注目を浴びていた。
『新宿で飲んだ後に駅の地下で迷子になり、さらに地下深くへと続く階段を見つける。降りて行った先には簡素なドアがあって、それを開けると潮の匂いと一緒に波の音が聞こえてきた。屋外と見間違うほどの広い場所で、照明などは無かったが、来た道から漏れている光で砂浜に波の打ち返す様子が見える……』
かなり大雑把に言うとこういった話が投稿されていたのである。当時、そのSNSではオカルトマニアが集まってこの話をまことしやかに拡散していたが、結局は良くある胡散臭いネット上の噂話として捉えられ、いつの間にか忘れ去られていった。
約千年前、この地域は海の底であった……などというテーマはバラエティ番組で頻繁に扱われている題材で、どちらかと言えば食傷気味に感じるくらいだ。
番組では大学の教授や高学歴タレントがその情報と現在の姿に何かしらの因果関係を求め、視聴者をちょっと驚かせたり納得させようとしたりしている。
まあ、史実として縄文時代の東京都は今の浅草あたりまでが海岸線だったらしいが、だからと言って、この令和の世に数千万人が生活を営む首都圏の、さらにその地下に「海」など残存しているはずもない。
そして世にある
一応、東京23区内に本社を構えている滝井電設株式会社。
とは言え、このご時世に自社ビルを持ち、少ないながらもボーナスが出てるだけでも十分だ。
「おっ、また橋本が一人で寂しく暇つぶししてるな」
顔を上げると上司の北浜常務が爪楊枝を咥えて近づいてくる。まだ40代後半だがその斬新なアイディアと、上司・部下関係なく気遣う性格で、あれよあれよという間に出世して今では弊社の取締役だ。学生時代はバスケをやってたらしく身長も高くて、男から見ても格好良いので正直羨ましい。
「別に寂しくはないですよ。暇つぶしをしてるのは事実ですが」
そう言った後にちょっと強がってるように聞こえたかな、などと意味の無い心配をして椅子に座りなおす。
やけに親しく話しているように感じられるだろうが、北浜さんには昔からいろいろと目をかけてもらい、私にとっては一生頭が上がらない人物だ。
今は亡き親父の従兄弟で、幼いころから家族ぐるみの付き合いをしていたこともあり、まあ、ぶっちゃけて言えばそのコネでこの会社へ就職出来たようなものである。
ただ、誰もがそうだとは思うが、私も「コネ入社」と陰口を叩かれるのが嫌だったので、1~3年目まで同僚から「もういいから休め!」と心配されるほど働いていた。おかげで今となっては何とか社内で迫害されずに済んでいる。
まあ、若干変わったヤツだとは思われているらしい。
「橋本、お前はもうちょっと社交的というか、もっと他の社員と付き合ってもいいんじゃないか?」
「いつもお気遣いありがとうございます。でも、正直こっちの方が気が楽なんですよ。同僚と全く付き合いがないと言うワケでもありませんし」
北浜常務は軽くため息をついて隣に座った。
「まあ、仕事はちゃんとやってくれてるから全く問題はないけどな。ただ、昔のことを思っていつまでも……」
「いえ、それは関係ありません」
軽いフラッシュバックを感じ少々言い方が強くなってしまった。
「あっ!す、すいません……せっかく北浜さんが気を遣ってくださってるのに……」
彼も思うところがあったのか、遠くを見ながら呟く。
「バカ野郎、そんなんじゃねぇよ」
1秒程の気まずい空気。彼はおもむろに席を立つとキッチンでインスタントコーヒーを入れ、また私の隣に座って一口だけコーヒーを啜って口を開いた。
「新宿区からの仕事が入った」
先ほどの会話などなかったかのようにいきなり仕事の話を始める。本来なら昼休みに仕事の話などしたくはないが、この雰囲気を変えて欲しかった私にとっては非常に助かった。
「えっ、例の新宿の作業ってウチが入札出来たんですか?」
「たぶん守口建設の土居部長が裏から手を回してるかもしれないが、まあ、それはこちらがしっかりと仕事して渡せば済む話だ」
「土居部長にはかないませんね」
「それとウチの社長にも感謝しなきゃな」
弊社、滝井電設の滝井社長は、どういったワケか日本有数の建設会社である守口建設の部長と昔馴染みらしく、何かあれば優先的に仕事を回してもらっていた。
「それならちょっと気合を入れなきゃダメですね」
「ああ、お前の上司の牧野部長へは既に資料を送ってるから、すぐに詳細が届くと思う。橋本、お前にはマネージャーとして管理区域の作業を任せたい」
「ありがとうございます。今回はウチだけの作業ですか?」
「いや、守口建設を含め数社での作業だ。土居部長の所からもある程度は人を出すらしい。区の仕事とはいえ作業内容は小規模だ。そこまで気負う必要もないぞ」
そう言って彼は先ほどの気まずい空気など無かったかのように、飲み干したマグカップを洗って自分の机に戻って行った。
数週間後、そぼ降る雨が副都心のビル群を濡らしているのを見つつ、私たちは新宿の地下へ潜って行った。地上に比べここは湿度が若干高いものの思ったより不快ではない。
新宿駅から南東へ少々、新宿御苑近くの地下60メートル。面積が数十ヘクタールにおよぶこの広大な地下区域は新宿区の管轄であり、閑散とした何もない正方形の地下空間に、無数のパイプやインフラ用のケーブルが規則正しく張り巡らされていて、まるで何かの芸術作品のようにも見えた。
天井までの高さは4メートルほどで、他に見えるのは壁に設置された照明用のLEDと耐震設計の大きな柱。
もし、きらびやかな照明と若い世代目当ての店舗が並んでいれば、日本有数の地下街になったであろうと思われる。
今回の作業はそのインフラ用のケーブルや壁に設置されている機材をチェックし、劣化・故障しているようであれば交換するというものであった。
「知識としてはありましたが、新宿の地下にこんな広い空間があったんですね」
初日なので顔を出している北浜常務の横、私は呆けたように周りを見回す。
「俺も最初に来たときは驚いたさ。新宿区内のインフラ整備の際に改めて掘削しなくて済むよう最初から空間を作っておいた方が良い……ということなんだろうけど、いや、想像を絶する広さだよな」
滝井電設の受け持ちはその正方形を四分割した北西の地域だった。
北浜常務は話が終わると守口建設の現場に挨拶へ向かい、私は部下がスタンバイしている現場へと早々に足を向ける。
担当区域に着いて辺りを見回したが、基本的に造りはどこも同じようだった。壁際には備品の置かれたスチールラックや、他にもパイロンや土嚢などが置かれている。
部下たちの作業はマニュアル通りに進められていて、こちらから口を出すこともなかった。基本的には設備品のチェックのみなのでスムーズに進むはずだ。
その後もルーティンに沿って作業を確認しつつ巡回していると、最後の現場で少々揉めているような会話が聞こえてきた。
「こないだのミーティングで言っただろ。その方法だとリスクがあるんだよ」
「しかしですね、どちらにしろリスクは……」
壁に設置している某機材の前で男性二人、先輩と後輩らしき間柄だが、どうやら作業方法について揉めているようだ。
「どうしたんだ」
「あっ、橋本主任。いや、コイツ、作業方法を変えたいらしくて……」
「お疲れ様です。僕はやはりこっちの方法が良いと思いまして……」
現場で作業直前に言い出すとは……気持ちは分かるが、若くてやる気があるというのは押し並べて素晴らしい!というものでもない。
私は問題提起している社員の意見を聞いた後、改めて諭すように話し始めた。
「疑問を持つことは良いことだし、それを提言するのも問題ないが、今回の件は事前のミーティングで決定したことだろ。もし、それを変更するのであればもう一度他の社員のコンセンサスを得なければいけない。それとも、作業直前に変更するほどのクリティカルな問題があるのかい? もしそうなら論理的に根拠を示してくれないか」
「いえ、クリティカルと言うほどではないのですが……」
「それならば、とりあえず責任は俺が持つからこの方法は変えないで欲しい」
「……はい、承知しました」
「まあ、なんだ。そのやる気と向上心は認めるが、やはり現場での独断変更というのは極力やめておいた方が良いだろう」
「主任の言う通りだぞ。頼むから今回は従ってくれ」
(頼むから今回は従ってくれ)
(頼むからって……それ、強制でしょ!)
その瞬間、何かが弾けたように頭の中で響いた。
突然フラッシュバックする記憶。
徐々に目の前がホワイトボードのように白くなっていく。そしてそれを背景に制服を着た女の子が私に向かって涙目で訴えている映像。
……こんなところでそんな記憶を思い出すんじゃない!
私は自分に心の中で強く言い聞かせ、無理やり意識を前の二人に戻した。
「と、いうことだ。後は頼んだぞ」
「はい!」
問題提起していた社員の方はまだ若干納得のいかない顔をしていたが、先輩の方はトラブルが事前に収まったことと、私が責任を取ると言ったことで気を良くしたのか、かなりテンションの高い返事を返していた。たぶん、もう大丈夫だろう。
逆に私の方が昔の記憶でダメージを受けてしまったような気がする。他の現場は問題ないようなので、一旦、休憩所まで戻ることにした。
休憩所は地下空間の中央付近にあり、雨も降らないのにタープテントを張っている。一応、他社との共有だが大層な施設があるわけでもなく、ただ折り畳みの机と椅子が無造作に置かれていた。
私は持参した水筒でお茶を飲んで喉を潤すと、ノートパソコンを立ち上げてメールをチェックし始める。
他の業務に関するメールがいくつか来ており、そこに緊急性が無いことを確認した後、私は軽く溜め息をつきながらゆっくりと咀嚼するように先ほどの記憶を思い出していた。
あれは私が大学4年になったばかりで、北浜さんを通してこの会社へ挨拶に行っていた頃。妹の里帆は高校3年の受験生で、他の子らと同様に進学先を迷っていた。
早くに両親を亡くした私たちは、親戚である北浜家の支援もあり二人とも大学への進学を"一応"は許されていた。かと言って私はその提案を無条件に受けるほど素直でも単純でもなく――半分以上は見栄とプライドだったが――経済的な面では常に頭を悩ましていた。
「なあ、里帆。考え直してくれよ。お前の言う私立大学は学費だけならまだしも、一人暮らしの生活費まで考えなくちゃならないんだぞ」
私はリビングのテーブルで正面に里帆を見据えて、橋本家家長としての威厳を保とうとしていた。
里帆の希望は関西にある私立の芸術系大学。一般的な大学より学費も高く、さらに独り暮らしのことも含め、私はどうしても考えを改めさせたかった。
「だって私の希望する学部がその大学にしかないんだから仕方ないでしょ」
「そうは言っても、これ以上北浜さんに負担をかけるわけには……」
すると、拗ねたように横を向いていた里帆は、突然大きな音とともに立ち上がって私を睨みつけた。
「なによ!お兄ちゃんはいいわよ。国立に行ける頭もあって、さほど何かをやりたいわけでもなく、ただ大学に行っただけだもんね!」
「なんだと!俺がどれだけ……」
「あの大学はね!あの大学は……中途半端な私が、今、やりたいことと出来ることの、ギリギリの線を考え抜いて出した結論なのよ!」
潤んだ眼で見つめられた私は、その言動に戸惑いつつ声も出せずに呆然とするしかなかった。
里帆はメディアで良く言われている今どきの女子高生のように、何も考えずテキトーに生きているのだと思っていた。だが違った。里帆なりに一生懸命に夢と立場を弁えていろいろと考えていたのだ。
そして今さらながらそれに気づいた私は生まれて初めて里穂に頭を下げた。
「……本当にすまない。だが、頼むから今回は従ってくれ」
「頼むからって……それ、強制でしょ!」
里帆はそう涙声で言い放つと、それ以上は何も言わずに自分の部屋へ入り、見たことのない乱暴さでドアを閉めた。
それ以来、彼女との会話はほぼない。
数か月後、リビングのテーブルに大学の入学願書が無造作に置かれていた。
家から通える都内の公立短期大学。
願書自体は全て記入済みでそのまま提出できたのだが、一応、私に確認させるために置いていたのだろう。
私は一通り目を通して「頑張れよ」とメモを書く。
今さら一体何を頑張れというのか。
そのメモに対しての返事は永遠になく、それならと、あえて手紙を書こうとしていた手もいつの間にか止まっていた。
そして山の葉が色づく頃には私の就職が決まり、吐く息が白くなる頃には入学願書と同じように合格通知がテーブルの上に置かれていた。
正直、私は複雑な想いだった。無理やり進路を変えさせて受けた大学の合格通知。大いに喜んでお祝いすべきことであるのは間違いないのだが……
果たして私の「おめでとう」のメモは読んでもらえたのだろうか。
その後、私は前述したようにコネ入社という汚名を返上するため、ただただがむしゃらに働いていた。仕事以外何も考える暇はなかった。……いや、考えたくなかったのかも知れない。
2年後、彼女が無事短大を卒業し、都内のアパレル関係の会社へ就職したという話を彼女からではなく北浜さんから聞いた。
入社後は会社の寮に入ったそうで、ある日、仕事から帰宅したときに見てみると、彼女の部屋はこの地下空間のように閑散としていた。
私は彼女が出て行ったことすら気づかなかったのだ。
「……っと」
スマホのアラームで我に返る。薄暗いコンクリートの世界で、記憶のスイッチを切るようにノートパソコンをやや強めに閉じた後、軽く溜息をついて2度目の現場巡回へ向かった。
私は朝と同様のルートで巡回していた。どの現場もスムーズに進捗しているようで、特に先程問題のあった最後の現場などは、雨降って地固まるではないが、今まで以上に良い状態で作業できているようだった。次のミーティングでは後輩の子の提案が楽しみ半分恐さ半分だ。
改めて新宿地下空間の区画を説明すると、Excelのように横をA,B,C……縦を1,2,3……で分割しており、全体を6×6の36区画で表すようにしている。
それを4社で分担しているので1社あたりの管轄は9区画だ。弊社は北西のA-1からC-3を担当していた。
私はまさにExcelで作られたであろう地図を持って巡回している。まあ道に迷うことはないが、主要機材やケーブルの名称、社員の配置などが書かれているので巡回には必須であった。
「おや、A-3はまだ何も通してないのか」
地図を見て今さらながら何もない区画があるのに気付く。今後も機材やケーブルが増えていくことは明らかなので、まだ使用されていない区画も当然のように存在していた。
先程は最後で記憶のフラッシュバックが起きたので、見落としていたのだろう。いつまでもこんなメンタルでは大きな仕事なんて無理だぞ……と自分を叱咤する。
そして、本心は興味半分だったが、気持ちを切り替えるためにもA-3を見学してから休憩所に戻ることにした。
A-3区域にはパイプやケーブルや機材も、また他の区画に置かれているような土嚢などもない。壁には等間隔にLED照明があるだけで、まるで車が停まってない百貨店の駐車場のようだった。
思ったより何もなくて少々テンション下がり気味だったが、途中で一つだけLED照明が消えている。LEDだから球が切れるはずもないのにおかしいな、と不思議に思って近づくと、約2.5m四方の大きな板が壁に立てかけられており、それによってLED照明が隠れていただけであった。
(しかし、この板に何の意味があるのだろう。今後使用するためのパーテイション用か?いや、わざわざ先んじて置いておくほどのものでもないだろうに)
などと思いつつ、一人では動かせそうもないその板に触った。
(これは……木材じゃないな。金属でもない)
私は改めて板を掴み、少し力を入れて引っ張る。すると思った以上に手応えは軽く、そのまま音を立てて地面に倒れていく板の様子に思わず声が出てしまった。
「FRP(繊維強化プラスチック)か!また何でこんなとこに?」
漫画雑誌ほどの厚みのあるFRP素材の板だが、その中は空洞で、女性でも力を入れたら動かせるだろう。
そもそもこんなものが何に使われていたのだろうか、そう疑問に思いつつ壁を見ると、さらに疑問が増えた。
ドアがあったのだ。
どこにでもありそうな金属製のドアだが、周りに比べて年代が一回り古いように感じる。柱と柱の間の壁に配置されているこのドア。
しかも壁の中心ではなく、ちょっと向かって右側にずれて配置されているので、どうやら壁の方が後から出来たようにも思えた。
さすがに触っただけで害をなすようなことはないだろう……私は思い切ってドアノブを回すと、ガジャッという砂を噛んでいるような音とともにドアはあっけなく開いた。不思議と鍵はかかっていなかったようだ。
ドアの奥を恐る恐る覗き見る。照明などは無くただ漆黒の闇へと真っすぐ向かう通路が少し見えるだけだ。私は今日のために持ってきた強力なLEDライトを取り出して闇の世界を照らしてみた。見える範囲は意外と清潔そうで、通路を2、3歩踏み出してみたが足元が崩れるようなこともなかった。
戻る時にドアを確認すると、鍵は開いていたのではなく、錆びて使えなくなっているようだった。だからあのFRPの板でカモフラージュしてたのだろうか。
「うわぁぁっ!!」
その瞬間、スマホから電子音が響く。何というタイミングだ。
「……か、勘弁してくれよ」
見ると北浜常務から『そろそろ休憩所に戻るか?』との連絡が入っていた。私は少し悩んだが、ここまで来て戻るのも納得いかず『A-3地区に妙な通路を発見しましたのでちょっと見てみます』と返信した。
ライトの電池も満タンだし、地下のあちこちに設置してあるWi-Fiの電波もまだ届いている。周りに人がいないことを確認し、もう一度ドアを開けようとした時、また電子音が響いた。
「うわぁっ!……ま、またかよ、マナーモードにしておけば良かった」
スマホを取り出して見ると、北浜常務から『俺も行くから待ってろ』というメッセージが返ってきていた。
正直、一人で行くのも不安だったので、この返事は非常に助かったのだが、常務をこんなことに付き合わせていいものか、という会社員的な心配もある。
私は北浜常務が来るまでこの通路が何なのかを考えていた。
地下鉄の設備に関する通路なのか?いや、それにしては深すぎる。一番深い大江戸線でも地下42メートルだ。
だったら雨水貯留浸透施設なのでは?これも深すぎる。都の巨大施設ですら地下50メートル程度だ。
まあ私の知識でいくら考えたところで、見当すらつなかないのが当たり前か。
数分後に足音が聞こえてきたので、そちらの方を見ると2人の影が見えた。私はライトを持って手を振る。1人は北浜常務、もう1人は……
「やあ、橋本君、ご無沙汰しているね」
「ど、土居部長!わざわざこんな辺鄙なところまで来られたのですか?私の戯言に……本当に申し訳ございません」
「いやいや、いいんだよ。僕が北浜君に聞いて来たいと言ったのだからね」
土井部長は還暦手前。見た目はまさに英国紳士と言ってよいほどのセンスが滲み出ている。シルバーグレーの髪にスタイリッシュな眼鏡とオーダースーツ。私もこんな風に歳を取りたいものだ。
「滝井がいたら一緒に連れて来ようと思ったんだが……」
「社長は別案件で九州に出張していますからね」
北浜常務が手に持ったヘルメットを私と土居部長に渡しながら言った。
「ああ、みたいだな。まあ、そっちはお土産を期待するとして、早速その妙な通路とやらを拝見させてもらおうか」
私は北浜常務に礼を言ってヘルメットを受け取り、ドアを開け先頭に立って進む。3人ともそれなりに強力なライトを持っているので明るさは十分だ。
「常務はこの通路の事をご存じだったのですか?」
「ああ、噂程度でな。お前からの連絡があった時、たまたま横に土居部長がいらっしゃってな。その話をすると一緒に行きたいとおっしゃられたのだ」
北浜常務が土居部長の方をちらりと見やる。
「僕も以前その話を聞いたことがあるんだよ。一応、この先の事も噂程度では知っているんだが……あまり近づかない方がいいという話でね」
「えっ、じゃ、じゃあ引き返した方が……!」
私は驚いて振り向いた。
「ははは、いや物理的に危険という意味ではないよ。たぶんその心配はないから先に進もう」
通路はコンクリート打ち放しで、照明は天井に設置されているが通電はしていないようだった。幅も高さも約3m程度。壁が割れているのでも瓦礫が落ちているのでもなく、思った以上に歩きやすい。無機質でいかにも業者が使用する通路のようだ。
私たちは途中で1度左に曲がった後さらにその先で右へ曲がり、トータル7分ほど歩いただろうか、8畳ほどの何もない部屋に着いた。その先にはまたドアが見える。
「さてと、鍵は開いてるのかな」
北浜常務はそう呟くと軽快にドアへ近づいていったので、私は慌ててそれを制止して前に出る。
「常務、さすがに危険ですよ!私が先に行きますから!」
2人が苦笑いしているのを見ながら私は、ホラーゲームの主人公のように息を飲みつつドアノブを回した。
手にはかなりの抵抗があり、ギギギともゴゴゴともつかない音がドアから響く。鍵はかかってないようだが、少しシリンダが錆びているようだ。そのまま私は力任せにドアを引いた。
湿度を持った空気が流れ込んでくる。
潮の香だ。
ライトを掲げてドアの向こうへ一歩踏み出す。
波の音だ。
私は完全に例の噂話を思い出していた。海であるはずはないが海のイメージしか浮かばないこのシチュエーション。
思い切って先へ進む。靴には砂の感触。ライトには反射する水面が見えた。天井を見上げると光が届かないほど高い。先ほどまでいた地下空間にも劣らないほどの広大な空間だ。
落ち着いて空気を吸うと、実際の潮の香よりは薄く、長期間閉鎖されていたらしい
「……一体、ここは何なのですか?」
飽きれるほどに普通の疑問しか口に出なかった。推測すら追いつかないほどの衝撃が私の中で渦巻いている。
「ふむ、噂通り……と言って良いかな」
土居部長が周りを見回して呟いた。北浜常務は私と同程度に驚いているようだ。
「部長、お話願えますか」
「それは構わないが、僕の知っていることも所詮は噂話レベルだ、ということを念頭に置いてくれよ」
そういうと土居部長は慎重に話し始めた。
時代は1980年代後半。昭和末期。俗に言うバブル経済期。
良くあるテレビの特集などでは、その時代の生活がまるで王侯貴族のそれのように報道されたりしているが、驚くのはその報道がさほど現実と異なってはいないことである。当時は企業も一般人もまさに狂騒の中にいた。
企業はどれだけ大金を投資するかがステイタスでもあり、扱うモノは大きければ大きいほど良く、それは設備になり建物になりリゾート地へと移り変わっていく。
あるリゾート開発企業が「東京の地下にビーチを作る」という企画を発表したのは昭和が終わったばかりの頃。バブル経済の崩壊が微かに見えていた時期だったが、それでもまだ日本企業は「元気」と「現金」が有り余っていた。
新宿の地下に海水を引き、砂浜を作り、様々な店舗を置く。南国の植物や食べ物も用意して、季節を問わずに南国気分を味わえるというのが売りであった。
「えっ、海水を引くって……ここは新宿ですよ。どうやって……」
「その話は聞いたことがある。まさかここの事だとは思わなかったがな」
北浜常務が複雑な表情で答えた。
「海水と言っても汽水域からで良ければ……たぶん桂離宮の隅田川あたりになるが、そこからなら直線距離で5㎞程度。当時の財力があれば不可能ではないだろう」
「そこまでして……」
「おそらく、もう既にその海水を引き入れた導入路も機能していない。今でも多少は水が動いているのは、今日のように大雨などにより様々な場所から水が流れ出してここで合流してるからだろう。潮の香はするが水自体は真水に近いと思う」
土居部長はそれに頷いて話を進める。
そのリゾート企画に当時の財政会は色めき立った。さらに儲けることができる。世界に誇るリゾート施設が出来る……と。
ところが、誰もが理解しているとは思うが、酔っている時の決断というのは、人間が最もやってはいけないことの一つだ。そう、当時はすべてがバブル経済というものに泥酔していた。国も企業も人も。
案の定、時代が追いつけなくなり、巨大過ぎるコンセプトからは資金も人材もあっという間に消えて無くなっていった。結局その企画は様々な要因により途中で頓挫してしまう。
どれだけの人が泣いたか分からないが、きっとここだけではない。日本中に規模こそ違えど同様の施設がいくつもあるだろう。
「……結局、この場所はどうなるんですかね」
「さあ、全く見当がつかん」
すると土居部長が俺たちを見て言った。
「まあ、災害の事を考えるとこれだけの空間がここに存在するのは危うい。耐震基準をクリアしてるかどうかも分からない。とは言え、砂やセメントで埋め尽くすことはほぼ不可能だろう。資金的にもな」
確かに大地震でも起きようものなら、地上にあり得ないほどの穴が開いてしまうだろう。
「現実的な方法としては耐震構造の柱を建てることでしょう。まあ、それでも結構な資金が必要となりますが」
北浜常務は周りをライトで照らしながら言った。
「北浜君の言うことが一番正解に近いだろうな。だからここには近づかない方が良いと言ったのだ。どう転ぶにしろ莫大な資金が必要となってくる」
なるほど、物理的ではなく経済的に危険だったというわけか。
話の規模が大きすぎて、私はどういった感情を持てばよいのか分からなくなってしまった。
「善悪で語ることはできませんが、当時の人たちのその熱狂的な夢を想像すると複雑ですね。楽しいことをずっと続けたいという単純な気持ち。企画した人たちはバブルの狂騒をここに閉じ込めてしまったんでしょうね」
そう、私が結果として彼女を家に閉じ込めてしまったかのように。
「うーん……いや、微妙に違うと思うな。それを本人たちが認識してたかどうかは永遠に理解不能だが、これを企画した人たちはバブルの狂騒を閉じ込めたかったんだと思うよ。自分の手元にね」
「えっ……!?」
「どこまで行っても人間は自分本位だからね。とは言え、別にそれが悪いというワケじゃない。結果としてこうなった、というだけだ」
私が……里帆を……閉じ込めておきたかった……?
いや、私は北浜家と橋本家の関係、そして最終的には彼女の事を思って……
「おい、どうした橋本。ここは空気も悪い。そろそろ戻るぞ」
「……あ、はい」
そこからの記憶はそれこそ酔っている時のように朧げで、ただひたすら土居部長に頭を下げていた記憶しかない。
そんな私を見て北浜常務は何かしら気づいてはいたようだが、何も言わずに休憩所まで戻り、その日はそのまま現地解散ということになった。
帰宅してリビングに座りあの日の事を思い出す。
今になって考えてみれば、なぜあそこまで頑なに希望大学へ行くことを拒絶したのだろう。
経済面なら、私は就職が決まっていたのでそこから少しでも出すことは出来たし、後々が少し辛いが奨学金だってある。全額用意できなくともある程度こちらで出して、後は北浜家に頭を下げれば良かった話なのだ。
北浜家に迷惑をかけたくない想い……いや、単純に私の見栄とプライドの問題か。そして、彼女を手元に置いておきたいという気持ち。
新宿の地下の海は残念だが、ここから海として復活することはあり得ない。せめて処分する際はニュースになって、多くの人に認識されて欲しい。それできっと企画した人たちの想いが幾分かは伝わるであろう。
彼女については海と違って幸いまだ修復可能だ……と思う。もう体裁など気にせず、北浜常務に取り持ってもらい一度じっくりと2人で話すつもりだ。
謝るだけななら簡単だが、その時どういった想いだったのかをストレートにぶつけたい。そして、唯一の肉親としてやりなおしたい。
夫婦は別れてしまえば他人だが、兄妹は死ぬまで兄妹だ。
まずは数年前に書こうとして止めてしまった手紙を書きなおそう。そしていつかは笑って新宿の海の話をしてあげよう。
(完)
新宿の海 アイク杣人 @ikesomahito
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