02


 電気ケトルで尿を沸かす輩がいるらしいぜ。

 鍛えられた身体を姿見に写しながら、男は言った。ごうごうと回る換気扇。安っぽく繰り返されるピアノの旋律。めるろは黙って寝返りをうち、自身の性器に指をあてがう。分泌液はとうに乾いている。固まった陰毛を右手の親指と人差し指でほぐし、そっと鼻に持っていくと、蜜のような、甘やかな香りが広がった。きたない、と口に出す。男はそれがケトルの話だと思ったのか、とんでもない変態がいるものだよな、と笑う。めるろは男の元へ歩き、彼の幹のような身体を後ろから抱きしめる。

「相変わらず、筋肉すごいね」

「鍛えているからな」

「体温も温かい」

「平熱が高いんだ」

 暖を取るように、男の背中に頬を押し付ける。甘えられた男は機嫌を良くして、彼女の指を手に取り、その付け根へと口付けていく。めるろは黙ってされるがままになっている。どうしてラブホテルというのは、部屋のグレードに限らず、空気が濁っているのだろう。この安っぽい、生乾きのようなどんよりとした匂いには、いつも息が詰まる思いがする。

「噂の彼氏は元気なの?」男が尋ねたので、頷く。

「セックスは、しないの?」

「こんなふうにはしない」

 めるろは男から離れて、くしゃくしゃになったシーツに弾みをつけて横たわった。呼応するように男も隣に倒れ込み、彼女の細い腰を抱く。大きくて、ごつごつとした手がめるろの白い太ももを行き来する。目を閉じる。彼女の世界は黒くなる。しっとりとした甘やかな愛撫。肌が泡立ってくるのを、彼女は感じる。

「キャンプの話、聞かせろよ」

「しつこいな」

「気になるじゃん?」

「楽しかったよ、あんたといるよりずっと」

 そう返すと、なんかムカつく、と男は笑って、彼女の乳首に触れた。乳頭のまわりをゆっくりとなぞられると、先の突起は生き物のように、硬く大きくなっていく。彼氏とはできないこと、たくさんしてやるよ。耳元で囁かれる言葉を、めるろはされるがままになって聞いている。もう、四回もしている。そろそろ帰りたい、と思う。

 恩田とのキャンプを思い返すと、正直なところ、よく分からないものだった。彼の作ったアクアパッツァと持ち寄った缶ビールこそ、至高だったけれども。彼は、忘れてきたテントを調達したかと思えば、火を見なきゃあね、と言って、薪を探しに行ってしまったのだった。新品のビニールの匂いがするテントに置いて行かれためるろは、唖然として火おこしに執着する自分の男を見つめた。カップルで、それもあたしのような綺麗な女と来ているのだから、もっとこう、やること、ないの!? しかし彼女の男は背中を向けたまま「めるろちゃん、火はいいぞお」などと笑うだけではないか。興された火はかたちを変えながら揺らめいている。くすぶる煙の匂いが目に滲みた。煙たそうに手を振り払って隣にしゃがんだめるろに、恩田は言った。おれねえ、やっぱり火が好きなんだ。死ぬ時は火だるまになって死にたい。炎に溶かされて、灰になって昇ってゆけば、もといた場所に、戻れるような気がしている。もといた場所って、どこ? めるろは尋ねる。恩田は少し考えて、わからないな、わからないけど、自分が落ち着ける場所がもともといた場所なんじゃないの、と言う。痛いのは、嫌よ、とめるろは独りごちたが、彼女の男は気にかけることもせず、ひたすら火に見入っていた……。

「濡れてきたよ、めるろ」

 腕の血管を目立たせながら、裸の大男は言った。めるろは相手の目を見ながら浅く頷く。いやだなあ、と思った。ばかみたいな声が出た。ばかみたいな顔をした男と、ばかみたいな声をあげて、ばかみたいなことをしている。この男はあたしが好きなのだろうか、と思う。あたしはこの男のことが嫌いではない。まあ好きというわけでもないけれど。男も一緒なのだろうか。

 不規則なため息をつくめるろを見て、男は尋ねた。彼氏のより、いいか。言えない、と言うと、「言わないのなら抜く」と口調が強くなる。めるろはいや、いや、と言いながらも、男の腰を足で締め付ける。とうとう口から出た、いいの、彼氏のよりいいという言葉に、男は興奮し、小さな肉のうえを乱暴に行き来する。

 恩田と。めるろは言いたかった。


 あたし、恩田としたこと、ないのよ。


 正確には、したけれど、うまくいかなかった、と言った方が正しい。恩田は、途中でセックスに飽きた。ーーそうめるろは解釈した。どんな男とするときよりも、手入れは怠らなかった。恩田なんかのために、とは思ったが、彼女の柔らかでみずみずしい肉体が、シーツの上で最も美しく映えるよう、繊細な下着やアクセサリーも新調した。恩田の甘い息が、視線が、彼女の頬に当たってやわらかく溶けること。その瞬間を想像して、めるろは頬を染めたものだった。しかしそれが挿入され、めるろが腰をあげて奥に誘導した矢先、彼は言ったのだ。

「やめよう」

 どうして、とは言わなかった。言えなかった。口から出てこなくなった。代わりにめるろからは、彼を励ますような、物分かりのいい言葉が出てきた。いいのよ、それが目的じゃないのだから。恩田が自室に戻り、論文の執筆に戻ると、めるろは毛布に包まったまま、どっぷりと浸かるような、溺れるような秋の夜を過ごした。恩田は、あたしでは「いけない」。そんな考えが頭をよぎるたびに、自分という存在がみるみるうちに萎んでいくのを感じる。理由を問うのもナンセンスだ。あたしではいけない。ただそれだけの事実。この男の役に立つことができないという、客観的な事実。その恐ろしさが、後回しにしていた男たちに伝わった。微笑みながらもこうなることは分かっていた、という勝ち誇った顔で、男たちはめるろを迎えた。恩田が無理なら、その分は、別の男で埋めればよいのだ。あたしは単に恩田のたましいが好きなのだから、肉体まで求める必要は無い。たかが、肉体なぞ、恩田でなくてもよい。男の身体とは、いつだって代替可能であるのだから……。

「そろそろいくよ」と、男が言う。

「いいよ」とめるろは言う。

 射精するときに「いいよ」と言われると、気分がいい、とは、この男が言ったことだった。めるろは男との行為を重ねるたびに、客の煙草の銘柄を覚えているような気持ちになる。彼女はだんだん学習する。お酒の出し方、甘やかな笑い方、頷き方、ドレスの見せ方、男たちへのおねだりの仕方。同じように、仕事の一つとして、この男の喜ばせ方を知っていく。ゲームみたいだ。ばかみたいな声。男が好んで撮る動画に映る自分の、「乱れた」、わざとらしい表情。

 尿を沸かす人間より、自分の方がよっぽどいやらしく不幸だと、めるろは少しだけ、思う。





 楽しかった? なんて、聞くものだから、不機嫌になって、バッグを棚に置いた。ほんとうに友達と遊びに行ったと思っているのだ! 恩田はめるろの立てる乱暴な音に一瞬だけ振り返り、様子を伺うようだったが、彼女は構わずシャワーを浴びに向かった。音を立ててバスルームの戸を閉める。ひりひりと痛むほどの熱い湯を頭から浴びると、染み付いた悪意が赤いペディキュアへと伝わり、汚れとともに排水溝へ流れてゆくような気がした。

 恩田の家に転がり込んできて、しばらく経つ。どれだけめるろの物が増えようが、恩田はなにも言わなかった。めるろは浴室に置かれた、バスソルトやスクラブや、ボディソープを眺める。すべて自分が置いたものだ。恩田は石けんひとつで身体を洗うものだから、もともとここには何もなかったのだった。身軽な男。石けんひとつで日々の醜悪を洗い落とせる男。他に女はいなさそうだ、とめるろは思う。しかしもし恩田が自分のようなことをしていたら、と考えると、気が狂いそうになるのだった。恩田は彼女が「戻るべき場所」でなければいけない。そして、願わくば恩田にとっても彼女がそういった場所でなければいけない。セックス。セックスさえできれば、あたしの不安はなくなるはずなのに、めるろはそう考え、少しだけ泣きそうになる。シャワーの温度をもっと強く当てて、全身で浴びた。

「恩田、あたし、もう寝るからね」

 バスルームから出ためるろは、恩田の細くてなだらかな肩に、そう声をかけた。恩田は執筆する手を止め、おやすみ、めるろちゃん、と笑った。彼のだらしない、口が半開きになるような顔を見るたびに、これでいいのだと思う自分もいる。たかがセックスをしないからといって、責め立てて、恩田がいなくなってしまう方が、苦痛なのではないか? それに、男たち……つまり恩田以外にも拠り所がある、という事実は、めるろの心身を思いのほか安定させている。そう、肉体と精神は、別々によりかからせた方が、うまくいく。恩田にこれ以上寄りかかってしまえば、いつか傷つく。いつか自分を喜ばせないことが、いつか自分の思い通りにならないことが不満となって、大きくなって。そしてきっと嫌になる。二十二歳のめるろには、それが嫌でも分かっていた。

 目を閉じる。男の生温かい吐息が耳に残っていた。寒気がして毛布を頭まで被る。あたし、男に抱かれてきたんだよ。恩田よりもずっと体格のいい、見た目のいい男に。そう恩田に、知らせたかった。しかし一方ではまた、絶対に知られたくもなかった。

 遠くでミルを挽く音がする。ごり、ごり、と豆が音を立てる。コーヒーの豊満な香りが漂い、恩田の生活がめるろの身体にまとわりつく。寝返りを打ち、ため息をつく、が、彼はやめない。振り切るように首を振る。恩田はやめない。起き上がる。やめない。近づく。やめない。ごり、ごり、ごり、ごり! ああ、もう!

「うるさいっ」

「あれ、めるろちゃん、起きてたの? なんかこれ、壊れちゃったみたいでさあ。日曜、一緒に買いにいこうぜ」

 何がコーヒーよ。何が日曜よ。あたしだっていろいろ悩んでいるのよ! そう言いたくなるのを我慢して、めるろは毛布を被りながら恩田を睨んだ。恩田は「おかしいなあ」と呟きながら、しきりにミルの底を眺めていて、めるろの剣幕に気づきもしない。


 町に出るのは久しぶりだった。普段は生活のリズムが合わないふたりだし、ふつうの恋人がするような、デートらしいデートもしたことはなかった。恩田は長い腕をぶらぶらとさせながら、めるろの隣を歩いている。小柄だが肉付きのよく、とても美しい彼女が歩くと、周囲の人間の時間が止まるのにもーーつまりみんながちぐはぐなふたりに注目するのにもーー、彼は気づかない。めるろはちらりと恩田を見たが、彼は全く動じない様子で歩いている。

「家電量販店デートだね、めるろちゃん」

「やめてよ、変な言い方するのは」

「コーヒーは、インスタントじゃいけないよなあ。やっぱり、手回しでなくちゃね」

「よくわかんない、あたし」

「はまるよ、絶対。めるろちゃんが飲んでるスタバのラテよりおいしいよ」

「あたしはカフェラテが好きなのよ」

 自分でも、どうしてこんなふうに中身のない幼い会話をしているのか、分からなかった。ただ、嫌ではなかった。恩田の少し高い声や、引きずるような、訛っているような、優しい話し方は、いつもめるろを安心させた。確か、新潟生まれだっけ、彼。恩田がいつか話してくれた故郷の話をめるろは思い出し、ふいに胸がつかれる思いがした。雪国。肌を刺すような冷たい空気。恩田の白くて高い鼻を、ほんのりと赤く染めるもの。めるろはふたたび泣きたくなる。なぜかわからないけれど、泣きたくなる。恩田と付き合い始めてから、なんだか涙脆くなったようだ。そっぽを向いて、恩田の指に触れると、彼は手を握ってくる。デートだ、デート。さいきんしてなかったから、新鮮だね。こいつは浮かれている、と思う。そしてあたしも。内側からじんわりと溶けていく甘いチョコレートのような照れ臭さを、めるろは心に横たわらせた。でも、これ以上望んじゃだめだ。人間の欲望には底がなくて、これじゃあ、もっと触れたい、もっと近くなりたい、もっとセックスがしたい、もっと、もっと、もっと、欲しがってしまう。

「怖い」

 恩田は聞き取れなかったのか、穏やかな目でめるろを見返した。迷惑はかけまい。この人には。めるろはきゅっと唇を結んだ。いつのまにか、目の前には大きな家電量販店が聳え立っている。



 恩田はコーヒーミルのブースを見にいくことはせずに、端末の並んでいる一角に身を置いた。彼はそれらを片っ端から触って、自分の持つ端末と比較して何かを呟いていた。ときどき人差し指で宙に何かを書き、(計算していると思われる)頷いたり首を傾げたりする。そういうときは、一人にさせるのがよいのだった。いくら話しかけても、ああなってしまっては、しばらくの時間は自分の世界から帰ってこない。めるろはひとりで美容家電のコーナーを歩き、これまでうんざりするほど試してきた多くの美顔器を、道端の石でも見るように眺めていた。彼女は、あのような風変わりな行動をする恩田を、恥ずかしいだとか、不快だとか、思ったことがなかった。女友だちは、口を揃えて変わっている、あなたらしくないと言うけれども、めるろにとって周りの目を気にせずに振る舞う恩田は、眩しかった。他者の評価を内なる拠り所として大切にしてきためるろである。恩田のようになりたい、と思う。でも、なかなかなれない。だからいつも苦しんでいる。

「お前なんでこんなところにいるの」

 ふいに声を掛けられ、振り返ると、この間寝た男が立っていた。めるろは彼がメーカーのジャージーを着込んでいることに気づき、首をかしげて見返す。男は仕事だと言って顎で商品をしゃくる。ここの販売員なの、と尋ねると、不快そうな顔をさせて、営業の一環で、応援に来ただけだという。めるろはこの男が、自らの会社に誇りを持っているのだとつくづく思う。少なくとも彼女は仕事ーーアルバイトのラウンジ業に、誇りなど持っていなかった。もちろん卑下していたわけでもないけれど。この男はよく、労わるようにして彼女の職業を褒めたが、その裏には、夜の街で働くおんなだから、という前提があって、めるろはよくそれを感じとったものだった。

「彼氏ときたの」

「彼氏? どこにいるの?」

「スマホコーナー」

 男はちょっとそちらをうかがうふりをしたが、すぐに辞めてめるろを見た。めるろはばつが悪くなってうつむいた。この男の見た目が好きだと思う。この男の筋肉のついた上半身と、しっかりとした顎、女性らしさを感じさせない広い眉目が好きだと思う。

「やりたくなってきた。トイレ行こう」

「あなた、仕事は?」

「いいよ、平日だし、どうせ誰もカメラなんか買わねえ」

 男は優しく案内をするようにめるろを手洗い場に行かせ、少し時間を置いて入ってきた。そして慣れた手つきで多目的トイレの鍵を閉めた。彼は勢いよくめるろの尻に触れ、煙たい甘い香水の香りさせて密着する。恩田のことを気にしながらも、男に抱きしめられると、めるろは手を伸ばし、その太い首に巻き付けないわけにはいかなかった。男の匂いが、男の唇が、男の強引さが、めるろをひとりの女にするように感じた。求められているように感じた。必要とされているように感じた。めるろがのけぞるそぶりを見せると、そこに来るのが当たり前のように、首筋には男の舌が這う。

 男は自分の性器をめるろの喉元に押し当てた。めるろは黙ってそれを口に含む。味のない、しかし血の通った鈍器のようなそれを先からふくみ、喉の奥をつかって前後させる。裏すじに舌を沿わせて啜りながら、右手で彼の尻を撫でる。男の尻は硬い。めるろのたよりない、果実のようなそれとは似ても似つかない。恩田の尻も硬いのだろうか、一緒に暮らしているのに、そんなことさえめるろは知らない。男はめるろの喉奥までそれを引っ掛けると強引に動かしてめるろを涙目にさせた。

「おまえは本当に好きだな、こういうのが」

 変態、とののしる男はめるろに手すりをつかませ、後ろから挿入する。準備のできていないめるろは痛がるが、その様子に男は余計興奮し、スピードを早めてゆく。ふわふわと宙に浮くような、快楽とも痛みともいえぬ感触を下腹に感じながら、めるろは小刻みに上下に揺れる白い手すりを見つめていた。ああ、意識が離れてゆく。自分の肉体をどこか遠くから眺めているような気がして来る。どうしてこんなことしているんだろう。そんな考えが頭をよぎった瞬間、なんだか泣けてきた。気もち良くなんて、ない。いくこともめったにないめるろだ。一人で触る方が適当な快楽を得られるに決まっている。どうして、この男とこんなことをしているのだろう? なんであたし、こんなに不幸なんだろう。ここには無意味な時間が流れている。無意味な生を生きているあたしがいま、ここに、存在している。ああこの男はあたしのことなんかこれっぽちも好きじゃない。そしてあたしもこの男のことなんか、セックスなんか、まったく、ぜんぜん、好きじゃあ、ない。

「なあ、今度は彼氏呼んで三人でやろうぜ、見せつけたい」

「もうしたくない」

「え、なんで」

「……なんでも」

「なんでこんなことしているのか、分からなくなっちゃった?」

 物分りの良さを示すように、男はやさしくそう尋ねた。めるろはだまって首を振り、精液を拭き取ってその場を後にする。レジの方へ向かうとちょうど恩田が大きな紙袋を受け取ったところだった。恩田はめるろに気づきまんめんの笑顔で手を振る。何にも知らない。あれは、なんにも知らない男。気の利かない男。何も求めてこない男。あたしの男。

「恩田、早く帰ろ、早く」

 恩田は不思議そうに見返したが、めるろは彼の背中を押して量販店を出た。何を思ったのか、恩田か髪に触れてくる。それからくしゃくしゃとめるろの頭を撫ではじめた。乱れた髪を直す気もないまま、人通りの少ない駅までの道のりを、ふたりは歩いた。




 アパートにつくやいなや、めるろは相手の首元にかじりついた。恩田は短い悲鳴をあげ、持たれかかる彼女を慌てて抱き起こす。

「恩田、したい」

「何を?」わけがわからないといったふうに首を傾げる恩田を、めるろは見上げる。

「セックス」

「どうした、めるろちゃん。発情期か」

 あたしと。あたしとセックスしてよ、いますぐに、ここで。めるろは懇願した。あたし、セックスしないと愛されてるってわかんないんだよ、今すぐしてよ、ここでキスして殴って首を絞めてよ。あたしの罪悪を覆い隠してよ。恩田は困ったようにめるろの肩に触れ、そのまま指先を耳へと持ってゆく。たまらなくなってキスをした。薄い形の良い下くちびるを吸ってみる。すると恩田のやわらかい舌が入ってきて、めるろの口蓋をさらりとなぞった。驚いているうちに、めるろの脚は持ち上げられる。男はしゃがみ、彼女の脚の付け根にゆったりと口付けながら、床へと横たわらせる……

気づくと眠っていた。途中で眠ってしまったようだった。めるろは何度かまばたきをして天井を眺めた。横目で見ると、恩田が隣で横たわっていた。

「おんだ」

 覗き込むと、恩田は寝息を立てていた。めるろはちょっと笑って、もう一度はゆっくり呼んでみる。呼びかけないで、独り言みたいにして。

「おんだ」

だ、の音が、宙に浮いて、ぐるぐると回って自分の肌に静かに沈みこんでゆくのを、めるろは感じた。この生活が好きだ、と思った。このあたたかい寝息。車の通る音。ときおり吹いてくる秋の風。男の清潔な脇の匂い。好ましい。安心する。愛というのは、安心する、という気持ちそのものなのかもしれない。めるろはどこまでも自分主体なその考え方に思わず笑ってしまう。恩田はこんなこと、一度だって考えたことがないのだろう。目の前で起こることをひとつひとつ受け止めて、証明を解くみたいに、向き合っているだけ。めるろみたいに執拗に捏ねくり回したり、悲観的になったりしない。その単純さ。その純粋さ。その明快さは、ときに、めるろの先をゆく。この男は、あたしよりも高いところにいる。低いところから、あたしはこの男を見上げるときがある。

「あたし、自分がこわい。ほんとうはうまく生きたいのに。人に優しくして、明るくなって、ダメなことはダメだって律して、しっかり生きていきたいのに。いざそうしようとすると、忘れちゃう。心は上を向いているのに、身体はなんにもできないの。ダメだと思っていても、身体が深みに入っちゃうの」

見上げると、彼は薄目を開けていた。めるろはばつが悪くなって顔をそむける。やわらかい午後の陽光が恩田のなめらかな肌を照らした。彼が眩しさを避けるためにこちらに向かい合わせになったため、白いひかりはこぼれるように床へと落ちた。

「めるろちゃんは、もうちょっと、わかるべきだ。自分のこと」

「……自分のこと?」

「なにが好きで、なにが嫌いなのか、わかるべきなんだ」

そう言うと恩田はあくびをして、ふたたびまどろみ始めた。やっぱり変わっている。いつもいつも、よく分からないこと言ってくる。しかしめるろはふいに喉元から熱い、どろどろとしたかたまりが込み上げてくるのを感じていた。わかっていいのだ、自分のこと。ちゃんと、正直に、言ってよかったんだ、いろんなこと、いろんな思い、いろんなあたしのこと。

この人はすべてを知っているのかもしれない、と思った。いっぽうで、なにも知らないのかもしれない、とも思った。昼下がりの休日は、しんとしていた。そっと彼の胸に手を置いてみる。呑気な男の薄い胸板が、ゆっくりと、おだやかに、いつまでも、上下している。

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