ゆくすえ

古橋

01


 恩田はなんでもない男だと、めるろは思う。とりわけうつくしい顔だちでもなければ、逞しい肉体を持ちあわせているわけでも、ない。なんでもない男だ。細くて角ばった肩は、科学博物館に展示された恐竜のレプリカに似ているし、白くて尖った耳は、なんだか夜行性の動物を思わせる。めるろちゃん、おれ、いいこと思いついちゃった。いつだって恩田は、めるろの耳に口を付けてきて、そう誘うのだった。キャンプに行くのはどうかな。おれ、たき火の炎をひたすら見たい気分なんだ。なんだよ、たき火って! お前は、思春期の中学生か⁉︎ そう思いながらも、特にゆくあてもない彼女は、今回もこうしてキャンプ場へと足を運ぶことになってしまったのだった。

 夕暮は、木々や河原、人の熱気、何もかもを飲み込んで、なかったことにしてしまいそうで、めるろはやきもきとする。あほらしい、と思う。キャンプもそうだが、何より、恩田! 彼とのっぴきならない間柄になってしまったことが、あほらしい。めるろはため息をついて、先ほどから感じていた視線に注意を向けた。横目で見ると、ふたり組のキャンパーが、どちらが先に彼女に声をかけるか、迷っているようだった。めるろは面倒ごとを避けるように顔をそむける。恋人が今にもちょっかいを出されようとしていると言うのに、恩田はいない。つくづく、いてほしいときにいてくれない男だ。彼はキャンプに肝心のテントを忘れ、「やべえ、やべえ」と頭を掻きながら買いに行ったのだった。そういうわけで、彼女はかれこれ一時間以上も、この場所で待ちぼうけを食っている。

「何でまた、あんな男なんかと」

 女友達がそう呆れるのも、しかたのないことだった。だって、あのめるろが。いつも用心棒のような肉体を持つ男たちを侍らせ、夜通し遊んでいためるろが、こんなに冴えない、ぱっとしない恩田と結びつくなんて! めるろにも、分からなかった。どうして自分が、こんな暗算ばかりが速い男なんかと──大学数学の証明の話ばかりする男なんかと、ままならなくなってしまったのか。腹がたつ。本当に。

 寄ってきた男たちの口が、餌を求める魚のようにぱくぱくと動いているのを、めるろは見た。このような表現は、いくぶん変な感じがするかもしれない。しかし近頃の彼女は、自分の感覚が、肉体と離れて機能しているように感じられるのだった。何か返さなければ。そう思う。しかし、彼女の脳は声帯に働きかけなくなるのだった。遠い。意識と肉体が、遠い。では、彼女の器官は本当に使い物にならなくなっていたのか? そうではなかった。彼女の器官は機能していた。意識とはほど遠くで。唇が勝手に動き出すのだった。まるでひとつの身体にふたつの人格が入っているかのように。愛想のよいあいさつ。ええ、自然が好きで。恋人が、連れてきてくれて。恋人も一緒に来ているんですか? そうなの。忘れ物をして、それを買いに行っているの。酷いなあ、俺だったら絶対にそんなことしない。こんなに綺麗な人、絶対に一人になんかしないっすよ。話せば話すほど、めるろの声と意識は離れていく。何もかも、恩田のせいだ。恩田と付き合ってから、彼がいないと、まるで病気になったように、心もとなくなる。彼女は男たちを見上げ、ふたりのうちの、筋肉質の方の口元が、出っ歯であるのを認めた。もう一人の方は、背ばかりが麒麟のように高くて、表情が読み取りにくい。やわらかな陽に染められためるろは、せせらぎの音をさせる小川をポーチから見下ろした。絶え間なく流れる水は、岩にぶつかると、ふたてに別れ、やがて元通りとなって流れていく。泡沫はしかももとの水にはあらず。恩田との月日も、めまぐるしく過ぎていった。交際を始めたのは、半月ほど前のことだったが、めるろは恩田と顔を合わせた日が、まるで昨日のことのように感じられるのである。

 恩田は、めるろの男友だちの友人だった。穏やかで大人しく、めるろの言葉ひとつで世界の秩序がひっくりかえってしまうようなその男友だちは、一番の友人である恩田にめるろのことを紹介したのだった。彼の熱を帯びた視線にうんざりしていためるろにとって、恩田との出逢いは退屈しのぎのための絶好の機会だった。彼女は髪をかきあげ、彼女の細く尖った顎が最も美しく見えるように角度を調整させて、恩田を見つめた。それから先は早かった。あっという間に男友だちを酔わせためるろは、甘ったるい声で恩田を飲み直しに誘った。恋人の(当時のめるろにとって、恋人とは、彼女に都合のよい振る舞い方をする男たちという意味であったが)友人、という立場ほど、めるろを楽しませるものはなかった。恋人の友人と寝る。その背徳感。目の前がちかちかと暗転するような、タブレットの作用のような幸福感。めるろはカンパリをゆっくり飲んで、それから恩田の指を口に含んだ。男の指はいつも潮からくて、海の近くで育っためるろはなつかしい思いがするのだった。これを──ウニのように生臭くてとろけるこれを、どんなふうに吸えば、思うように扱えるのかを、めるろは知っていた。知り尽くしていた、はずなのだけれど。

「めるろさんて、最初見たときはすげえ美人だと思ったけど、よく見たらそうでもないですよね。名前もヘンだし」

 めるろは慄然として、指の持ち主を見つめた。こういう風に気を引こうとする異性を、彼女は当然、心得ている。しかし、恩田の眼にそのようなたくらみは認められなかった。たいていの人間が持つ、揺さぶりをかけて意識されたい、というたくらみ。その期待が、なかった。正直なのだ。めるろは思った。なんて正直な男だろう⁉︎ 恩田は何も求めない。その場所に、めるろが存在していること、めるろの肉体が実在しているという事実、それだけしか求めない。そんな人間を、めるろは知らなかった。見えないものを欲しがらない男。ありのままの言葉と実在にしか頼らない男。いかれている、と思った。同時に、この男が必要だ、と思った。彼女の人となりを、より成熟させるため──より高めるためには、この男のいかれた部分が必要だと。

 ふたりが付き合うのに時間はかからなかった。恩田は二つ返事でめるろの誘いに乗り、めるろは容易く彼をものにした。恩田は世界を持っている。たましいに確固とした軸を持っている。それが、めるろを喜ばせる一方で、彼女をまた絶望もさせた。もともと自分の思考は、男性的だと思っていたけれど、まさか、自分にも、女性的なもの──という言葉をめるろは嫌々ながらも使ってしまう──理屈よりも感情を優先したくなる瞬間が、生まれてくるとは! 月経のメカニズムを丁寧に、理論的に説明しなければならないなんて。今までそんな男は居なかった。みんな、めるろの機嫌を察して動き、自らめるろの手足となることを喜ぶような男たちだった! 一方でめるろは女友だちから不出来と言われる恩田を、面白くも感じていた。それもそうだ、と思った。だいたい、教えられていないことなどできるはずがない。乗法の存在を知らない子どもに、どうして除法が解るだろう。とはいえそんなふうに思えるのはめるろに余裕があるとき、に限られていたわけだけれども。

「あたし、恋人のこと、すきなんです。だから、お兄さんたちとは遊べないのよ」

 ようやく意識と肉体が追いついた。そんなふうにほほ笑んだ矢先、彼女は目を丸くした。だって、視線の先にはあぐらを掻いてこちらを見ている男がいるではないか! あれは、あの奇妙な身体つきの男は、確実に、彼女の男であった。めるろは顔をしかめながら、叫んだ。

「なんで、そんなところにいるのよ」

 男はしなやかな左腕を挙げてゆっくりとこちらに近づき、いやはや、どうも、どうも! と男たちに握手を求めた。めるろは肩を大袈裟に前後させ笑う自分の男を、冷たく見やる。

「いやあ、テント買えたよ。ごめんなあ、めるろちゃん。これでめるろちゃんの寝床は確保できたぜ」

「そうじゃなくて、いつから戻っていたわけ? ごらんのとおり、ナンパされていたのよ」めるろはそう言って男たちを顎でしゃくった。「何していたの?」

「だって、めるろちゃん、キャバ嬢だし、プロだろ。それに、ほんとうに助けてって、思ってた?」

 「そんなことよりさ」と恩田はパンツのポケットを探った。キャバじゃなくて、ラウンジだから、と訂正するのも面倒になっためるろは、恩田の手のひらに乗せられた、くしゃくしゃになった小さな紙包を眺める。あげるよ、という恩田に、黙って受け取り、中身を取り出す。

「なにこれ、キーホルダー?」

「ここのキャンプ場の、イメージキャラクター! めるろちゃん、かわいいもの好きだろ。今日のバッグにつけるといいよ。おれもおそろいで買ったんだ」

 そう言って、恩田はキーケースを持ち上げ、見せつけた。銀の塊の中に、ちょっと困った顔で舌を出す、野菜なんだか果物なんだか解らないキャラクターが揺れていた。ださい、と思う。あたしのレディディオールにもつけろだなんて、ディオールへの冒涜だ、と怒鳴りたくなる。だいたい、おそろいという響きもださい。中学生みたいだ。ださい、ださすぎる。それなのに。

「かわいいじゃん」

 そうだろ。恩田が満足げに頷く。めるろはぶぜんとして彼を見つめる。どうして、こんな男と付き合っているのだろう、と思う。どうして、どうして。問うているうちに、だんだんおかしくなってくる。笑えてくる。この男のださくてばかばかしい所が、とてもいとしいのだ。訳の分からないことを言うこの人間に、あたしはとても興味をひかれるのだ。誰に教えられなくても、わかるようになってくる。

 陽も落ちる間際。キャンプ場にて。めるろに話しかけた男たちは、笑い合うふたりを、困ったふうに見つめるほかなかった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る