午前0時まであと何秒

石濱ウミ

第1話

西暦2526年

40秒まえ



 終末時計が針を進めたり戻したりしつつ、残り僅か40秒となったことを、したり顔にも似た顰め面で全世界に知らされたこの日。

 至って人類の終わりなんて見えそうのない同じような毎日をただ繰り返すだけの僕は、有り難いことに相変わらずの雨男だった。


 傘を片手に、勤めている研究所の廊下を歩き、与えられている部屋へと向かう。

 開閉式の雨傘、というものが一般的に使われ始めたのは18世紀のイギリスといわれているが、26世紀になった今でも、その構造が変わらないと知る人は、果たして、どれ程いるのかと考えたことがある。

 が、しかし便利、不便を考えるまでもなく、傘のことなど誰も気に掛けてはいないことは確かだ。だからこそ、今日こんにちまで傘の姿は何も変わらないのだろう。

 

 そこに目をつけたのが、僕の勤めているクレイオ物理学研究所だった。

 

 デスクに傘を立て掛け、椅子に座って本の文字を目で追っていると、同僚のリアン・きざはしは部屋に入って来るなり僕の手の中にあるものに目敏く気づいた。


「ナユタさん、それ。いつも持ち歩いて暇さえあれば読んでるみたいですけど、何の資料ですか?」


 白衣を羽織りながら僕を見て首を傾げる。


「資料? ああ、違うちがう。これは個人的なやつ。小説の文庫本」


「え? 紙媒体で? いわゆる文学ってやつを、わざわざ? もしかして、で自分用に買って来たとかですか?」


「うん。僕は……この作者が好きなんだ」


 僕は閉じた本を膝に置くと、そうっと表紙に触れた。


「また随分と面倒なことを。文字を目で追うなんて、仕事に使う文献や資料だけで充分ですよ。娯楽としての小説は、やっぱりもらうからこそ、物語にのめり込むことが出来るんだと思いますけどね。

 それに、昔の小説って作者が決めた、たった一つの結末しかないでしょう? 納得のいかない終わり方もあるし、話の途中で何でこうなるんだよとか、自分が気に入ってた人が死んじゃうとか……読んでいて楽しいですか? 学生の頃に授業で読まされた自分は、ストレスしかないですけどね。幻想小説だか純文学だか知りませんけど、え? これで終わるの? で、結局何が言いたかったんだよ、何がしたいんだ? みたいに、何だかよく分からないまま終わったりするのもあるし。

 正直、今の小説と違って古典文学なんて、こっち読者は一方的に作者の世界観を押し付けられてるだけでしょ。そんなんで、本当に面白いと思えるんですか?」


 滔々と捲し立てたリアンは、続いて訝しげな表情で、僕の手にしている本を顎で指した。

 ふっと笑った僕に、リアンの両目が開く。


「そりゃあ、面白いよ。そもそも小説ってのは、そこに書かれていることが全てじゃないからね。

 何と言えば良いかな……昔の人は行間を読むと言ったんだけど……残念ながら君には通じないか。まあ、脳の使い方が違うから、現在の小説とは比べようがない。目で文字を追いながら文章に含められたものを探りつつ読むんだ。文字は文章になることで、幾重にも意味を生じさせることが可能なんだよ。だから読む度に、受ける印象が変わる。

 慣れれば、凄く深い世界が。それに作者の世界に取り込まれて、自身で思うようにならないからこそ、面白いんだ。適度なストレスは、刺激スパイスにもなるしね」


「うわ、面倒くさい。思うようにならないのは人間関係だけでたくさんですよ。貴方が変人って呼ばれているのも納得です」


 文字を目で追うことなく、まるで夢を見ているように、脳に直接読み込んだ小説がようになったのは、22世紀に入って少しの頃のことだ。


 当時、有名になった開発者の言葉が今も残っている。


『娯楽の為に小説があるって? 物語の終わり方に納得がいかない。ストーリーの途中に不満がある。そうやってストレスを感じながら読む小説を娯楽なんて言えるのか?』


 そうして作られたのが、【脳に直接読み込ませる小説】である。


 この【脳で本を読む】システムは、寝ている間に見る、そのような『ままならない夢』を都合よく動かせる感覚に近い。

 

 脳内にあるチップに予め読み込ませた小説には、無論のこと舞台装置や物語を引っ張るための仕掛けはあるものの読んでいる人、すなわち脳内で主人公と同化した自分、或いは神視点で好き勝手にストーリーを展開出来る。つまり『新しい小説』は読む人にとって行動、感情、言葉を与えられる都合の良いだけの物語しか存在しない。


 この『新しい小説』が瞬く間に世間に広まっていったその一因として、22世紀のこの頃から脳神経の可塑性を高めるためのチップを脳内に埋め込むことが当然となったことにあるだろう。このチップによってデバイスと人体の直接的な接続が可能となり、人工現実感を体験する際に身体に装着しなければならなかった諸々の機器から解放されたことが上げられる。


 誰もが小説に没入し、自在に物語を展開することが出来る。納得のいかない展開はひとつとしてなく、ストレスは皆無になり、何を読んでも自分好みになる【脳で本を読む】システムは、大衆に受けに受けた。


 同時に、ことが主流になってからあまり間を置かずして、自分の読みたいと思う『新しい小説』を作るようになった人達が現れる。やがてそれら小説は大衆に無料や時に有料で公開され、自分の作り出した物語のみならず、他人が作った物語でも脳に直接読み込ませ楽しむようになった。


 職業としての小説クリエイターも僅かながら存在するが、誰もが自分の作り出した物語のみならず、公開されている他人が作った物語舞台装置さえあれば脳に直接読み込ませのだから、彼らクリエイターの存在価値は低い。


 それに伴い紙媒体の小説本は緩々と姿が見えなくなり23世紀を以て、完全に消え失せた。


「無くなって初めて分かる良さ、なんて言って紙媒体の古典文学を蒐集する好事家がいるんだから、まあ人間とは、つくづくおかしな生き物だと思いますよね」

 その一人を目の前にしてリアンは、わざとらしく顔を顰めてみせる。


「僕は恵まれてるよ。趣味と実益を兼ねているんだからね」


「ナユタさんの場合は高額な文化財を美術品として蒐集するっていうより、純粋に自分で読んで楽しむ為なんですから、そっちの方がよっぽど変わり者ですよ。……で、今日は何年の何処に行くんですか?」


「ああ、うん。2021年、神田神保町古書店街、東京、日本かな」


 答えながら僕はデスクに立て掛けてあった傘を手に取ると、早くも指先は閉じた傘の手元と露先の何箇所かを摘み、回し始める。


「最近その年、立て続けじゃないですか? 場所もそうですけど……でも、なぜ?」


 リアンと顔を合わせるのを避けるため、俯き手元を見たまま僕は、唇だけで笑う。


「……2020年の少し前から暫くの間、疫病が流行っていたからタイムトラベルに都合が良いんだよ。マスクをして顔も隠せるし、出歩いている人も少ない。それに、同じ場所の方が探し物は容易いし、あとは僕が日本にルーツを持つからこそ惹かれるのもあるのかも」


 僕は準備を整え、立ち上がる。それを見たリアンは、いつのまにか手にしていた操作端末を持ったまま肩をすくめた。


「へえ? ま、自分も日系だから、なんとなく気持ちは分かりますよ。でも自分が日本に行くなら24世紀の方が好きかな。……では、くれぐれもには気をつけて下さいね」


 頷きながら僕は、こちらの時代と繋がる21世紀のスマート高性能フォン電話をポケットに仕舞う。マスクをして傘を手に持ち――


 頭の上へ掲げて、開いた。


 



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