第22話

 八月上旬。


 僕は先輩と花火大会に来ていた。夏休みに入り、先輩と顔を合わせる回数も減った。どうやら勉強で忙しいらしい。今まで勉強していなかった分の借金返済に追われているようで、メールが送られてくる頻度も少し減った。今日は一週間ぶりくらいに会う。


 進路については、なぜかはぐらかされた。勉強しているということは、進学で合っているんだろうけど、どこの大学を目指しているとかは教えてくれなかった。誰だって言いたくないことはあるだろうし、僕も必要以上に訊いたりしない。受かったら教えてくれる、ということだったので、来年のお楽しみだ。


 あと少しで花火が打ち上がる。早いうちから場所を確保していたので、結構綺麗に見ることができるんじゃないかと思っている。


 夏になると改めて思う。夏が好きじゃないな、って。めちゃくちゃ暑いし、汗もかく。花火会場は人も多くて、まっすぐ歩くことなんて不可能だ。一人なら絶対来ていない。家でクーラーの効いた部屋で、小説を読んでいる方が有意義だと一人なら、そんな風に思う。そう、一人なら。

 今は隣に先輩がいる。それだけで苦手な夏でも毎日が楽しくて、人で溢れかえる花火会場に行く気にもなる。暗く閉ざしていた僕に光を当ててくれる、太陽みたいな人だと思った。


 高くて、細い音が耳に入ってきた。始まった。

 花火が咲くとき、爆音に少し驚くが、二発、三発と打ち上がれば、すぐに慣れて、真っ暗闇の空を明るく照らすそれに目を奪われる。視界いっぱいに広がる花火は、手が届きそうで、火花がこちらにまで降ってくるんじゃないかと思えた。


 数発打ち上がったところで、隣を盗み見る。先輩の横顔は花火に照らされて、とても綺麗だった。僕の気持ちが言うことを聞かず、口から勝手に出てきそうだ。この空気感にあてられて、いつ出てきてもおかしくない。


「ねえねえ、夏樹くん」


 花火にかき消されないように、いつもより大きめの声で彼女は言った。


「……どうした?」


 話しかけられると思っていなかったので、少し動揺してしまったが、不自然にならない程度の返しはできたと思う。


「また来年も夏樹くんと一緒に花火観たいな」

「急にどうしたの」


 僕は首を傾げて訊いたが、先輩は花火という夜空に咲き乱れる花を見つめ、目を離さなかった。


「こんなに綺麗な花火を来年も観たいじゃん?」

「来年も来ようよ、僕と」

「僕と、なんて言えるようになったんだねえ」


 先輩はニヤニヤして、僕の成長を楽しんでいた。それでも、こちらを見ない。


「僕は彼氏なんだから、それくらい言える」

「なんだか今日はいつもの夏樹くんじゃない! 素直すぎて、なんか怖い。明日雨でも降るんじゃない? それとも、雪?」


 そんな季節外れの雪が降ると思わせてしまうほど、僕が素直になるのはレアなことなのだろう。自覚はしている。


「自分でもこんなに言葉がスラスラ出てくることにびっくりしてる。先輩が僕を変えたんだよ」


 言葉はどんどん出てくるけど、言うたびに顔が火照っていくのがわかる。羞恥心はまだまだ健在のようだ。僕も途中から先輩の方を向けなくなった。こんな恥ずかしいセリフを本人に向かって、言えるほど僕のメンタルは強くない。


「私は一人の男子高校生を変えてしまったのかー。すごいなー」


 先輩はあははっ、と笑い、花火で覆われていない天を見上げた。そして、目を瞑り、幸せだなー、と呟いた。


「先輩、僕は──」


 溢れ出る気持ちが言葉になって出かけたとき、先輩の指が僕の口元に当たって、制止させられた。


「待って。これ以上は……」


 先輩の顔がこちらに向いて、明日この世が終わるんじゃないかと思うくらい、辛そうな顔をしていた。


 どうしてそんな顔をするんだよ……。僕にはわからなかった。


 言葉を発することができなかった。今は花火の音が虚しく聞こえる。


 僕が先を言わないことがわかったのか、また花火に視線を戻す。花火に照らされる横顔は、不自然な笑顔を顔に貼り付けているようだった。先輩はいつもいい笑顔をするから、心の底から笑えていないときは、すぐにわかってしまう。そんな変化に僕も気づけるようになってしまった。


 結局、花火が終わっても、僕らは口を開かなかった。

 人混みを避けて、少し遠回りにはなるが、まっすぐ歩けるくらいには人通りの少ない道を歩き、駅に向かっていた。


「ごめんね」


 歩き始めて、人がほとんどいなくなったとき、先輩が口を開いた。


「いや、僕もあの場の空気にあてられて、柄にもないことを言おうとしてしまった。先輩がそんな言葉望んでるはずないのに。ごめん」

「……望んでないはずない」震える声で言った。

「え?」

「望んでる! すっごく望んでる!」

「じゃあどうして?」

「それは……私は、最低なの。だから、君のその言葉を受け取る資格なんてないの」


 先輩の頬に涙が伝っていた。僕は初めて見る先輩の涙にどうしていいかわからなかった。何か声をかけようとしても、うっ、とか、ぐっ、とか言葉にならない声しか出てこなかった。


 何か言わないといけない。そう思えば思うほど、気の利いた言葉は遠ざかり、近くには何も残らなかった。


「ごめんね。そして、ありがとう」


 先輩は僕より数歩先を歩く。たった数歩先には確かにいる。それなのに、手を伸ばすことができなくて、引き止めることもできなくて、そんな自分が情けなかった。


 いつの間にか僕の足は止まっていて、ただゆっくりと遠ざかる先輩の背中を眺めることしかできなかった。

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