第9話
あの時、何故彼はあの最上階から飛び降りたいと言ったのだろうか。
僕と出会ってから、そんな事など口にするような人柄でもないのに、心のどこかで自殺願望でもあるのだろうか。
仕事場の机の上は原稿やファックスの用紙で積み上がって、散らかっている。
パソコンの画面に写る書きかけの作品は中盤ほどまで仕上がっている。
頭の後ろに両手をかけて、天井をぼんやり眺めながら、彼の事を思い返していた。
とある人物から電話が来て出てみると、彼の妻の凛からだった。後日話したい事があるので、時間を作って欲しいと告げて来た。
彼との関係について聞き出したいに違いない。
1週間後、待ち合わせのカフェに到着して、中に入ると奥の席で凛が待っていた。
「改めまして。筧と言います」
「坂井和馬の妻の凛です」
「あまりお時間を取れないので、要点だけお話ししていただけませんか?」
「この写真、和馬と一緒に写っているの、貴方ですよね」
「ええ。どなたに頼んだのですか?」
「探偵よ」
「探偵ですか?」
「向こうの帰りが遅いし、不自然な動きもしているし。ここ3ヶ月依頼をして和馬の行動を追跡しているの。」
「ありきたりな告白ですが、僕はあの人が好きです。」
「本気で付き合いたいなんて、思っている?」
「できるなら、考えています」
「何もかも甘いのよ。本気であの人があなたを欲しがるとは思れない」
「彼以外の人を好きになることなど考えられないんです」
「いくらでもいるじゃない。貴方はまだ若いんだし、1人の人間にこだわる必要なんてないのよ。まさか、身体の相性が良いから一緒になりたいだなんて、思ってる?」
「それも含みます」
「馬鹿馬鹿しい。…まだあの人から、何も聞いていないから何とも言えないのよ」
「お子さんは何か話していますか?」
「父親が貴方といるところを見て…パパはママより男の人が好きなのって言ってる。正直、ガッカリした。」
「失礼ですが、凛さんは和馬さんがバイセクシャルだと分かっていて、ご結婚されたんですか?」
「知らなかった。子供が産まれて1、2年くらい経った後に変わった行動をし始めたわ」
「何を、されていたんですか?」
「マッチングサイト?って言うの?夜中にパソコンで眺めている姿を見かけるようになって。注意したら、一旦は止めたけど…また新しいサイトに登録して、色んな人に会っているって知った」
「もしかしたら、僕らの知らないところで、言えない事情でも抱えているんじゃないですか?」
「確かに今の仕事はいつ無くなるかわからない職種だから、不安はあるのかもしれない。それとは別に何かあるなら、私に話す人なのよ。それを…何故貴方に向けたのかが分からない」
「そこは、男性同士だからだと思います」
「何か知っているの?」
「妊活が、辛いみたいです」
「それは貴方に関係ないわ」
「でも、アレができない…セックスができない事って、男女ともに辛くないですか?」
「まあ、できないのは大変なのもある。ただ他人の性事情には踏み込んで来ないで欲しい。貴方も、女性で子供を持ったら分かるわよ」
「今ここで答えを出すのは難しいです。和馬さんも一緒に話し合いませんか?」
「そこなのよ」
「え?」
「合わせたところで、和解する話じゃない。まずは貴方の気持ちがはっきりしていないと、次に進めないの」
「次というのは?」
「民事調停。考えているの。そこまでしないと、2人を引き離せない。私はいつだって真剣なんです」
「それを起こす前に僕らが別れれば…事を早く済ませられるという事ですか?」
「ええ。…好きになった人を引き裂くのは辛い事。けれど、子どもの将来を考えたら、良い解決策なの。お願い、あの人から身を引いてください」
「時間…ください。混乱してて、まとまりが着かない。」
「顔を上げて」
「はい。」
「貴方が正直な方で少しは安心しているの。こうやって冷静に人の話を聞いてくれるから…分かってくれる人だと、信じさせて」
腕を組みながら僕の目を見つめてくる、真剣な眼差しが胸に突き刺さった。
分かってくれる人だと、信じさせて。
その言葉が鼓動を打つようにリフレインする。凛はまた次に2人で会う約束をしようと告げてきたが、断った。
その代わり連絡先を交換してくれと話してきたのでアドレスを教えてあげた。
店を出た後、地下鉄に続く長い連絡通路をゆっくりと歩いていた。何本かエスカレーターを乗り、地下歩道を歩き続けた。
地下鉄に乗り、自宅へ続く舗道を歩いて立ち止まった。身体に水滴が滲みている。
スコールのような雨が降ってきた。ただ僕は走る事はせずに、歩き続けた。
自宅に上がり、そのままソファに腰をかけた。
和馬の事をどう別れを切り出そうか、考え始めていた。
スマートフォンを開き、ティンダーのサイトを開いて、会員の削除をした。和馬の連絡先を開き、スクロールして、全て消そうとした。
手が震えている。消せば会わなくて済む。いつか忘れて何もなかったんだと思えれば良い。全て終わらせれるんだ。
その時だった。彼から着信が来て出てみた。
マンションの傍にいると告げてきたので、玄関を出て急いでエレベーターに乗り込み、1階のホールを飛び出して辺りを見回した。
対向車のライトが眩しくて目を細めた。
フェンスの石垣に誰かがいる。近づいてみると、和馬だった。
「どうして?どうしてここに?」
「家を出た。凛と大喧嘩して飛び出してきた。」
「何しているんだよ。俺のところに来るな。帰れ。」
「行く当てがない。」
「ホテルだって、漫喫だってあるじゃん。」
「素顔がバレる。お前しか当たらないんだ」
彼は僕の腕を掴んできた。
「ほら、荷物。しばらく、お前の家に居候させてくれ」
「お前、馬鹿かよ」
僕は彼に抱きついて降り止まない雨の中で、幼な子のように
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