クレームTAISAKU

渡貫とゐち

クレームTAISAKU

「お兄ちゃん、どうして勉強をしなくちゃいけないの?」


 と、夏休みの溜め込んだ宿題を消化する真っ最中の弟がそう質問してきた。手が止まっているので、文字列からの逃避のために話題を振ったのだろう……、さっきまでは俺にアドバイスを求めてきていたが、気づけばそれもなくなっていた。

 正答を出すことを諦めたか。

 とにかく終わらせることを優先させ、正解不正解は問題にしていないらしい。


 確かに提出する義務はあるが、全てに正解していなければならない義務はない。間違っていたらそこだけ後で確認して……ただ弟の場合、当てずっぽうで数字を入れ込んでいるだけなので、不正解だけを見直すにしても、全部をもう一周することにはなりそうだが――まあ、今をしのげればそれでいい、という考えなのだろう。


 夏休みもあと一週間。


 手つかずの宿題を終わらせるには、手段を選んではいられない。


「どうして、かー……」


「お母さんに聞いたら『そういうルールだから』って……。勉強って自分のためにするんじゃないの? なのにルールだから、義務だからって言われても……モチベーションが上がらないよ」


 母さん……、せめてもう少し納得しやすい理由付けを与えてあげてよ。


 勉強をするのが中学生の仕事だから、と言われても、勉強が楽しくなるはずもない。


 大人は一度、子供の道を通っているのに、どうして子供が納得するような意見が言えないのかな……、時代が違うから?

 それとも自分たちがそうだったんだから、同じ気持ちを味わえってこと? ……今の自分が幸せなら、同じ道筋を辿れば幸せになれることは前例が証明しているとも言えるけど……、やはりこれも時代による。今後のことは分からないし。


「そうだな……、大人になった時の選択肢を多くするためで――」


「あ、そういうのじゃなくて」


 ……そういうのじゃなくて?


「うん。優等生の正解を聞きたいわけじゃないんだよね。不良の屁理屈を聞きたいの」


「おい。俺になにを期待してんだ」


「屁理屈」


 弟がペンを置いた。

 宿題をやる気がまったく見えねえ……。


「どうしたら勉強をする気になれるかな? お兄ちゃんだったらどうする? というかお兄ちゃんだって勉強好きじゃないでしょ? なのにどうして、子供の頃は勉強ができたの?」


 つまり、やる気の問題だった。

 弟が言う『勉強ができたのか』は、頭が良かった、ではなく、良し悪し以前に、向き合う気力をどうやって保てたのか、ということだ。


 弟が求めるものはそこにある。


「……勉強しないと、母さんや、教師から、ぐちぐち言われるんだよ」


 勉強しろだの、将来のことを考えているのか、など――毎日のように言われ続けてうんざりしていたのだ。

 有名な大企業に就職するわけでもなく、一芸に秀でたスターになりたいわけでもなく、平々凡々な生活で人並みに並ぶような人間でいられたらそれで良かったのだ。

 夢も希望もなければ絶望もない生活……、それが今の俺である。


 結婚なんてとてもできない収入だが、これはこれで楽しいものがある……なにより楽だ。


 彼女がいれば『楽しい』だろうけど、俺は一人でいることに『楽』を感じている……求めるものが小さければ、必要なものも少なくなる。学力も学歴も、求められないのだ。


 そのため、俺は学生時代から、その場しのぎの勉強をしてきた。ようするに学校内で定められた成績さえ上位をキープしていれば、実力になっていなくとも問題はないわけだ。


 定期考査では高得点を取るが、抜き打ち実力テストではボロボロな成績だった――。


 ただ成績は良いので、教師も親も強く言ってくることはなかったが……。

 そう、それが狙いである。


「成績が悪いから――勉強をしないから、大人は文句を言ってくるんだ……まあ、言わざるを得ない立場だから仕方ないんだよな。

 勉強しないで遊んでばっかりいる子供に『それでいい』とは言えないだろ? だから大人の事情で……仕方なくだ。あっちもあっちで、義務の消化だと思うぞ」


 弟は前のめりになって聞き入っている……勉強よりも熱心だ。


 俺のこの意見で、弟の性格を歪めてしまうことが怖かったが……、まあ俺の弟なら、遅かれ早かれ歪むだろう、今更か。


「勉強をしたくないのは分かるが、そのままだと顔を合わせる度に言われるぞ? それに毎回、答えてるより、成績を上げて黙らせた方が楽じゃないか?

 たぶん一番手っ取り早い、リスクがない口封じの仕方だと思うけどな。

 ……勉強は自分のためにするのが一番だが、それが必要ないと感じるなら、手間を省くためだと考えれば、どうだ? クレーム対策ってところだ。

 文句を先んじて潰せば、指摘したい人間は、指摘したい部分を見失う――そうなればお前の快適な生活は守られたも同然だろ?」


「でもさ、指摘する部分を見失えば、新しく見つけてくるのが大人じゃないの?」


 大人というか、人間ってそういうものだ。


「一瞬でそれに気が付くなんて、賢いやつだ。

 人間の意見なんて膨大過ぎて絞り切れないが、親と教師に限れば、なにをすれば相手が満足するか、予想がつくだろ? だから相手を満足させるための行動すればいい……。

 無駄なやり取りを省くため、というモチベーションなら、手も足も動くだろ?」



 ―― おわり ――

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