霜烈、呼び出される
その日、
文昌閣は、官僚の頂点にあって皇帝を補佐する
(いったい何の用なのだか……)
霜烈の主観では、招待というより強引に呼び出された、と言ったほうが良い。それも、最初は私邸に招きたいと言われたのをどうにか断って、譲歩してもらってこれ、なのだ。
その人物の目的は彼の容姿なのか、あるいは皇帝に近しいと見られる宦官の立場なのか。いずれにしても警戒せずにはいられなかった。
「卑しい身が政の場に足を踏み入れること、まことに恐縮でございます」
「ああ──よく参った」
表情を消して恭しく
「我が屋敷の庭を見せたかったのだが。まあ、ここの眺めも悪くはなかろう」
「恐れ入ります」
後宮ほどの贅沢かつ大規模な庭園でなくとも、外朝にも景観の美しい一角は随所に設けられている。霜烈が招き入れられた一室も、蓮が浮かぶ広い池に面していた。皇帝や高官が気分転換もできるように、ということなのだろう、中州に
ただし、その美しい庭は、精緻な格子窓の向こう側だ。外を通りがかった者がいるとして、室内で誰が何をしているかを覗き見ることはできまい。
(完全に密談の体ではないか)
静かに警戒を強める霜烈の胸中を知ってか知らずか、
「何、大した用件ではないのだが。先日の件では改めてそなたに礼を言わねばならぬと思ったまで」
下官が入室して茶を淹れたかと思うと、慌ただしく退室していった。扉を固く閉ざす音が届いて、密室にふたりきりになったことを知らされる。
霜烈の脳裏には、なぜか彼の手を握ったまま離してくれなかった
「そなたは
「陛下のご厚恩を賜る身であれば、微力を尽くすのは当然のことでございます」
とはいえ、
「とりわけ見事であったのは、長公主様が連れ去られた殿舎を言い当てたことであった。宦官とは、後宮の殿舎の配置と特徴、それに逸話を逐一覚えているものなのか?」
だが、ごく柔らかな口調で斬り込まれて、油断するのは早かったと思い知る。
一品を現す
先帝の御代のいずれかの科挙で
つまりは、切れ者でないはずがないのだ。
(疑われているな)
彼の出自、正体のことを。
先日の騒動で顔を合わせたのはほんの短い間だったし、今上帝のもとで
あの時のあの場での言動について、確かに霜烈も疑いを招かぬように、などと気遣う余裕はなかったのだから。だが、だからこそ言い訳も考えてある。
「
用意していた台詞を述べる時に、声と表情を
そしていっぽうで、先帝──父の判断に眉を顰める者が、身分を問わずに多かったのもまた事実。
「なるほど。──
あくまでもにこやかに、かつさりげなく、
「なぜ、そのようなことを……?」
「文宗様はあの御方のことを目に入れても痛くないほど寵愛なさっていたと伺ったゆえ。陽春殿下が我らの訴えに心を動かしてくださればあるいは、と──埒もないことではあったが」
彼は糾弾されているのだろうか。生きているならなぜ名乗り出かったのか、父の暴挙を止めなかったのか、と。そう思うと、
確かに彼が姿を見せれば、父はこの上なく喜んだだろう。そして、彼の望みを何でも叶えてくれたはず。兄の助命も、姪の、追放のような輿入れを取りやめることも。
(考えなかったはずはない……!)
だが、考えたからこそ、その次に何が起きるかも思い描いてしまったのだ。
父への願いを携えた者たちは、彼のもとに殺到しただろう。正当な献策も、
成人もしていない子供の言葉に、国の行く末や多くの人命を託されることになるのだ。彼に個々の請願の当否を判断する能力はなく、父にはその気がまったくないのは明らかだったろうに。正気の沙汰とは思えない。
(私を通して父を操ろうとしたような方なのか……?)
そして、彼の正体を察した今、改めて利用しようというのだろうか。
「とはいえ今は
「今上の陛下は寛大な御心をお持ちで諫言も容れてくださる。我がことなどより、そのほうがよほど慶ばしい」
「まことにごもっともと存じます」
霜烈の相槌に、
「であれば、そなたも陛下の御代の平らかなることを願うな? 我が身など顧みずに?」
ここに至って、ようやく相手の意図が掴めた、と思った。
(あくまでも陛下の御為、ということだったか)
英明な新帝の治世がようやく始まったというのに、先帝の遺児が実は生きている、と知れば不安になるのは当然のこと。回答や振る舞い次第では亡き者にせねば、と考えることも、また。
「はい。無論」
少し前までならばまだしも、今は霜烈も好き好んで死にたくはない。新帝のもと、
だから力強く頷くと、
「それを聞いて安心した」
霜烈は安心できなかった。
(……本当に?)
疑いや懸念を持って呼び出しておいて、言葉ひとつで信用するはずがない。もっと問い詰めたり揺さぶったりして、本心を確かめようとするものだろう。
だから、
「実は、そなたを
「──は?」
だが、茶器を置いた
(……なぜ、私に?)
もちろん、
「私は──すでに
「
霜烈が問おうとしたことには答えないまま、
「そなたのような者には、末永く陛下の傍にお仕えして欲しいもの。ゆくゆくは
(ならば、陛下は
「そのような大役は──」
今日の席は、単に決まっていたことを通達するためだけのものだったのだ。外堀を埋められていたことを悟りながら、霜烈は力なく抗おうとした。が、瞬時に反問される。
「私人の好みで職務を
父帝を諫めなかった埋め合わせをしろ。先帝の傍で見聞きしたすべてを今上帝のために役立てろ、と。言外の言葉は聞き間違えようもなく明らかだった。
「何を、仰っているのか──」
その上で惚けることができるほど、霜烈は厚顔ではなかった。彼が絶句したのを確かめたのだろう、
「そう、そなたが
「
市舶司が置かれた港湾の地名は幾つか浮かぶが、いずれも
「
「さようで、ございますか……」
「それに、市舶司が不正を行っているという話も聞くし、海岸では密輸や海賊も横行しているとか。信頼できる者からの報告は陛下も喜ばれよう」
「は──」
とてつもなく重い任務を笑顔で乗せられて、霜烈は頬を引き攣らせた。
他国の者に見せるなら、
ただ──確かに、やりがいのある務めではあるのだろう。秘華園の名が海を越えて広まるかも、と思えば心が躍る。それに、何より。
(……
あの眩しい娘は、後宮で大人しくしている器ではない。外に羽ばたく機会があれば、きっと飛びつくのではないだろうか。
燦珠がより多くの称賛を浴び、名声を得るところを見る──それは、霜烈にとってもこの上ない喜びだ。皇宮にあって地位を得ることよりも、よほど大きな。
その喜びのためなら、押し付けられた大役にも応えて見せようと思えるのだ。
* * *
今話で第二部完結後の後日談は終わりです。ご覧の通り、第三部では港街を舞台に燦珠たちが歌ったり踊ったり、不正や海賊と戦ったりする予定です。まだ詰めてないので要素は増えたり減ったりするかもしれません。
第三部の公開は2024年の春以降になるかと思います。ゆっくりお待ちいただけると幸いです。
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