第40話 嘘

 どっちが嘘かなんて、少し考えればわかるよ。そんなの。


「うん。らいち、そこでゆっくり聞くよ。別れ話」


 彼女から笑顔が消えた。

「許してくれないの?」

「なんで? 許す許さないじゃなくて、別れ話だろ。朝飯……駅前のファミレスで良い?」

 風呂にも入っていないし、正直家に帰りたい。でも、他人が場所じゃないと流されてしまいそうだった。

 思ったより腹が減っていたのか箸が進み、俺は和風モーニング・鮭定食を、らいちと一言も話さないまま平らげてしまった。一方、向かいの席の洋風モーニング・パンケーキセットは、全く手がついていない。冷めてしまったパンケーキから視線を上げると、やけに白い彼女の顔が見えた。

 あれ? この人、こんなに無表情な女だったかな。俺相手に、なんでそんなに怯えているんだろう。何か悪いことでもしたんだろうか? 知らない間に、他に好きな人でもできたか、もしかして既に俺と並行して付き合っているとか……無言で暇な分、碌でもない勘ぐりが捗る。

「それ、食わないの?」

 全く食事に手をつけていないことを指摘しただけだが、彼女はビクッと大袈裟に肩を震わせて応えた。

「あー。うん、ちょっと……」

「怖い?」

 らいちは視線を逸らしたまま、動かない。俺は俺で、寝不足と疲れ、そして訳のわからなさが重なり、苛立ちが最高潮に達している。本当に、人がいる店にしてよかった。下手したら怒鳴ってしまっていたかもしれない。

 そこまで考えて、気がついた。きっと今、俺は『イライラ』の文字を背負い、ついでに顔にもイラつくって書いてあるのでは無いだろうか。そりゃ、怖いか。俺だって、曲がりなりにも男だし、ここでコイツと殴り合いになったら、きっと余裕で勝つだろう。

 しかし、怯えて口をきかない彼女から別れ話を引き出すなんて、どうしたらいいのか、さっぱり見当がつかない。深いため息が出た。らいちはそれを聞いて再び身をすくめる。ため息ですら吹き飛ばせそうだ。

「大丈夫。……だいじょうぶ」

 彼女は呪文のように呟いた。何が大丈夫なのか意味がわからない。俺だって人間なので、なんでも許せるほど心は広くない。内容によっては、きっと怒る。

 梅香、どうしたらいいのよ。この状況。

 ……梅香……そうか。あの手があった。あまり好きじゃないけど、仕方ない。

「らいち、ごめん。俺もちゃんと寝てないし、ちょっとイライラしてるかも。一旦帰って、仕切り直そう。先に帰ってるから、食べてあげて。パンケーキ」

 無理やり笑顔を作ってそう伝え、会計を済ませて家に戻った。


「ほんっと、たまに理解できないくらいの変態性を見せつけるわよね、アンタ」

 しっかりと出かける身支度を整えたドラゴンさんは、出がけに頼まれごとをされ、少し不機嫌だ。

「変態じゃないんです。やさしさです。なのでよろしくお願いします」

 なので、俺はきちんと人に物を頼む態度で接している。

「やらしさでしょう? いい加減気がついてんのよ。あんたとらいちちゃん。付き合ってんでしょう? もう! バカ。プレイのお手伝いなんかさせるんじゃないわよ」

 ドラゴンさんの何気ない一言が、俺の心を傷つけた。

「バカっていう方がバカなんですーバーカ」

「へ? ……どうしたの? ちょっとぉ……ごめんね。泣かないでよ」

「泣いてないですー! グスっ。さぁ、ドラゴンさん早く、らいちが帰る前に俺を椅子に拘束してください」

「はいはい。わかったわよぅ。どうしちゃったのよアンタたち……」

 ドラゴンさんはダイニングの椅子に腰掛けた俺を、ビニールテープで両足首、手首、椅子と胴体を拘束し、仕上げにアイマスクをつけてくれた。

「泣く男を椅子に拘束するとか……ちょっと変な気分ね。写真撮っていい?」

「もうこの状態なんで、ダメと言っても止める術がないです。でもダ……」

 言い終わる前に、ドラゴンさんのスマホから連写の音がした。

「あーははは。花梨さんに送るわー。送信っと。じゃあね。行ってきまーす」

「行ってらっしゃーい」

  ドラゴンさんは高笑いと共に出かけていった。さて、ドラゴンさんの機嫌も良くなったし、準備も整った。よし、来い。

 少しして、彼女が帰宅したらしい。「ただいま」と小さな声とともに、足音が近づく。「え? 何? 強盗? え?」

 あ、まずい。なんか誤解している。

「らいち、おかえり。話を聞く準備した。これで怖くないだろ? 思う存分話せよ」

「杏、半袖短パン、靴下と手袋で、猫ちゃんのふわふわアイマスクつけて拘束されてるの可愛い……」

「格好は風呂上がりなのとビニテ対策だよ。あと、アイマスクは頼んでないけどドラゴンさんがつけていった。風呂上がりにアイス食べて機嫌も良くしといたから、安心して」

「ありがと」

 らいちの声のトーンが上がった。


 無害なものには心を許しやすいのか、らいちは別れたいと言った理由を話し始めた。

「ええと、まとめると、進学するために勉強をしたい。だから別れたいってこと? 別れなくてもいいんじゃないかと思うけど」

 一応理由を聞いたのだか、理解はできていなかった。

「微妙に違う〜。なんかね、クコちゃんがキッペーのことすっごく好きでね。私を幸せにするのはキッペーしかいないって言ってて、良いなって思ったの。でね、私と杏のこと思ったら、私、自分のことしか考えてないなって。なんていうか、将来のこととか全然考えてないし……」

 確かに、そうだなと思った。でも、

「らいちがいるだけで幸せになれるよ、俺」

 それも本心だ。

「付き合い初めてそんなにたってないからそれはそうだと思う。杏は私のためにお料理一緒に考えてくれたり、お兄ちゃんしてくれたり、ここに住めるようにしてくれたり、今だってそんな格好をしてまで私の話聞いてくれるし……でもね、私は杏に何をしてあげてるかなって考えたら、セックスぐらいしかしてなくて、自分にガッカリした。それだって、してあげてるのかしてもらってるのかわからないしって考えてるうちに、恋愛ってなんだろうって、わかんなくなってきて」

 沈黙。そして、またらいちが続けた。

「なんかね、自分が釣り合ってない気がずっとしててね、なんでなのかわからなくて焦ってて、それがクコちゃんの話を聞いてわかったんだよね。私ね、自分のことが嫌い」

 震える声で、らいちは話し続ける。きっと彼女は泣きながら、頑張って気持ちを伝えようとしている。だから俺も、相槌だけ返して聞くことに徹していた。

「どうしたら自分のこと好きになれるのかずっと考えてた。それで結婚式の準備してたら、私が好きなことを思い出したの。ドレス作ったり、メイクしたり。そういうやつ。なんかね、好きなことをしている自分は好きになれそうだなって思って」

 彼女が近づく気配がして、アイマスクが外された。声を震わせていた彼女は、泣き止んでいて、薄く微笑んですらいた。

「杏。私、自分を好きになってから、きちんと恋愛したい。だから、別れたい」

「そうか。寂しいな」

 俺の声を聞いて、らいちは再び泣き出した。「ごめん。ごめんなさい」と謝罪を続けている。

「ここまで聞いといて、別れたくないとか言えないよ。別れよう、らいち」

 背中を撫でたら落ち着くだろうか? 手を伸ばそうと思ったが、椅子の後ろで縛られているので無理だった。

「もうさ、別れ話ついでに全部話してよ。そもそもなんだけど、なんで俺にあんなにグイグイきたの?」

 ラフな話し方で気持ちが少し落ち着いたのか、彼女が顔を上げた。

「私ね、頭ちょっとおかしかったかも。体の関係がなきゃ優しくされる資格がないって思ってた。あと、杏がずっと拒むから意地になってた。杏が失恋したときは……私のできること全部しようって、そしたらなんか付き合えちゃって……それは、嬉しかった」

「嬉しかったら、そのままでいいんじゃないの?」

 未練たらしい俺。発言したあと気がつく。

「嬉しかったけど、そこから、釣り合ってないって思い始めたから」

 らいちは少しだけ困った顔をしたが、もう泣いていない。彼女の穏やかな表情を見て、ここで別れることが正解だったんだと改めて思い知った。

 


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る