第36話 枸杞
失恋ばかりの人生だ。
高校時代にらいちに振られて、橘平は……振った。そして、ちょっと前にグミさんにも振られたし、この度梅香にも謎の『キープ』期間を経て、正式に振られた。
「……そっか……梅香に振られたんだ」
「うん。なんか、無理なんだってさ」
二人並んで、ランチで使った食器を片付ける。ちょうど客足が途切れ、店には二人きりしかいなかった。
「……ええと、上手く言えないけど……お帰りなさい」
作業の手を止めないで、らいちが呟く。笑顔ではないけれど、穏やかな表情だ。
「わかる。なんか違うけど、そんな感じだよね。ただいま」
俺も、彼女に倣って作業をしたまま応える。それを聞いたらいちは、近寄ってきて、ピッタリと体を寄せた。
めちゃくちゃ可愛い。
失恋ばかりの人生だけれど、今の俺はとてつもなくリア充だ。しかし、そんな幸せな時間は来客ですぐに終わった。
「久しぶりー」
高校時代からそんなに経過していないはずなのに、すっかり大人びた顔つきの柑野橘平が店の戸口に立っていた。
「らいちってコーヒー淹れるのうまいんだね。美味しい」
橘平は気の利いたことまで言えるようになっていた。
「そういえば、コーヒー淹れてあげたの初めてだね。おいし? よかった」
らいちも嬉しそうにしていて、俺はなぜかイライラしている。
梅香の紹介で橘平に電話をしたところ「話せば長くなる……」と言い出した。橘平の癖に勿体つけた言い方をしたので、説得して話を聞き出すのが億劫になり、店に来てもらうことにしたのだった。その彼の長話だが、まだ始まる気配がない。橘平は調子よくコーヒー片手に自分語りを続けている。
「なんかさぁ、元カノと元カレがやってる店で結婚式なんて正直どうかなーって思うんだけどさぁ」
「元カノはわかるけど、元カレってなんだよ」
そこは聞き捨てならなかった。俺は橘平と付き合った記憶がない。
「あの時ちょっと付き合ってたじゃん。俺たち」
ちょっと良い思い出を語るように、橘平は微笑んでいる。
「え?」らいちは驚いた顔をしてこちらを振り向いた。「いやいやいや」と俺は手と顔を全力で振って否定する。
「まぁ、あの時は俺も杏の本命じゃなかったし、すぐにちょっと気になる女の子もできたしで、自然消滅しちゃったけどな。なんかごめん」
軽いノリで、ごめんなさいのジェスチャーをする橘平。
「いや、全然気にしてなかったけど、そう言われるとなんかもやもやするな」
「俺ら一緒に寝たりしたもんな。なんか、甘酸っぱい関係だったよな」
「……フツーに友達だとばかり」
「友達っていうか、セフレなー。あはは」橘平が朗らかに笑った。
ちょっと待ってくれ。らいちが引いている。きっとここに梅香がいたら、とりあえずバッサリとこの妙な空気を切り捨ててくれたんだろうなと思う。しかし、彼女はここにはいない。
たすけて梅香。
「あのさ……らいち、俺と橘平はそんなんじゃないから」
「うん。キスして、ベッドで抱き合って寝た。それだけのピュアピュアな関係だったな」
橘平が余計な補足をする。ちなみに、抱きつかれたが抱き合ってはいない。
「付き合ってたんじゃん」らいちがいつもよりも低いトーンでツッこむ。この様子はきっと拗ねている。話も堂々巡りで進まないし、ホントたすけて梅香。まとまらない話にうんざりしていると、もう一人、客がやってきた。
「遅れてごめんなさい」
そこには、黒髪ショートに黒縁メガネ。色味を抑えた、ミニマルな服装の女の人が立っていた。全身黒っぽいので、体型はわからないが全体的にとても小さい。小さくて地味。そんな第一印象だ。
「あー、クコちゃん」
橘平が戸口まで迎えに行き、クコちゃんと呼ばれた女の人の背中に手を添え、ニカっと屈託ない笑顔を作った。
「これが、これで、結婚式よろしくってことで」
橘平はお腹の上に手のひらで弧を描き、小指を立てる。クコちゃんは眉間に皺を寄せ瞳を閉じ、我慢の表情だ。
「お飲み物いかがですか?」
微妙な空気を変えようと、らいちが声を上げた。彼女はクコちゃんを席に案内し、メニューを渡すと「杏は橘平くんとお客さんを担当して」といい放ち、クコちゃんの分とついでに自分の分の飲み物を用意して向かい合って座った。
しばらくして、彼女たちの席から非常に楽しそうな声が上がった。
楽しそうすぎて覗き込むと「男子はダメー」とらいちに追い出された。困って橘平の方を見ると、ワケ知り顔で頷いたので、イラッときた。
微妙な時間で客足もないので、ディナータイムの準備を進めながら、橘平の話に耳を傾ける。内容は彼のジェスチャーの通り。まだ大学生の身分ながら、彼女を妊娠させてしまい、籍を入れることにしたそうだ。ちなみに彼女のクコちゃんは、橘平のバイト先の社員さんで、5つくらい年上らしい。
「はぁあ……ちょっとおかわり作ってくるね」
らいちがキッチンへ戻ってきた。しかし彼女は鼻歌混じりにトレーにティーポットを乗せて、いそいそと席に戻っていってしまう。話はまだつきなそうだ。
客が入り始めた店内で、らいちの代わりに橘平が給仕を始めた。
「バイト代は賄いでいいぜ。寿司がいいぜ」
「メニューに無いもんをねだるな」
「そうすると酒しかないぜー」橘平は口を尖らせて、そっぽを向いた。
「酒飲めないんだっけ?」
「いや。嫌いじゃないけど、クコちゃん今飲めないからさ、俺も飲まないことにした」
「へぇ。橘平、クコちゃん大好きだな」
「そらそうだよ、だって俺の子供産んでくれるんだぜ? すごくない?」
「そりゃあそうだけど」
そんなに自分の子供って嬉しいだろうか? ふと思い、頭の中でシミュレーションする。
ああ。それは、そうだな。とてつもなく嬉しいな。
さっきまでしょうもない奴だと思っていた彼が、途端に羨ましく見えた。
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