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男は彼女に恋している。
どのくらい好きかと言えば、もうたっくさんだ。
彼女の仕草が、爪先が、唇が、その紅色の口から吐き出される言葉が、そして演技が、全て好きだ。
とりわけ演技。幕が上がり切った小さな舞台で別人かのように動き回り、熱い照明に照らされる彼女を、世界でイチバン愛している。流れる汗でさえも、美しいのだ。そりゃもう、羨む隙も無い程。全世界の人間が、いや全ての生き物が、彼女を手に入れたいと思う程。少なくとも男は、まるで憑りつかれたかのようにそう信じ切っている。
男は不憫な境遇であった。
幼少の頃から父は酒と博打に溺れ、そのくせ哲学書とかいう当時の男には難しすぎる分厚い本を読み漁っていた。おかげでただでさえ狭い畳の部屋の三分の一ぐらいが本で埋まっていた。
母は如何してこんな父親と結ばれてしまったのかと疑う程には優しく綺麗な女性で、男は母が大好きだった。家事にも父の悪い酒癖にも何一つ文句を垂れず、それでいて息子に辛そうな顔は見せない、まさに当時の理想とも呼べる母親である。まあ男は、母が裏で隠れて食事を吐き出していたことも知っていたが。幼い男に、それを口に出すのは不可能だったのだ。未成熟な彼にも、それだけは分かっていた。
昔、男は夕食中に、なんで父を選んだのか、と母に問うたことがある。勿論父のいる食卓などではない。そこにあったのは、二人と時折聞こえる父のいびきだけだった。確か、男は父と口論になって、いつも以上に父に苛立っていたような気がする。
「お父サンはね、とっても優しいのよ」
母は息子の質問に少し目を瞬かせた後、儚く長いまつ毛を伏せてそう言った。嘘を吐くような母親ではないが、男はそんなの嘘だ、としか思えなかった。咀嚼途中の豚肉が入ったまんまの口をみっともなくパクパクと動かして何も言えなくなった男に、母は少しだけ微笑んで、また白飯を口へ運んだ。そういえば母は、箸の使い方も美しかった。
この時男は、父のような男性にだけはなるまいと、そう決心したのである。
父が酒に塗れたまま他界し、母が病に伏せた今でも、男に父は優しかったと、そういった気持ちは微塵もない。むしろ母の病室を訪れて花瓶に母の好きだったダリアを活けるたびに、憎しみは溢れるばかりである。
しかし今思えば、父があの部屋の隅に転がったイヤな匂いのする煙草を吸っているところだけは見たことがなかった。それが唯一残った体の弱い母への愛だったのか、飽きただけだったのかはもう分からないが。
少なくとも男に残されたのは、本が好きだった父の遺伝子を色濃く継いだのか否か、物書きになってしまった自分への嫌悪感のみである。
それを全てひっくり返したのが、冒頭の彼女。
彼女に自分の書いた物語の登場人物になってほしいと、どうしようもなく男は思っていた。
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