さようなら世界

蒼生

第1話

あの子が僕のもとを去っていく後ろ姿が、何度も何度も脳内で再生された。僕が声をかけても、嫌だよって言っても、あの子は振り向きもせずに去って行ってしまった。最後の日は顔も見られなかった。何を考えているのかもわからなかった。それでも、僕は——

「おめでとう。あなたは選ばれました。私と世界を終わらせましょう」

 ふと気が付くと、開けっ放しにした窓の枠に、子供が一人座っていた。女の子のようで、男のこのような子だった。僕はその事態を不思議と受け入れていた。

「……きみはだれ?」

 ベッドに寝転がったままの僕がそう聞くと、心地の良い風が吹いて、その子供の短い髪の毛がさらっと揺れた。白っぽい金色の髪に太陽光が反射して、眩しかった。

「天の使いです」とその子は言った。

「天の使い……天使か」

 僕は、ああ、お迎えが来てくれたと思った。無宗教で神なんか信じてもいないけど、この世界から離れられるのならなんだってよかった。

「それで、天使が僕に何の用?」

 相変わらず体は重たくて起き上がることはできなかったが、たとえこれが僕の妄想でもいいから、一時の気晴らしに僕はその天使と会話を続けた。

「さっき言いました。この世界は終わります」

「世界が終わるの? それはいいね」

 なるほど、やはりこれは僕の妄想だなと思った。やるじゃないか。まだ頭は死んでいない。

 天使は話を続けた。

「あなたはその使命を担う天使の一人に選ばれました」

「へえ。じゃあ他には六人の天使がいるんだね?」

 僕がそう言うと、その無表情な天使は少しだけ首を傾げた。

「いいえ。天使は私とあなただけです」

「そうか。じゃあ聖典は間違いなんだ」

「セイテン?」

「いや、こっちの話だよ」

 僕は少し考えた。これは僕の妄想なのだから、それは僕の頭にある知識から来るものだと思っていたけど、どうやら完全にその通りとはいかないらしい。

「それで、どうやって世界が終わるんだ? やっぱりラッパを鳴らすのか?」

「ラッパ? そんなものいりません」

 天使は窓枠に立ちあがった。そうしてみても、天使の身長は窓枠の上側には届かず、まるで額縁に収まった一枚の絵のようだ。そんなことを思いながらぼうっと天使を眺めていると、天使の背後から白く大きな翼が姿を現した。僕は思わずその美しい姿に見とれてしまった。

「あなたは私の翼をもいでくれればいいのです。そして私たちは落下する」

 天使はそう言うと、翼を少しはためかせた。

「それだけ?」

「ええ。たったそれだけで、この世界は終わります」

 僕は上半身をベッドから起こした。ほんの少しだけ目線が天使と近くなったが、そうして見ても、まるで作り物のように天使は美しかった。

「つまり、僕たちが一緒に身投げすればいいってこと?」

「その通りです」

「……そんなもんか」

 僕は少し残念な気持ちになった。せっかくなのだから、もっと何か大きなことをするものだと思った。世界が再起不能になるような大地震を起こすとか、世界の七割を海の底に沈めてしまうとか、そんな力が僕に宿ったのかと思った。そんなことを思って、僕はこれが自分の妄想じゃなく現実のことなのだと思い始めている自分がおかしくなった。それと同時に、ふと一つの疑問がわいた。僕は素直にそれを天使にぶつけてみた。

「どうして僕なんだろう」

 天使はやはり一切表情を変えずに答えた。

「あなたが苦しみに耐えられないからです。だから選ばれました」

「ああ、そうか。そうだね」

 妙に納得してしまった。それならきっと僕が適任だと思った。

「そんなところにいないで、入ってきたら?」

 僕が天使にそう言うと、天使は何も言わないまま、僕のベッドの上にひらりと降りた。そうして僕と向き合うように正座して座った。天使は僕を真っ直ぐ見つめた。その瞳にあの子を見た気がして、僕はもう一度横になった。

「……恋人がいたんだ」

 僕はまるで独り言のようにつぶやいた。

「とても好きだったし、とても嫌いだった。でも、僕の中では一番だった」

 天使が僕の横に寝転がった。さっき見た大きな翼は天使の背中に沿うように折りたたまれていた。柔らかな髪がさらっと揺れ、目元に少しかかった。

「ずっと一緒にいられないって言われたんだ。そんなことはじめからわかってたくせに」

 僕は話しながら、恐る恐る天使の髪に触れた。それはひんやりとしていて、とても繊細だった。天使の目にかかった髪をどかして、耳にかけてやった。天使は数回瞬きをしたが、まっすぐ僕を見ていた。

「あの子と一緒にいられるなら、なんだってよかったんだ。不幸にだってなれた。それもあの子に言ったけど、ダメだった」

 もう、涙は出なかった。だけど心は痛かった。どうしてあの子がここにいないのだろう。僕はいったい何を間違えたのだろう。

「その方は幸せになりたかったんでしょうね」

 天使がそう言った。何を考えているのかはわからなかったし、もしかしたら天使に感情などないのかもしれないけれど、口調はとてもやさしかった。僕はその言葉に何故か少し笑えてしまった。

「無理だよ。ばかだなあ。あいつが幸せになれる唯一の方法は、僕と一緒にいることだったんだから」

 去っていくあの子の後ろ姿がまた浮かんだ。僕ほどあの子を理解してあげられる人間はきっといないし、あの子ほど僕を許してくれる人もきっといないのに。あの子だって泣いていたのに。

「その方はきっと幸せにはなれませんよ」

「そうだよ」

 僕はもう一度笑った。今もどこか違う世界で僕たちは一緒にいて、僕がこの世界から目が覚めたら、きっとあの子に今日のことを伝えるんだと思った。今日ね、天使がやってきたんだ。窓辺に座っていた子供は、僕と一緒に世界を終わらせに来た天使だったんだよ。そんなことを言えば、あの子はきっと笑ってくれる。そしてまたあの子の頭の中から、僕にいろんなことを教えてくれる。

……馬鹿だなあ。

 天使はしばらく黙って僕を見ていたが、やがて起き上がり僕の手を取った。僕は引っ張られるまま立ち上がった。

「一つ聞きたいんだけど」

 僕は下を向いたままそう言った。天使は僕と同じ目線になるためか、少しベッドの上から浮いていた。翼が僕の狭い部屋いっぱいに広がった。

「なんでしょう?」

「僕が君の翼をもぐと言ったけど、君は痛くないの?」

 もし痛いのならかわいそうだと思った。僕にもまだそれくらい人を思う気持ちは残っているらしい。天使を人と言って良いのかは知らないが。

「痛みなんて一瞬です」

「そうか」

「では、どうぞ」

 天使はそう言うと、さっきと同じように窓枠に立って、僕に背中を向けた。翼から羽が数枚ふわふわと舞った。

「え、ここでいいの?」

 僕は驚いて聞いた。

「はい。ここで翼をもいで、その窓から空へ」

 天使は少し振り返ってそう言った。何だか拍子抜けだった。小さなマンションの、たった二階から落ちるだけなのか。

「もっと上の方でなくていいの?」

 できればもっと上の方がよかった。もし世界が終わっても、僕だけ生き残ってしまったらどうしようかと思った。

「このくらいがいいのです」

「それで本当に世界は終わるの?」

「終わります」

 天使はこれまでになく力強く言った。少し心配だったが、僕は天使の言葉を信じてみることにした。

「じゃあ、やろうか」

 僕が言うと、天使は頷いた。

 僕は天使の右翼に手をかけた。軽く触れた時はふわふわとしていて、奥まで触ると硬い骨のようなものがわかった。僕はそれを力いっぱい引っ張ってみた。思ったより簡単に、翼はめりめりと音を立てて天使の体から剥がれ始めた。天使が息を詰まらせたような声を出したが、僕は続けた。

「痛い?」

 右翼が完全に天使の体から離れると、僕は聞いた。

「大丈夫です」

 天使は細い声でそう言った。呼吸は荒かった。かわいそうだと思ったが、これも世界を終わらせるためだった。

「あともう少しだよ」

 僕は天使にそう声をかけ、左翼を両手で掴んだ。そして一気に、なるべく長い時間苦しまぬよう左翼をもいだ。

「うっ」

 天使から声が漏れた。顔を覗いてみると、深く青い目に涙が溜まっていた。僕は急に苦しくなった。思わず天使を後ろから抱きしめた。あの子と同じ匂いがした気がした。少しの間、僕らは一緒に涙を流した。

「行きましょう」

 僕らが落ち着いたころ、天使が言った。僕は天使に手を引かれ、窓辺に立った。

「……あの子と別れてからずっと考えていたんだ。なんでこうなってしまったんだろうって」

 窓から下を見ても、地面はすぐそこにあった。上を見ると、下の何倍も遠くまで空が広がっていた。

「きっときみに会うためだったんだ。僕に理由をくれてありがとう」

 天使は僕のことを見て、少しだけ笑った。……本当に笑ったのかはわからない。でも僕にはそう見えた。

「じゃあ、いこうか」

 そして、僕らは手をつなぎ、空へと飛んだのだった。

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