夏の終わり

イカリ

第1話 夏の終わり

 振り向くとそこには何もなかった。

 今まで積み上げてきたものは一瞬で崩れ去った。


 ***


『祝!甲子園出場』

 学校の屋上から下がる垂れ幕。いつまで飾っているのだろうか。もうとっくに吐く息も白い季節だ。あの頃の熱はもはやどこにもないというのに。


「ファイトーオー」


 耳に馴染んだ掛け声が近づいてくる。野球部が外周をしているのだ。

 用もないのに自転車置き場に入った。顔を伏せて坊主頭の集団が通り過ぎるのをやり過ごす。

 声が遠ざかっていくのを確認してから、校門へと足を向けた。


 河川敷経由で帰るのは久しぶりだった。遮るもののない川の上を抜けてきた風は冬の空気以上に冷たく、通行人を凍らせる。

 そんな凍った空気の中、川とも風とも違う音が耳に届いた。


 それが何なのかすぐにわかった。ボールが壁に当たって跳ね返る音。

 よく知る人物を河川敷に認める。クラスメイトの田辺だった。すぐに踵を返したが、もう遅いことはわかっている。しっかりと目が合ってしまった。


「遠藤!」


 大声で呼び止められ、背後から土手を駆け上ってくる足音が聞こえてくれば観念するほかなかった。


「……なに?」

「いや、別になんも用はないんだけど」


 もごもごと口ごもる田辺にため息をつく。


「こんな時期に遊んでていいの?お前受験組だろ」

「息抜きだよ、息抜き」


 白い息を吐きだしながら笑う気の抜けた顔から目をそむけた。


「用がないなら帰るよ……、っ!」


 目の前に放られた白球を反射的に受け取る。よこされた球の感触が、冷えた手に痛んだ。


「キャッチボール付き合ってよ」


 そう言って答えを待たずに田辺は河川敷に下りていく。その坊主頭より少し伸びた髪がわずかに風になびいていた。


 ***


 甲子園常連校ではなかった。


 その代の部員の当たり外れによって、地区予選ですら下位だったり、上位に食い込んだりする公立高校だった。甲子園出場経験は指折り数えられる程度。


 自分たちの代は明らかに当たりだった。24年ぶりだかで甲子園への切符をつかんだ。打線も良かったし、守備も悪くなかった。何よりエースを務める自分がいたからこそ、出場がかなったのだと自負していた。

 地元の新聞やテレビの取材だけではなく、全国区のメディアでも取り上げられたのだからうぬぼれではなかったと思う。


 周囲の期待も応援も一緒くたになって、すべてが興奮の渦を巻いていた。そんな中で些末な不安や心配の声は聞こえなかった。


 甲子園の舞台に立つ。その権利を手にしたくてもできない人がいったいどれだけいるだろう。俺はつかんでいた。権利に手が届いていたのに。


 指の隙間からするりとそれは逃げた。


 オーバーワークは怪我につながる。そんなことは知っていた。


 怪我でマウンドに立てなくなった馬鹿な男の代わりに、一学年下の後輩が投げた。


 初戦敗退。


「グラウンドに立てない選手ではなく他の使える選手を入れてください」


 監督に自ら進言したので、ベンチにすら入らなかった。


 選手が豆粒ほどにしか見えない観客席。全校応援の歓声がマウンドに立ち損ねた男を素通りしてグラウンドに注いでいた。


 ***


 ボールを握るのもグローブをはめるのも久しぶりだった。


 グローブも田辺に借りたもので、田辺自身はキャッチャーミットをはめている。

 20メートルほど離れて向かい合った。田辺との距離はいつもこれくらいだった。


 田辺がミットを構えた。球を要求されている。


 久しぶりの投球は山なりだったが、ほぼ狂いなくミットまで届いた。


 球がグローブの中に戻ってくる。掌に伝わる衝撃がじんとした熱を生む。


 冬の早送りのような日没の中、白球が幾度となく二者の間を往復する。

 段々と球に勢いが増していく。


 肩が痛んだ。完治することはないと告げられた肩。日常生活には何の支障もないし、草野球程度なら野球をすることも止めないけれど、職業としてそれを選択することはできないと言われた。強めのキャッチボール程度ですでに痛むこの肩がたまらなく悔しい。


 田辺が返球を少し待った。視線が交わる。


「次、ラスト」


 球が返ってくる。グローブに収まる白球を何度か握り直す。


 今この瞬間は甲子園であるはずだった。真夏の日差しを浴びながら、キャッチャーの田辺に向かって球を放つはずだった。


 冬空の下、ミットが音高く鳴り響いた。


 ***

 

 毎日まいにち、野球があった。投げて、捕って、走って、打って。汗を流しながら、泥にまみれながら。

 あの日々はまったく意味を失った。すべてが怪我で消え去った。


 そう、思っていた。


 ***


 下校時、野球部の掛け声が近づいてくるのに気がついた。


「ファイトーオー」


 外周をしている坊主頭たちがこちらに気づいて頭を下げる。真面目な後輩たちに手を上げて応えた。


「頑張れよ!」

「あっす(ありがとうございます)!」


 冬の澄んだ空気にそろった声が響き渡る。


 終わりたくても終われずにずっとくすぶり続けていた夏が、ようやく終わった。

 この冬の残暑は酷かった。

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夏の終わり イカリ @half_rice

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