第5話 リガ沖海上(午後)
あれからハンスとシュトルヒは、リガ南方を定期的に偵察させられていた。
一応リガ南方にも防衛線は構築されたし、監視所も置かれていたが、いかんせん物資も戦力も足りない。大規模な攻勢でもあれば再びリガは危機に陥る。
その兆候をいち早く掴むために、貴重な燃料を使ってシャウリィ戦線の戦況報告を命じられていた。
「『リガ南方に敵影なし。シュトルヒアインより。1430』と。これで司令部に送っていいですかね」
律儀に暗号電の内容をハンスに確認するミヒャエル。
「問題ない」
ハンスは改めて地上を見渡すが、緑の草原と点在する林が中心の、ありふれた夏の風景が広がっている。
それでも戦争中というのがわかるのは、破壊された家屋ばかりの廃村と、村内に打ち捨てられた焼け焦げた戦闘車両がぽつぽつあるからだ。破壊されすぎてドイツ軍のものかソ連軍のものかはわからない。
生きている人の姿はひとつもない。
「司令部で聞いた話だが、シャウリィのソ
「メーメルですか。それも厄介ですね」
メーメル(現クライペタ)は、シャウリィの西にあるバルト海に面している港町だ。東プロイセンに隣接しており、ドイツ系住民が多いことから大戦開始直前に住民投票でドイツ第三帝国に併合された。併合の際には得意満面のヒトラーがこの町で演説したという。
「メーメルに限らず、ソ連軍がバルト海沿岸に達すれば、
「ソ連軍の最終目標は、ベルリンでしょうからね…」
ミヒャエルの声が沈んだ事にハンスは気がつく。
「ああ、そういやミヒャエルはベルリン出身だったか」
「はい。母や奥さん、息子の嫁や孫もいるんですよ…」
世紀末の年に生まれた44歳のミヒャエルだが、18の歳に結婚して子供を作ったと聞いた。
その子たち(なんと男女の双子だったらしい)もそれぞれ結婚し、息子は失業状態だったのをアウトバーン建設で雇われ、そのまま国家労働奉仕団に入って今は西武戦線で対空砲兵になっているとのこと。
まだ1歳の乳飲み子の孫娘と息子の嫁、ミヒャエルと同い年の奥さんとまだ未成年の末娘、さらに老いて足の弱いミヒャエルの母もいて、合わせて女5人が連日の空襲に震えながら耐えていると話してくれたことがある。
「上の娘が会計士に嫁いで、今は海軍さんの軍属としてキールに住んでいるんで、そちらに避難させようかとも思うんですが」
「キールがはたして安全か、という問題があるよなぁ」
「はい…。移動も簡単ではないようですし…」
キールはドイツ海軍の主要軍港だ。この劣勢下でも海軍総司令官のデーニッツはUボート潜水艦を出撃させて連合軍の混乱を狙っていたため、その出撃基地のキールも、激しい空爆撃を受けていることは想像がつく。市街とて無事ではないだろう。
「まあ…、祈ることしかできねぇのはなんとも歯痒いよなあ」
ハンスは嘆息した。
自分の家族の安全が不安な中で、兵士に戦えと言っても集中できないのは当然だ。武器もなければ兵力もない。補給も少なく家族も危ういとなれば、もう崩壊は止められない。
それが分かっていても、おいそれとやめられないのが戦争なのだが。
「さてと、我々もそろそろ帰るか」
「了解です」
暗い話題を振り払うようにハンスが言うと、ミヒャエルも切り替えて仕事の声に戻る。
「と、帰りにちょっと寄り道するから」
あえて軽い感じで、結構重要な話をするハンス。
「寄り道?ですか?」
「ほら、前にちょろっと話したけど、俺の知り合いが乗ってる船が今日リガ港を離れるんだよ。もう海上にいるだろうから、お見送りを、さ」
歯切れが悪いのは、その知り合いがロシア女性とか隠れユダヤという事を、ミヒャエルには隠しているからだ。
「ああ、なんかそんなこと言ってましたね。中尉はリガ出身だからだとか」
「そうそう。ま、こんな上空からじゃ顔を見つけることはできんだろうけど、気持ちというか」
「操縦桿を握ってるのは中尉ですから。余計なことを言う気はないですよ」
「助かる」
そう言ってハンスは洋上に機首を向けた。
♢♢♢
昨晩には兵舎を抜け出して、直接マリーヤと顔を合わせて別れは済ませていた。
久しぶりに会ったマリーヤはすっかりあか抜けていた。仲良くなった若いアメリカ人女性スタッフが世話をやいてくれるとかで、髪も綺麗に切り揃えられ、シャンプーでツヤを取り戻した金髪が輝いていた。化粧も教えてくれるらしく、アイシャドウや紅を差した赤い唇が女性を強調している。
だが。
「せっかく綺麗になったのに、そんなに泣いていたら化粧が落ちるぜ?」
「でも、でもっ」
涙もろいのは変わらないことに、なぜだかちょっと安心するハンス。
「マーシャとジサマは無事に地獄から逃げ出せるだから、喜びなって」
「でも、ハンスさんがっ」
「俺は大丈夫だってば。ほら、今までだって約束守ってきただろ?」
「今度はわからないじゃないですかっ!」
今回のマーシャは簡単に納得してくれなかった。
それも当然だろう。彼女の故郷の村からスタラヤ=ルッサ、スタラヤ=ルッサからリガまでは、心配させないようにハンスが最低限の情報しか与えてなかったのだ。
だが赤十字船のスタッフという新たな(そして正しい)情報源を得たことで、今のドイツ軍の累卵の如き危うさがしっかりとわかっているのだろう。
「ハンスさん、一緒に逃げませんかっ⁉︎多分ハンスさん1人なら船に押し込むことができます。そのくらいの信頼は得てますから。一緒にスウェーデンに逃げれば…」
「それはまずい。船が差し止められるかもしれん」
今ドイツ軍上層部は脱走兵にピリピリしている。もし今晩ハンスが帰舎しなければ脱走と見做され、全ての船は出港を禁止され臨検を受ける可能性がある。国際法違反ではあるが、武器を持つ軍隊がその気になればやれないことはないし、それで脱走ユダヤ人を見つけられてしまっては、ドイツ軍に正統性を与える。
それを考えれば、スウェーデン船がハンスを乗船させない可能性も高い。
「マーシャ、ここは小僧の言うことを信じる他ないわの」
ヤコブが口を挟む。
「でもっ!」
「こいつは強運の持ち主じゃよ。戦争が始まってから一度も落とされてないというのは並大抵の運ではない。腕もな」
「だけど、ケガはしてますしっ」
「命があって五体満足。これに勝る強運はないじゃろ」
「……それは、そうです、けど」
「そしてな、そういう運は周りの者にも恩恵があるものじゃ。マーシャがここまで来れたこと自体、小僧の運をもらったおかげとは思わんかな?」
「…確かに、ハンスさんのおかげです。でもだからこそ…っ」
「大丈夫じゃよ。こやつを信じてわしらはスウェーデンで待っていよう。それがわしらのできる全てのことじゃ」
詭弁だと思わなくもないが、そこは歳の功、うまく言いくるめるヤコブに「助かった」とハンスは目で合図した。
「じゃが小僧、無理はするでないぞ。お主はもう1人連れ立って逃げてくるつもりのようじゃが、見極めが大事じゃ。難しい時には迷わず1人でも逃げよ」
「わかってるよ。死ぬ気は全くない」
これはハンスの正直な気持ちだ。ヤコブの言い分ではないが、ハンスは自分が死ぬことがあまり想像できない。楽観的と言えばそれまでだが、できる全ての手立てをした後ならなんとなく生き残れる気がしてるし、「なんとかなる」と思っている自分がいる。
➖まあ、それで死んだとしてもそれまでさ。
あまり深く物事を考えないハンスの、天性の
「アドルフも、マーシャを守ってくれよ」
マリーヤの足元で座り込んで、ハッハッと舌を出していた白犬アドルフをなでるハンス。
身体は大きいがむやみと吠えることもなく、餌をくれれば誰にも懐くアドルフは赤十字船でも人気があるらしく、毛並みも良くなっていた。
それでいて、綺麗になったマリーヤにちょっかい出そうとする、下心ありの男性に彼女が困っていると「ヴ、ヴ〜」と低い唸り声を上げ、並んだ牙を見せて威嚇するらしい。なんとも心強い。
「と、あんまり遅くなってもまずい。そろそろ宿舎に…」
ハンスの最後の別れの途中で、マリーヤが飛びつくようにハグしてきた。
「絶対。絶対に逃げてくださいねっ」
「ああ、約束だ」
ハンスもハグで応じ、右手でマリーヤの頭を撫でるハンス。
最初に彼女の手を取った時はまだ小さい子供だったが、この2年ですっかり大きくなったなと実感する。
こうして、頭を撫でることもいつまでか。
➖その前に、ちゃんと逃げないとな。
全ては命があってこそ。
♢♢♢
赤十字船の出航は14時と聞いている。一路ストックホルムに向かうはずだから、今はこの辺りか、とアタリをつけて洋上を飛べば、ほどなくそれらしき船影が見えてきた。
白く塗られた船体の真ん中に、目立つように描かれた真っ赤で大きな十字。マストや船尾には青地に黄十字のスウェーデン旗と赤十字旗が並んではためく。
そして甲板には人、人、人。
立ったり座ったり、大きな鞄やリュックを背負った人々がぎっしりだ。その多くは女性と子供、そして老人で、シュトルヒに気が付いたかこちらを見上げている者も少なくない。
あの中にマーシャやジサマがいるのかもしれないが、上空からはさすがに見分けはつかない。
「あの赤十字船ですか」
「そう」
ミヒャエルの問いに答えながら、ハンスはシュトルヒをゆっくり大回りで旋回させる。
➖これで、気がついてくれたかどうかは分からないが…
見送りといってもできることはこのくらいしかない。ある意味ハンスの感傷だ。
このくらいで帰るか、とハンスが思った時だ。
「中尉!5時方向下方に変なものが!」
ミヒャエルが切羽詰まった声を上げる。
「5時?」
後方には海しかない。機体を右旋回させて横から前方で捉えようとする。
「!」
ハンスはそれを見つける。
海上からにょきりと生える棒。棒と海面の境目には白波が立ち、その棒が移動しているのがわかる。
「潜望鏡か!」
潜水艦がいるのだ。夏のバルト海は透明度が落ちるとは言え、その棒の下に鯨のような影が沈んでいるのもわかる。
「Uボート《うち》でしょうか、それともソ連軍の…」
「わからん…、が臭いわ」
この近くにはドイツ海軍の基地があるのだ。艦艇の見極めについては全く経験のないハンスでは、潜望鏡や艦艇のシルエットでは区別がつかない。
だが、一応ドイツ海軍の勢力範囲である。元来「潜水することもできる艦」である潜水艦は、浮上航行で充電しないと長期の潜航は出来なかったし、空気の入れ替えも必要だ。ドイツの潜水艦ならこの辺りでは浮上航行してそうなものだが…。
「潜望鏡、沈みました!」
白波を立てていた棒が海中に消えていくのはハンスにもわかった。
「……艦影、消えねぇな」
「…ですね」
待っても、潜水艦の影である魚雷形のシミは消える様子はない。それはすなわち深度潜航をせず、潜望鏡潜度を保って航行しているということだ。ますます怪しい。
「あー、こりゃ間違いねぇ。ソ連船だ。赤十字船を狙ってやがる」
魚雷形のシルエットは針度を変え、赤十字船の横面に向かっている。人員満載の旅客船より、潜水中の潜水艦(というか、シルエット)の方が素早い。このまま行けば船の側面、すなわち射点位置につかれる。
「で、でも赤十字船ですよ。それを沈めるんですか?」
「さぁな。赤十字が見えなかったか、『見えなかった』ことにして沈める気か…。案外知ってて沈める気かもな」
「なぜ?」
「イワンはドイツ軍が赤十字を隠れ蓑に、物資や人員を輸送してると非難している。実際に沈められた赤十字船もあるらしい」
これらは全てマリーヤから聞いた話だ。真偽は分からないが、赤十字だからといって絶対安全ではないし、無意無色の組織でもないということだろう。実際、眼下の赤十字船だってユダヤの「色」がついてるわけだし。
「ど、どうします?無線で赤十字船に警告をしますか?」
「……あの船の、周波数は分かるか?」
「…国際法における公定周波数なら、知ってます」
「さすが元無線技師。やるだけやってみるか」
ハンスの承認を受けて、ミヒャエルが無線にがなりたてる。
「こちらドイツ機。赤十字船応答せよ。聞こえるか?赤十字船、応答せよっ」
何度かタイムラグを置きながら無線を飛ばすも。
「…反応ありませんね」
「周波数が違うのか、あるいはドイツ機の無線に答える気がないのかもな」
「じゃ、じゃあ、ドイツ軍司令部に連絡して、攻撃機を派遣してもらうとか…」
「到底間に合わんよ」
焦るミヒャエルに対し、ハンスは冷静に冷たく答えてるように見えるが、内心はそんなことはない。マリーヤやヤコブの危機に相当に焦っている。
ただ、長年戦場にいた経験かハンスの性格か、危機を感じた時ほど冷静に頭を巡らせることがハンスにはできた。その危機対応能力が今までの彼を生き残らせてきたし、「なんとかなるさ」という楽天的性格を育てたとも言える。
「艦影、10時方向!まもなく射点につきます!」
「……後席、機体を急降下させる。捕まってろよ」
シュトルヒを降ろし、波飛沫が風防に飛ばないくらいの高度へ。ワイパーのない時代の航空機だ。視界が悪くなる飛沫は避けたい。
高度を下げたことで潜水中の潜水艦の艦影の全体像は確認しづらくなっているが、シュトルヒの12時方向、すなわち真っ直ぐ前方にいることは間違いない。
幸い海風が逆風となっており、半ホバリング状態の超低速で、潜水艦のすぐ後方にて並走状態で飛行。
船を本気で狙っているなら、魚雷発射直前に潜望鏡を上げて確認するはずだ。ならば、その時がチャンスとなる。
じりじりとした気持ちで追走をしていると。
「来たっ!」
海面を割りながら、潜望鏡が突き出てくる。
「後席!車輪を潜望鏡にぶち当てるから、掴まってろっ!」
ハンスは声を上げながら増速。潜望鏡の向きは正面、すなわち側面をさらした赤十字船の方を向いている。背後から近づくシュトルヒに気がつく様子はない。
➖行け‼︎
機体の真下についてる車輪を直接見ることはできないが、そこはシュトルヒを我が身体の如く扱うハンスだ。感覚で車輪の場所は分かる。
潜望鏡を右車輪で蹴るイメージで、シュトルヒを動かす!
やがて、ガツッとした衝撃が右車輪から伝わる。機体が左に傾くが、スロットルを開きシュトルヒを上昇、機体も立て直す。
「後席!どうだ⁉︎」
「潜望鏡、沈んでます!あ、気泡が漏れてます!」
「よし、浸水したな!」
ぶつけられ折れた潜望鏡から海水が入り込んだに違いない。今ごろ潜水艦の司令塔は水浸しだろう。
「艦影薄くなっています!急速潜航しているようです!」
目である潜望鏡を折られては攻撃もできまい。未知の敵の攻撃を避けるために、深く潜って逃げるのは潜水艦としては当然の行動だ。
「なんとかなったか」
完全に船影が見えなくなった海上をみて、一息つくハンス。
「中尉!さすがです!」
「なかなかの腕だろ?もっと褒めてもいいんだぜ」
鼻を高くしたハンスの言葉を遮るように、急に無線が騒ぎ立てる。
『こちらスウェーデン船オーラヴ号だ。そこのドイツ機、当船に何か用か?』
どうやら赤十字船が、不審な動きをするドイツ機を見咎めて連絡してきたようだ。流暢なドイツ語だ。
「今さら、ですか…」
『見ての通り、当方は赤十字船だ。ドイツ軍当局の通行許可も降りている』
「イワンの潜水艦には気が付かなかったようだな」
『ドイツ機、聞こえているか?聞こえているなら応答してほしい。くれぐれも性急に攻撃などはしないでくれ』
「……。あちらはこっちが攻撃するとでも思ってるんでしょうか?」
「これだけ距離があるのに、攻撃できると思ってるのかね?」
「せっかく守ってやったのに」
急降下爆撃万能論が強いドイツ空軍に所属する2人だから仕方ないのだが、船の側面を海面すれすれに飛行するシュトルヒの機動は、雷撃を仕掛ける攻撃機のそれによくにていたのだ。赤十字船が誤解したのも無理はないし、魚雷攻撃自体をほとんどしないドイツ空軍の2人が、そのことに思い及ばなかったことも、また無理はない。
「仕方ない。ミヒャエル、応答してやれ」
「了解。…あー、こちらドイツ機。当方に攻撃の意図はない。安心せよ」
『了解。では、当船に何か用でも?』
多少のタイムラグの後に赤十字船が聞いてきた。相当に怪しまれている。
「用はない。強いて言えば、当機にそちらの船の搭乗者に知り合いがいるので、お見送りに来ただけだ。貴船の安全な航行を願う」
『…了解です。お心遣い感謝する』
赤十字船からはほっとしたような、ある意味肩透かしを食らったような気の抜けた返答が来た。
➖安全な航行を、本気で願ってるんだぜ、これでも。
そう思いながら、ハンスは機首を返した。
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