5章 1943年2月〜6月 第1話 2月 デミャンスク上空(午前)

 スターリングラードの大勝は、ソ連軍大本営スタフカを、そしてスターリンを勢いづかせた。

 追い討ちをかけるべくアゾフ沿岸部で「ギャロップ《スカチョーク》」作戦を、その北方でハリコフを目指す「ズウェスター」作戦を発動、一気にドイツ南方方面軍の壊滅を狙った。

 それより前には、北のレニングラードの解放を目指す「火花イスクラ」作戦も発動して、ドイツ軍よりシュリッセルブルク回廊を奪取、レニングラード包囲陣は破られていた。

 ドイツ軍全面崩壊は現実味を帯び、危機感をもった軍は占領地の放棄を病的に嫌うヒトラーをなんとか説得して、北方軍のデミャンスク、中央軍のルジェフと2つの突出部を放棄して戦線を整理、余剰兵力を生み出すことで立て直しを図った。

 その際、撤退中にソ連軍の追撃を受けて兵力を減らしては元も子もない。

 半月のしっかりとした準備の後、デミャンスク撤退戦が開始された。


 ♢♢♢


 冬のロシアに、雲がない日はほとんどない。

 だが、今日はいつもと比べれば風も弱く、雪も降ってない。比較的、視界も良い。

「そういや、1年くらい前もこの辺りをよく飛んでたな…」

 スタラヤ=ルッサからデミャンスクへと繋いでいる連絡線、通称ラムシェヴォ回廊上空を飛行していたハンスの口から、そんな言葉が漏れる。

 去年は包囲されたデミャンスクへ、錐を穿つようにドイツ軍が前進していた時だった。

 今はデミャンスクから撤退する友軍の支援のために飛んでいる。

 より正確には1年に1ヶ月ほど足りない前の話だが、ドイツ軍の劣勢を感じないわけにはいかなかった。

「中尉殿。なんか言いましたかな?」

 小さい声でつぶやいたつもりだが、後席には聞こえていたようだ。のんびりとした、落ち着いた声が返ってきた。

「いいや、ただの独り言」

「承知ですわ」

 昨年末に後席が交代した。若く英雄願望のあるヨアヒム=オルブライト二等空兵は、消耗激しいパイロットになることを志願し、再び飛行訓練所に戻って行った。

 かわりに送られてきたのがミヒャエル=マイヤー二等空兵だ。つい数ヶ月前まではベルリンの無線技師だったといい、その経験が買われて、スターリングラードで消耗した飛行通信士として召集されたという。

「前の大戦の時は、最末期に少年兵として戦場に向かう途中で終戦となりましてな。今大戦は、もうこの歳なら戦場に立つこともないだろうと思ってたんですがなぁ」

 と、のんびり話してくれた43歳のおじさんだ。眼鏡を掛けた後席というのも初めてで、無線通信は専門家だが、偵察要員としては心もとない。

 まあドイツ軍のあちこちで人手不足の今、このくらいは仕方ないのだろう。ハンスとしては、ナチス大好きのヨアヒム君よりはるかに付き合いやすい。


 眼下の風景に目をやる。

 雪の中に黒い線がいくつか。その線に沿って細長くまとまって蠢くのが、撤退中友軍の歩兵だ。その脇を素早く動く箱みたいのが、トラックや軍用車輌となる。馬匹は歩兵の列に入り、ごたごたした荷物を積んだ荷台を曳いている。

 それぞれが縦隊となって、整然と、というには服装がくたびれているが、それでも慌てることなく規則的に白い息を吐きながら進んでいく。

「撤退は順調のようだな」

 兵が背を向けているデミャンスク方面では爆煙が立ち上り、かなり間が空いてズズンッという低音が響く。

「今の爆煙は、ドイツ軍のものですかな」

「多分。イワンの砲撃だとロケット弾が多いから音が違う」

 スターリンのオルガン《スターリノガル》の由縁だ。一度聞けば違いは明白だ。

「ちゃんと足止め砲撃出来ているということですか。いやさすが」

 戦場経験の少ないミヒャエルは、当たり前のことにも感心してくれる。


 撤退にあたり、上層部はデミャンスク防衛部隊をA集団とB集団、砲兵隊にわけた。

 撤退の手順はこうだ。

 A集団が前線を維持してる間に、B集団と砲兵隊は前線から4~5km後方に第二防衛線を構築し、撤退の援護をする。

 それが出来たのち、A集団は足の遅い歩兵から随時後方に下がり、トラックや対戦車砲を牽引したハーフトラックがそれに続き、戦車や自走砲が殿を務める。ソ連軍の追撃には待ち伏せて撃退し、手に負えないくらいの軍勢には第二防衛線からの砲撃や、今日くらいの天候なら空軍を呼んで足止めをする。

 そしてA集団は第二防衛線を通り過ぎ、そこから4~5km後方の決められた場所に第三防衛線を構築、砲兵隊も随時後退して第三防衛陣地に移動、今度はB集団の撤退を援護する。

 これを数回繰り返してデミャンスクから離れ、イリメニ湖➖スタラヤ=ルッサ➖ホルムの防衛線まで撤退することになっていた。

 今のところ撤退は順調で、ソ連軍もそれほど熱心に追撃してくるわけではなく、ドイツ軍が撤退する分だけ前に進む感じだった。

 そして現地指揮官の臨機応変、独断専行も自己責任で認められているのがドイツ陸軍だ。

 ソ連軍に追撃の意図なしと見ると、いちいち防衛線を形成する必要性もないとされ、今は全面撤退を行なっている。

 もちろん油断は禁物だ。「イワンに攻める兵力なし」とたかを括って、スターリングラードの悲劇をもたらした記憶も新しい。シュトルヒや偵察車輌を広範囲に広げて、逆襲の警戒は怠っていない。


 シュトルヒの上空を、我が軍の戦闘機4機が編隊を組んで前線に向かっていく。速度も結構出ていることから、敵の爆撃機でも見つけたのかもしれない。

「頑張れ」と心の中で応援しておく。

「あれは味方の飛行機ですか?」

 目の悪いミヒャエルは、眼鏡に双眼鏡をくっつけて見ているらしい。

「そう。この天気なら、あいつらにも働いてもらわんとな」

 戦闘機は性能が良い分、ちょっとの積雪でも飛べなくなる。

 兵力差が開き始めているドイツ軍がなんとか互角に戦えているのも、完全ではないにせよ制空権がドイツ側にあるからなのだが、冬場になると飛行機が飛べない日が多くなるのがやっかいだ。

 ソ連軍が大規模な冬季攻勢を仕掛けてくるのも、その理由が大きいのだろう。


「本国ではあまり味方機が飛んでなかったので、あまり見たことありませんで…」

 恐縮した感じでミヒャエルが言い訳っぽいことを言う。責めた気はなかったのだが、味方機も区別できないのか、と取られてしまったのかもしれない。

「ベルリンでも空襲が激化してるって聞いたけど」

 ミヒャエルを責める気はないハンスは、微妙に話題をずらす。

「そうですな、前までは夜間爆撃ばかりでしたが、最近は昼中爆撃もちらほら。ですが、防空は基本高射砲部隊が行いますので」

 88mm高射砲など優秀な対空兵器を過信して、戦闘機をあまり本国に配備してないのがドイツ空軍だ。

「ゲーリング《うちの》空軍総司令たいしょうは、本国に敵飛行機が飛ぶようなら俺をバカにしろ、と豪語してなかったっけ?」

「皆がバカだと知っているゲーリング《ふとっちょ》を、いまさら嘲ることほど無駄なことはありませんなあ」

 のんびりした口調で、案外辛辣なことをいうミヒャエル。

「フランス国境付近の街は空襲被害も大きいらしいですが、なにせまともな情報を政府が出してくれませんからな、よくは分かりませんが」

 情報統制されているハンス達が知る由もないが、北フランスの軍事基地やドイツ西部の街は、不充分な防衛体制をつかれてかなりの被害を出している。昨年にはいわゆるケルン爆撃が行われ2万人の市民が犠牲となり、以後のドイツを暗示させることもすでに起こっていた。


 ハンスはシュトルヒを緩やかに90°旋回させる。

 一応与えられた哨戒コースがあり、それに沿って回廊から北側に機首を向ける。昨年の敵陣地索敵の時も思ったが、森林が増え地上の目標が隠されることも多い地域だ。

「敵さん、見当たりませんなぁ…」

「良いことさ。まあ、警戒しながら撤退する敵を攻めても、っていう判断がイワンにもあるんだろう。領土は取り返せているわけ……」

「……?どうかしましたですかな?」

 ハンスの言葉が不意に途切れた事に、ミヒャエルは不審の声をかける。

「3時、いやもう4時方向か。その下方。森から少し離れた丘、というか崖の上」

「ちょ、ちょいとお待ちを」

 ハンスに言われ、急いで双眼鏡を眼鏡につけて索敵をしているらしい後席。手際悪い音がするのも、新人の召集兵であるなら仕方ないところだ。


「雪が積もった笹藪の中にうずくまった、多分ソ連兵が2人。確認できるか?」

 ハンスは高度を落とし、右に緩やかに旋回。後席にも見つけやすいように機動する。

「……え〜と、…あー、どこだろう…」

「1人は双眼鏡を持っている。迷彩服は白一色ではなく……、お、向こうはこっちを見つけたみたいだ」

 エンジン音で気がついたか、1人の男がこちらを向き、もう1人の双眼鏡男の腕を引いている。

「あ、見つけました!」

 相手に動きがあった事で、ミヒャエルも気がついたようだ。シュトルヒ自体、かなり高度を下げて機体も傾けている事から、ソ連兵らしい2人の表情も分かるくらいまでになっている。

 ということは、あちらさんからもハンス達の顔が見えるということだ。

 双眼鏡を持った、多分上官と思われる男が、シュトルヒに向かって空いた左手の中指を立ててきた。

 ドイツ人のハンスにも分かる、白人世界共通の侮蔑、そして喧嘩を売る表現。

「やってくれるじゃねぇか」

 ちょっと面白くなったハンスは、操縦桿を左手一本に任せ、右手の親指を立てて大きな仕草で首を切る動きを見せ、その後に親指を下に向ける。いわゆるサムズダウンだ。

 それを見たであろうソ連兵の口元に浮かんだのは、不敵な笑いというべきか。


「イワンの偵察兵だ。間違いない。民兵パルチザンにしては装備が良すぎる」

 2人を監視するように、シュトルヒを上空で小回りさせながらハンスが言う。

「じゃ、じゃあ、我が軍の撤退の様子を?」

「このままにしとくわけには、いかねぇな」

 情報を制す者が戦場を制す。古来より普遍の戦争の鉄則であり、強者ほど偵察を怠ることはしない。

 そして、敵の偵察兵を見つけたらこれを追っ払って情報を与えないことも、偵察兵に与えられた重要な任務だ。

「でも、この機は非武装では?」

「なあに、生身の人間相手なら、シュトルヒ自体が武器になるさ」

 と、ハンスはシュトルヒを超低空に降下。プロペラの回転と速度による風圧で、地上の雪が舞い上がる。その近くに生身の人間がいればどうなるかは、想像しなくてもわかる。

 そしてそのままの高度でソ連兵のいる丘に機首をむけると、さすがに危険を感じたのか、もう1人の兵士に腕を引っ張られる形で、森へと逃げ込んでいく。


「これじゃあ、追い回すのは無理か」

 丘の近くにある雪を頂いた森は広いものではないが、中は暗くて外からは見通せない。シュトルヒの高度を上げて上空を1、2度旋回したが、奥の方にいるのか見つからない。

「森でちぢこまってるのでしょうなあ」

「ただ、ちぢこまってるだけかな?」

「どういうことです?」

「イワンの前線からはかなり離れているんだ。ここまで徒歩かスキーで来るのは無理だろ。だとしたら…」

 と、そこでハンスが思いつく。

「後席、無線でイワンの周波数を拾ってくれないか?」

「イワンの?そりゃかまいませんが」

「多分奴らの偵察装甲車あたりが森に隠されているはずだ。無線もついているだろう。だったら…」

 ハンスの言葉を遮って、後方の無線がトン・ツー・トントン…と、信号音を発した。音はかなり大きい。

 さすが無線の専門家だ。あっさりソ連軍の周波数を探り出したらしい。

「当たりですな。これだけクリアなら発信元はごく近いです。……ロシア語、間違いない」

「音だけでわかるのか?」

 長距離で使う信号無線は、本来細長いテープに信号を打刻して解読するのだが。

「長く無線技師やってましたからなあ。ドイツ語と英語は打刻しなくても音がクリアならわかります。ただ、ロシア語はキーのテンポから『ロシア語だなあ』とわかるだけで、意味までは。しかも一単語が長いので、暗号文ですな」

 今回の後席、偵察員としてはお世辞にも有能とは言えないが、通信員、諜報員としては一目置けるようだ。


「まあ、この状態でイワンの偵察が発する通信なんて、想像はつく」

 間違いなく、ドイツの撤退の様子を伝えているはずだ。ただ、無線では細かい情報は伝えられないだろう。

「でも、森の中じゃあ」

「追い出してみるか。ミヒャエル、ウチも無線を打て」

「了解。でも何と?」

「そうだなぁ『シュトルヒアイン、敵偵察兵発見。陸軍に通報願う』かな。イワンの目を潰すのは、陸軍の仕事ってことで。あ、場所もちゃんと伝えてな」

「暗号文?速さなら平文もありですが」

「あー、暗号文でいいよ。手間かけて悪いが」

「いえいえ、これがわたしの仕事ですからな」

 と、紙をめくる音(暗号書を見ているのだろう)と共に、キータッチする音が後席から聞こえる。

 暗号文はブラフが増えるために、キータッチ量が倍以上になる。かつ、機密保持のために暗号書も一定期間で改定される。ミヒャエルが無線の専門家としても、ついこの前までは民間人だったのだ。軍の暗号文を打つのは時間がかかる。

 森の上空をゆっくり旋回しながら、暗号電を打ち終わるのを待っていると。

「お、やはり飛び出してきたか」

 森から1両の冬季迷彩をした装甲車が、雪上に2本の轍をつけてはしりだしていた。

 ハンスが見たことない型だ。雪上でもスピードが出ていることといい、新型の偵察車かもしれない。

「森でちぢこまっていれば見つからないのに」

 キータッチしながら後席が呟く。

「ヤツらも俺たちと同じことをしたんだよ。ドイツ軍の周波数に合わせてみたら、明らかに上空に旋回してる飛行機から、あやしげな暗号文が出てる。意味わかんなくても、敵を呼び寄せてるって事は容易に想像がつく」

「なるほど、それにビビったわけですか。そのための暗号文と。さすがですな」

 ミヒャエルから納得した声が漏れる。

「逃げた敵を追うぞ。後席は偵察兵が逃げたことを無線で。これは平文でいい」

「了解」

 後席に指示を与える一方、シュトルヒのスロットルをふかして、敵車を追跡する。


 しかし敵は手練れだったようだ。

 点在する林に逃げ込んでは、方向転換して撒こうとするし、この辺りの地理にも詳しかったのだろう、広大な森林地帯に入り込んで姿をくらませた。

 もっとも、ハンスとて非武装のシュトルヒで撃破出来るとは思っておらず、偵察兵を追っ払うことができれば、仕事はしたことになる。

 テキトーに辺りを探して時間を潰した後で帰投した。





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