捨てられなかった手紙 ※シュヴァルツ視点

 俺ことシュヴァルツ・ヒストリアは、自分のことを痛みに強い人間だと思っていた。

 武術の訓練で怪我をしても、王族という立場を妬む者たちから心無い罵声を浴びても、一度たりとも泣いたことはない。


 ……それなのに。


 ――貴方のことが嫌いになりました。

 ――もう二度と私の元に姿を現さないでください。


 あの手紙に書かれていた内容が、ナターシャの声となって頭の中に何度も再生される。

 愛する女が、俺のことを拒絶した。

 たったそれだけのことで、俺の心には消えない傷となり、今なお疼いている。


 あれ以来、俺はナターシャと一度も会ってはいない。

 話をしたいと思い、何度も神殿まで足を運んだ。

 だけどナターシャの意志は固く、門前払いされるだけだった。


 俺たちの関係は特殊だ。

 すれ違いや誤解は何度もあった。

 それでもお互いの気持ちを確認し合い、最終的には仲直りしてきた。

 だけどこんな形で、一方的に拒絶されたことは今までになかった。


 ……もうナターシャと会えないかもしれない。

 そう思うと全身から力が抜けていく。

 ソファーに腰掛け、意味もなく天井を見つめている今の俺の姿は、正に抜け殻そのものだ。


 だが、そんな落ち込む俺とは対象的に、周囲の者たちの反応は明るかった。

 一国の王子が聖女に入れ込んでいるということを好ましく思わない者は多い。


 俺たちの関係の悪化は、皮肉なことにこの国にとっては好材料というわけだ。

 特に母さんは俺がナターシャとうまくいっていないことを知ると、すぐに縁談話を勧めてくるようになった。


 俺たちの関係が拗れている内に、俺をどこかの令嬢とくっつけたいのだろう。

 機を見るに敏。流石はこの国の頼れる女王様と言ったところか。


 ……まぁ俺もこの国の王子だ。

 子を作り、この国を安定させることの重要性は嫌というほど理解している。

 それにナターシャに出会う以前の俺は、この国の発展こそが一番に考えてきたし、今もこの国をより良い国にしたいという思いは残っている。


 ただナターシャと出会ってから、国益よりも、惚れた女の気持ちを優先するようになっただけのことだ。

 俺がナターシャ以外の女と結婚すれば、ナターシャは間違いなく傷つく。

 だから今まで縁談は全て断ってきたが、ナターシャにフラれたのだ。

 今一度、王子として国のことを考え直す良い機会かもしれない。

 それに新たな恋を見つけることが、失恋への特効薬だとも言う。


 そう思い、俺は今まで断り続けていた縁談を受けることにした。

 ……が、どんな令嬢に会っても俺の心は虚しくなるだけだった。

 その中には、ナターシャに似せた外見の女もいた。


 俺とナターシャの関係は有名だ。

 大方、俺の好みに合わせようとして媚びているのだろう。

 だが、いくらナターシャに姿を似せたところでただの別人だ。


 俺が好きなのは、良いところも、悪いところも引っくるめたあいつの全部だ。

 中身を置き去りにしてきた別人なんかに惹かれることはない。

 むしろ、改めて自分がナターシャのことをどうしようもなく愛しているという事実を再確認させられるだけだった。


 ……女々しいって言うんだろうな、今の俺は。


 いつの間にか、頬に涙が伝っている。

 人は悲しいと涙を流す。頭でわかっていたが、まさか自分がこんな体験をするなんてな……。


 ナターシャにとって、俺との関係はそんな簡単に切り捨てられるようなものだったのだろうか。

 ……いや、聞くまでもないことか。

 頑なに俺と会おうとしないのは、それだけ俺のことが嫌いになったということなのだろう。

 それにあの手紙には、俺に対する嫌悪がこれでもかと記されていた。

 話さなくてもわかる。ナターシャは俺のことが嫌いに……


 ……待てよ。


 あの手紙に書かれていた字は、たしかにナターシャの書いたものだ。

 だが、あんなにも無機質な字を書くような女だっただろうか。


 そう思うと、確かめずにはいられなかった。

 俺はおもむろに引き出しからあの手紙を取り出した。

 取っておいても仕方のないものだ。辛くなるから何度も捨てようとした。

 それでも捨てられなかったのは、この手紙を捨てることでナターシャとの繋がりが本当に終わるような気がしたからだ。


 この手紙を何度読んでも、その内容が変わるわけではない。

 ただ古傷をなぞるだけの、自傷行為かもしれない。


 だけどそれでもいい。たとえどれだけナターシャが俺を嫌ったとしても、俺はナターシャのことを愛している。

 惚れた女の気持ちに気づかないままの方が嫌だ。


 ……ただ、もしこれで何もわからなかったら、今度こそ俺はナターシャを諦めるつもりだ。


 俺は意を決して手紙を再び開いた。

 そして気づく。感情を押し殺したような文字の上。

 そこに……わずかな涙跡があることに。


 つまり、ナターシャは、この手紙を書きながら泣いていたということだ。

 そんな想いが、文字に乗らない感情が、涙としてこの手紙に滴り落ちたのだろう。

 つまり、それだけ辛い想いをしながら手紙を俺に送ったということになる。


 俺の女が、誰にも聞こえない声で泣いている。

 そして物分かりの悪い俺は、ようやく理解した。

 ナターシャは、俺の将来のことを考えて、自らの意志で身を引こうとしているということに。


 ナターシャを愛しているのは、あくまで俺の意志だ。

 そのことは何度も言葉にしてきた。

 だけど実際にこうなったということは、あいつが安心して俺に愛される環境が整っていなかったということになる。


 ……嬉し泣き以外に、泣かせたくなかったのに。


 自らの不甲斐なさが嫌になる。

 周囲に天才だと持ち上げられ、巷の女たちが憧れる男の実体は、惚れた女一人すら幸せにできない情けない男だったというわけだ。


 だが、後悔なんてしていても状況が改善するわけではない。

 惚れた女が悲しくて泣いているのなら、それを拭ってやるのが男の役目だ。


 ならば、俺がやるべきことは一つだ。

 聖女であるナターシャが、堂々と俺に愛される世界を実現すること。


 そのためには……まずは魔王を倒さなければならない。


 幸い俺は才能に恵まれた。

 それを幼少の頃からずっと磨いてきた。

 そして何よりも、そこに強い覚悟が乗っかった。


 この世界が俺の女を泣かすというのなら。

 変えてやるよ、俺の女が笑顔でいられる世界に……!


 こうして俺は魔王討伐の旅に出ることを決め、そのことを母さんに話した。


 とはいえ、流石にことがことだけに、簡単には認めてくれなかった。

 終いには、「この国と聖女、どっちが大切だ!?」と問いかけられる始末。


 その問いに「ナターシャ」と即答すると、母さんは思いっきり俺を打った。

 珍しく泣く母さんを見ても、俺の決意は揺らがない。

 俺は王子失格だ。国よりも、一人の女の方を優先してしまうようなやつだからな。


 俺の説得を諦めた母さんは、「勘当だ! 魔王を倒すまで、この国の敷居を跨ぐことは許さん!」と言い、俺を国から追い出した。


 流石は俺の親。

 つまり、「魔王を倒したら戻って来ていい」ということらしい。

 なんだかんだ言いながら、俺が魔王を倒せると信じてくれているのだろう。


 こうして俺の旅が始まった。

 婚約者と、その婚約者が泣かなくて良い世界を手に入れる旅が。

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