9話 距離
カーテンの隙間から溢れる朝日がちょうど花瓶に反射して、凛と輝く一輪のガーベラ。起き抜けの風景にしては上出来。そんな誕生日の朝を迎えた。
身支度を済ませリビングへ降りる途中、既に廊下に漂う香ばしいバターの香り。
ドアを開ければそこに、カトラリーを並べるエイトの姿があった。
「おはよう、パトリック」
いそいそとこちらに駆け寄り、満面の笑みで始まる祝福。
「お誕生日おめでとう。嬉しい日だね」
「ええ。ありがとうございます」
お礼を続ける間もなく、彼は私の手を引きテーブルへ。そこに置かれていた紙袋には見覚えがあった。
「お誕生日プレゼント、一緒に使ってくれる?」
白いリボンを纏う、ペールピンクの横長の箱。窓から覗くのは、仲良く並んだマグカップ。満月を思わせる淡く柔らかい色味の、お揃いのマグカップだった。
「もちろん喜んで」
「よかった。あ、自分変だね」
「何故です?」
「パトリックのお誕生日なのに、自分もこんなに嬉しいから」
頬を染め、そんなにも目尻を下げて。
喜びを分かち合う姿は、こんなにも美しいものなのですね。
必ずや大切な思い出として残るでしょう。
彼と出会うまで、思い出など蓄積させるだけ無駄と思っていた。共に過ごした時間を記憶したところで所詮相手は他人。離別に帰結するか、その記憶も忘れたことすら忘れてしまうのが関の山。故に思い出に利などない、そう考えていた。
しかし彼が教えてくれた。思い出はただの情報とは異なり、相手と喜びや幸せ、悲しみや涙でさえも分かち合うことで、「私は独りではない」と示して支え、心を包むものであると。そこに利など、必要なかった。こうして思い出を共有できるとは、なんと素晴らしいことだろう。私の中にエイトとの思い出が募っていく。これが幸せの感情なのかもしれない。
お手製の朝食を堪能しているとき。空のマグにエイトがコーヒーを注ぎ足してくれた。なんとなしにその手元を見ていると、彼は心配そうに片手を差し出した。
「ごはん足りなかった? 血、飲む?」
「フフフ。大丈夫ですよ。ただ単純に、エイトの手が綺麗だなと、そう思っただけですよ」
こちらの素性を知れど詮索せず、態度が変わるようなこともなかった。時々こうして可愛らしい勘違いをすることはあったが、それは私の口元を緩めた。そして同時に心もほぐした。
種族や肩書きではなく、私と真っ直ぐに向き合ってくれるエイト。彼の行動が、視線が、笑顔が、素直にそう伝えてくれている。こんなに嬉しいことはない。
昨日、この手を好きだと言ってくれたが、言い間違いに違いない。単純に、家族としての親密度を言い表したかったのだろう。彼の言語表現にはまだ、心許ない部分がある。
一方の私は、心の何処かで、家族と割り切れない感覚を否めないでいた。彼の心を覗けば、私をどう見ているか瞬時に明らかになるだろう。しかし出会いの日以降、その能力は一度も使っていない。彼に対して一方的に心を探るのは、何か違う気がした。
彼はもう、他の人とは違う存在。
それでも。
私より断然若く、彼ならこれからいくらでも明るい未来を創造することができる。
優しい彼には、私よりも、愛情深い女性の隣の方が似合う。
長い共同生活で近づき過ぎた心を元の位置に還すべく、距離を置くことに決めた。
以降はなるべく店で仕事をするようにし、家にいる時も多忙を理由に執務室への出入りを控えてもらった。だが効果は無かったようで、ある朝の出勤時、彼はこちらに駆け寄りこう言った。
「パトリック、よかったらこれ持っていって。いつものコーヒーが入ってるよ」
そして手渡される水筒。
「いってらっしゃい。無理しないでね」
別の日の夕食時。彼が準備したのはレアというより生と表現する方が適切な、赤みの目立つステーキ。人の血と赤い肉汁は全く別物なのだが、私を思って調理してくれたことが十分に伝わる一品だった。しかしレアの食感に慣れないエイトは、やはり食べづらそうにしている。
「エイト、無理することはありませんよ。もう少し火を通してきましょうね」
プレートを下げると同時に溢れる気落ちの声。
「ごめんね……こうやって食べたら、パトリックの気持ちがわかると思ったんだけど……」
彼の優しさは湧き水のように際限がない。出来ることなら享受したいが、まがい物の優しさを身に纏った私に、その権利はない。
さらに別の日。久しぶりの晴れ空の下、エイトは張り切って洗濯物をしていた。それらが乾ききった頃、執務室のドアの隙間からしゅんとした顔が覗く。
「パトリック、ごめんね。白をピンクにしちゃった」
「おや、色移りですね」
両手で抱き締められた淡いピンクのシャツは、かつては白かったはずの私のシャツだ。
「これはこれで私好みの色味ですよ」
「うん、でもごめん。新しいシャツだったのに。お詫びに、飲む?」
何を思ったのか、滑らかに差し出される右手。推測するに、お詫びとして血を分け与えようとしたのだろう。だが、コーヒーを出すのと同じ調子で提案する様子が堪らなく愛らしかった。
「フフフフ。そうやって無闇に差し出すものではありませんよ。いくら少量でも、気怠さを残すでしょうし。気を遣わなくともよいのです」
その実、飲めるものなら飲みたかった。しかし抑えが効かなくなる不安から、たとえ一滴でも飲む気になれずにいる。
不安に拘束されるなど、私らしくない。出会ったことで様々な感情を味わっているのは、むしろこちらかもしれない。
距離を意識し始め、およそ一ヶ月。彼も何かを感じ取ったようで、自室や書斎に籠ることが多くなり、いよいよ成果が出始めている。このまま共同生活も解消されるだろう、そう願った。
とある穏やかな土曜午後。庭のダリアに水やりをする私の傍へ、遠慮がちに近寄る足音。いつかのようにぎこちなく間を置き立ち止まり、エイトはそのまま俯いたまま。しばらくの逡巡の後、不満そうに、けれどそっと私のカーディガンの腰元を摘む。私も散水シャワーを脇に置き、静かに彼の言葉を待つことに。
よほど言い難いのだろうか、風と共に流れる沈黙。
「エイト。どうしました?」
「……パトリックは、自分のこと、嫌いになった?」
いまだ視線は交差せぬまま、彼は続けた。
「何か悪いことした? いけないこと言った? もしかして邪魔ばかりしてた?」
今にも泣き出しそうな声音に軋む胸の奥。
このまま貴方を包み込めたなら。本当のことを、伝えられたなら。
けれど代わりに、体のいい答えを。貴方のために、決着を。
「まさか。そんなことありませんよ」
「でもパトリックは、最近自分のこと避けてる。だからたぶん、自分は何かしちゃったんだと思う。パトリックは優しいから、それを言わないだけだよ」
「いいえ、違いますよ。決して優しいわけでは」
「違くない!」
その瞳に滲む、淡い期待と深い不安。
「全然違くない。パトリックは優しいよ、知ってる。だから謝るから、全部謝るから。お願いだから嫌いにならないで。自分をなかったことにしないで。エイトを、他人にしないで」
貴方のことを、他人になんて。
「いいですかエイト。先日、私のことをお話しましたね。ヴァンパイアとして、人に近づくために優しさは義務なのです。ですからこれは
他人。自ら発しておきながら、その切っ先は私の胸に突き立てられた。
貴方も相当堪えたのでしょう。次第に赤らみ始めるその目元。
「何でそんなこと言うの? ずっと傍で見てきたから分かるよ、パトリックの優しさは本物だって。パトリックがどう思おうと、自分はそう信じてるから」
「……エイト……」
「それに、パトリックが教えてくれたから、自分はこんなにも人間らしくなれた。本物の幸せをくれたから、こんなにもたくさんの感情を知れた。パトリックが全部本物だから、自分は……」
カーディガンに伸びた手の力が緩んだ。
もう、これで終わり。
引き際を意識した瞬間、引き寄せられ触れ合う胸元。
「パトリックが好き」
「…………え……?」
「パトリックが大好き。でも勘違いしないで。優しさや幸せをくれるからじゃないよ。命の恩人で、感情を教えてくれたからだけでもない。パトリックがパトリックだから好きになったの。だけどこれ以上、パトリックの邪魔にはなりたくない。だから」
「その先は言わせませんよ」
強引に言葉を引き取らせてもらった。だって。
「ありがとうございます。同じ気持ちでいてくれて」
瞬時に両手を広げて抱きつくエイト。そして私の腕の中で咲き誇る笑顔。
今、私の心を満たして溢れる感情は、嬉しさや幸せだけでは物足りず、快いとも、満足とも異なる。そう。これこそが愛情。
「ねえパトリック」
「はい」
「ひとつ教えて。自分はパトリックがいないと寂しくて悲しい。一緒にいると嬉しくて、隣にいるときが一番幸せ。この感情のカタチは何?」
「エイト、それはきっと_____」
それがきっと、自らの手で掴み始めている愛情の記憶。
もしかしたら、感情記憶が出来るようになってきたのかもしれない。
愛がそうさせたのかも知れない。そう信じて、もう一度強く抱きしめた。
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