7話 探索

 誕生日の翌週。自分は初めて留守番というものを体験した。このところ執務室に籠もりきりだったパトリックが、昼食を済ませるなり申し訳なさそうに切り出した。

「急ではありますが商談が入りました。夕食までには戻りますので、お留守番を頼めますか?」

「うん、大丈夫。いってらっしゃい」

 寂しくないと言ったら嘘になる。でも、彼を笑顔で送り出すことができた。たとえひとりになっても、パトリックは必ずここに戻ってきてくれるから。自分はもう、ひとりきりじゃない。


 お見送り後、妙に存在感を増す無音の空気。あえてやることを詰め込むことにした。

 今は読書の気分ではないし、夕食の準備にはまだ早い。庭の手入れも花瓶の水換えも済ませている。予定が決まらず廊下で右往左往するうちに、何か初めてのことを試したくなった。そして早速、この家で開けたことのない部屋を開拓してみることに。


 まずは物置部屋から。執務室の隣にあり、部屋の前はよく通っているものの、特に用がなく存在感の薄い部屋だ。パトリックが入っているところも見たことがない。

 窓を開けて換気しつつ、ざっと部屋を見回してみる。壁際のサイドテーブルに飾られた、一輪のプリザーブドフラワー。その足下には小型のトランク。天井まで届く棚には、セピア色の書物が規律正しく詰め込まれていた。そのほとんどが仕事に関する過去資料で、いくつか開いて読んでみたけれど、専門用語が多く全てを読み解くことはできなかった。

 これで最後、そう思いつつ手に取ったのは手書きのノート。とあるページで見つけた手描きの百合のイラストが、とても綺麗だった。


 三ヶ月も一緒にいるのに、パトリックのことをまだよく知らない。花が好きなことは知っていた。でも、香り立つような可憐な百合が描けるなんて、知らなかった。同じ時間を重ねたのだから、もう十分理解できていると、思い違いをしていたのかもしれない。百合を撫でながらそう思った。


 物置部屋を後にして、隣の執務室に入る。普段過ごしている場所を見れば、もっと多くを知れるはずだと期待した。執務机の上には新聞紙と万年筆が1本、定位置に置かれている。机の上だけでなく、この部屋は全体的に折り目正しい。全てのものがあるべき場所にあるべき姿で佇んでおり、一切の無駄がない。サイドデスクに飾られた花も、背筋を伸ばしているように見える。書棚も、引き出しの中も、「後日処分」と書かれた箱の中でさえ整っている。

 そうやってたくさん覗いたけれど、パトリックを見つけることはできなかった。彼のことを知りたいのに、彼の記憶を残しているものが一切見当たらない。写真も、日記も、手紙もない。リビング、書斎にピアノの部屋。どこにも彼が見当たらない。

 ここは一見すると贅沢で満たされているのに、その主人の痕跡だけが抜け落ちている。


 つい先日、いま襲われているこの感情を「意気消沈」と呼ぶと教えてもらった。気晴らしにリビングへと向かい音楽をかける。それも今日は功を奏さず、音符が右から左へと通り抜けてしまい、すぐに音を止めた。

「なんか違う」

 お気に入りの場所で読書しても、美味しいコーヒーを飲んでも、芳しい庭を歩いても、いまいちしっくりこなかった。

「ひとりじゃ、つまんない」

 ひとりには慣れていたし、それが普通だったのに。ふたりを知った今は、前の自分とは違う。パトリックがいないと、つまんない。


 自室に戻るべく廊下を進む途中、もう一つ未知の部屋を見つけた。パトリックの寝室だった。好奇心に駆られ、すぐさまドアノブに手を伸ばす。

 鏡台とキングサイズのベッドのみが置かれたシンプルな寝室。一目見て彼らしさを感じた。鏡台の上には香水瓶、キャンドル、小説と一輪挿しが置かれている。まるでデコレーションのような品々の中に、不釣り合いなものがひとつ。しわしわの紙には「十五時にパトリックにコーヒー。忘れない」の文字。いつ書いたのかも覚えていない、自分の走り書きのメモだった。何故それを取っておくのかはわからない。だけど嬉しいの感情がぴったりな発見だった。


 いよいよベッドに視線を移す。綺麗に整えられたベッドリネンは、起きた時のままにする自分とは全然違う。ゆっくり近づいてみると不思議と気分が落ち着いてくるので、そのまま横になって枕に顔を埋めてみた。いつもそばにある優しい香りがした。

「やっと会えたね」

 いま感じている感情は、嬉しいや幸せだけでは物足りず、心地良いとも満足とも違う。この感情のカタチはわからない。まだ教えてもらってない。だけどきっと絶対に、特別な感情だと思う。



***



 朝刊のとある記事が目に止まった。それはこの街で起きた怪奇現象に関するもので、現場の状況からしてヴァンパイアの仕業とすぐに分かった。


 我々は基本的に共存せず、互いの領域を固く守りそれを尊重しながら生きている。領域とはつまりテリトリーのことだが、これが重複すると食物の絶対量が減少してしまうため、そこに起因する無駄な争いを避けるためにも節度ある距離感を保つことが絶対的規則。

 この街は、生まれてこのかた私の領域。過度の食事で食物が減らぬよう、そして決して怪しまれぬよう計画的かつ戦略的に食事をし、この豊穣の地を守ってきたというのに。

 このところ私が食事を控えていたのをいいことに、不可侵領域に手を出した不届き者がいるようだ。

 つまみ食いならまだ許そう。だがあろうことか痕跡を残し、街を騒がせてしまうなんて。食欲の言いなりと成り下がり、ヴァンパイアとしての自負を忘れた者に領域を侵されるなど何たる屈辱。この落とし前、しっかりつけさせてもらおう。


 仕事を午前で切り上げ、適当な理由を残して外出することにした。

「急ではありますが商談が入りました。夕食までには戻りますので、お留守番を頼めますか?」

「うん、大丈夫。いってらっしゃい」

 十五時前後に出没との情報をもとに、その時間帯を目掛けて探索を開始する。それにしても食事には珍しい時間帯だ。もしスナック感覚でいるのだとすれば、ますます許し難い。


 街はいつもの活気で賑わっていた。まるで怪奇現象など無かったかのように、普段と変わらぬ日常が流れている。カフェテラスから弾ける郎笑に、声を掛け合い通りを駆け抜ける子どもたち。それらを横目に進み続ける途中、ふとブティックのショーウィンドウに目が止まった。親子のマネキンが揃いの洋服で寄り添う風景に、自然と蘇るエイトさんとの会話。



 買い出しに出掛けたその日、帰りがけにカップルとすれ違った。好奇心と共にまじまじと見つめる彼を注意すると、彼は真剣に問いかけた。

「なんで同じ服を着るのかな?」

「彼らが仲良しだからでしょう」

「仲良しは、同じ服じゃないといけないの?」

「いえ、少し言葉が足りませんでしたね。あのようにお揃いにすることで、お互いの親密度を確認したり、それを目にした方々に好きあう者同士であると酌んでもらうことが出来るのです」

「そうなんだ。じゃあ、お揃いは幸せなことだね」

「ええ。ちなみに、洋服だけでなく、ハンカチやペンなど身の回りのものをお揃いにすることもありますよ」


 彼はどんなことにも幸せを見出せる感覚を持っている。今ごろ独りで、何を感じているのだろう。

 脱線した思考を軌道修正し、偵察を再開。大通りをあらかた周ったところで路地裏へと足を向ける。

 気づけば収穫のないまま十七時目前。今日のところは引き返そう、そう思い振り返った瞬間、腰元に感じる軽い衝突。不注意で幼い子どもとぶつかってしまい、彼はその場に転んでしまった。

 静かな路地裏には二人きり。その気になれば即座にこの子を食すことも可能だろう。だが不思議とその気分にはならなかった。

「ごめんなさい。お怪我はありませんか?」

 小さな手を取り立ち上がらせ、元気に走り去る様子を見送った。


 この街は人で満ち満ちている。けれど今の私の本能を駆り立てるには、圧倒的に何かが足りない。


 家に戻り待ち受けていたのは、物音一つせず明かりのない静寂な空間。かつては普通であったものが、違和感となって押し寄せた。そんな感覚の変化を不思議に思いつつ階段を上ると、寝室のドアの隙間が目に止まった。そこに彼の気配を感じ押し開くと、案の定、彼は私のベッドの上で寝息を立てていた。

 無邪気すぎるのも困ったものだ。濃密な残り香で焦らされるこちらの身にもなってほしい。



 自分が目を覚ますと、そこには待ち望んだ姿があった。パトリックが目と鼻の先ですやすやと眠っている。喜びと幸せが一緒に心にやってきて、自然と口角が上がった。寝ている時でさえパトリックの雰囲気は優しくて美しく、ずっと見ていたい気持ちになる。その上向いた手のひらに自分のを重ねようとも思ったけれど、彼を起こさないよう我慢した。代わりに、心の中で呟いた。


「おかえり。待ってたよ」

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