6話 香り

 共同生活三ヶ月目。彼の成長は留まることを知らず、言い間違いや感情の選択ミスが少なくなってきた。そして、真っ直ぐで素直な側面は、全く色褪せずにそこにある。


 とある日曜の朝。彼はリビングに入るなり目を輝かせて駆け寄ってきた。

「パトリックさん、おはようございます。あの、これを読んでください」

 指示通り、目の前のメモに視線を走らせる。

「お誕生日おめでとう?」

「はいっ! ありがとうございます!」

「そうですか、今日なのですね。フェザーハントさん、あらためてお誕生日おめでとうございます」

「すごく嬉しいです! 初めておめでとうという言葉をもらいました。人生初の、お誕生日のお祝いです。今感じているこれは、ウキウキの感情で間違いありません」

「ええ、きっと。折角なのでプレゼントをご用意しましょう。フェザーハントさんのお好きなものを贈らせてください」

「要らないです」

「そう、ですか」

「はい。代わりにひとつだけ、お願い聞いてもらえますか?」

「もちろん。何でしょう?」

「自分を、エイトと呼んでください。フェザーハントではなく、名前で呼んでほしいのです」

「わかりました。エイトさん」

「はいっエイトです! 本物の家族になれたみたいで、心強いです。これがきっと、幸せというものです。幸せは、こんなにも温かい感情なのですね」


 彼の言葉に、もとい彼の幸せに、返す言葉が見つからなかった。彼には教えていないが、私に家族はいない。物心ついた時から独りで、家族を経験したことがなく、その存在意義やありがたみは想像の域を出ない。

 せめて届けられるのは、上辺だけの共感。


「あの、この幸せを忘れないように、明日もまた、名前で呼んでください。毎日、これからはずっと、その……」

 みるみるうちに赤く染め上がる両頬。そっとこちらを見上げ、はにかみながらこう言った。

「あの、これからはずっと、名前で呼んでくれると嬉しい、かな。パトリック」

「ええ、喜んで。エイトさん」

 家族の存在意義や、ありがたみはわからない。けれどきっとこんなふうに、様々な初めての経験、そしてそこから湧き起こる感情を味わい共有しながら、共に時間を重ねていく存在なのだろう。

 先の彼の表情を見て湧き起こった感情は「可愛らしい」だった。だが即座に打ち消した。彼は非常食だ。食物に甘ったるい感情を抱くはずがない。万が一そうだったとしても、ただの一時の気の迷い。



 彼はその日をお祝い三昧の日と命名し、終始目尻を下げて過ごしていた。私は彼の希望通りに過ごしただけだが、家族らしさが最高だと、弾ける笑顔でそう言った。お祝いの締めくくりにバースデーケーキを頬張りながら、彼は私に問う。

「そういえば、パトリックのお誕生日はいつ?」

「来月の九日です」

「へえ。お誕生日、近かったんだね。そしたら今度、お祝いのプラン考えておくね」

「それはそれは。今から楽しみです」

 そして夕食後には「一緒に映画を観たい」という願いを叶えるべく、リビングに二人並んでソファに座り、彼が選んだ冒険ファンタジーな一作を鑑賞することに。ポップコーン片手に開始早々のめり込んでいく姿は、とても幼い印象を与えたが、同時に私を笑顔にした。


 映画の中盤に差し掛かったところで、こちらを見つめる楽しげな瞳。

「この主人公は、感情がどんどん変わって忙しいね。パトリックとは大違いだ」

「そうですか?」

「はい、あ、うん。パトリックはいつも微笑んでて、泣かないし、怒らない。自分に怒りたくなるとき、ないの?」

「ええ、全く。エイトさんが心穏やかに素敵な方だからですよ」

「そうかな。ううん、パトリックが優しいからだよ。こんな自分でも、丸ごと受け止めてくれるような、すごく優しい人だからだ」

 言い終えぬうちから感謝の気持ちを詰め込んだ満面の笑みを浮かべ、そしてまた映画に集中していった。その横で、私は静かに頭を抱えた。


 怒らないのは、我慢しているからではない。そもそもそのような感情は微塵も湧いていない。

 万人に対し常時一定の心理的距離を保つようにしているので、必然的に相手に過度な期待をかけることがない。よって強い感情を抱いて干渉する必要がそもそもないのだ。


 それに、私を表現するのに「優しい」という言葉は適切ではない。彼にはそう見えるかもしれないが、これは経験と分析を重ねて纏った、優しさという名の武装。常に穏やかで泰然とした者を、人は「寛容で信頼に値する人物」と判断する傾向にある。私はまさにその理想像を演じているだけで、戦略的に障壁を取り除き、食事を容易にしているにすぎない。


 結果として、食欲は思うままに満たされた。けれど気づけば、仕草、趣味、洋服の色味の選択でさえ人に与える印象が優先されていた。判断基準が、他人ひとになっていた。当初は戦略であったはずなのに、人に寄り添いすぎて、私の中には何も残らなかった。


 個人のせいは他の誰のものでもなく自身のものである以上、他人に生きる理由を求めたところで、満たされることなど決してないと学んだ。だがそう気づいたときにはもう、手遅れだった。


 再び画面に視線を戻す頃には、映画は終盤に差し掛かっていた。隣の彼はというと、クッションに身をもたせかけ既に夢の中。一人で鑑賞し続ける気にはなれず、停止させて電源を切り、部屋の照明も落とす。


 窓から差し込む淡い月明かりが、彼の顔元を照らしている。自然と胸の中で流れ始める、あのピアノの旋律。

 覆いかぶさるように体を寄せ、首筋にそっと指を這わせてみた。吐息をこぼし密な睫毛を震わせながらも、起きる様子はない。微かに動いた拍子に、ふわりと立ち上る芳しい人の香り。本能的に煽られる、吸血の衝動。疼く牙を抑えながら手を離すと、香りの層の中にほのかな甘さを見出した。彼は香水をつけないし、柔軟剤やシャンプーのものとも異なる。感覚を研ぎ澄ませ、そしてようやく分かった。

「これが、エイトの香りなのですね」


 これが優しいエイトの香り。これが、可愛らしいエイトの香り。

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