5話 意志
共同生活二ヶ月目に突入。彼の話し方はだいぶ滑らかになり、私のことも名前で呼ぶようになっていた。
「パトリックさん、お手紙が届きました」
「わざわざ持ってきてくれたのですね。ありがとうございます」
「はい。それと、昼食の準備ができました。お仕事のキリがつくまで待ちましょうか?」
「いえ、大丈夫ですよ。一緒にリビングへ行きますね」
彼の学習意欲は言語のみに留まらず、料理や庭の手入れなど目に付くもの全てに広がっていった。特に家事が交代制になったことで、僅かながら共同生活の恩恵にあずかっている。
その日の昼食はカレーで、彼は私の一口目の反応を待っている様子。それは彼が食事当番になった時に見せる癖だった。
「一層美味しくなりましたね。コクもしっかり効いていますよ」
「よかったです。パトリックさんはコーヒーがお好きなので、忘れずに隠し味に入れました」
「なるほど。まさか覚えていてくださったとは」
会話を楽しみつつカレーを食べ進め、気づけばこれで三杯目。彼は多めに作り過ぎたと言っていたが、結局私が食べ尽くしてしまった。この二ヶ月は例の食事を絶っていたため、食欲が異様に増加していることを自覚している。密かに外食をしようにも、仕事と彼のケアで手一杯。我ながら誤算だった。
ヴァンパイアの食事、つまり吸血は不可避であり生命線。それを他の食材で補うには、それ相応の摂取量が必要になる。これまでは最低でも一ヶ月に一度の食事をしていたため、私は今まさに未知の体験をしているわけだが、目の前に常時人がいる状態でも理性を保てているあたりは、称賛に値すると思う。これも今しばらくの辛抱だ。彼で断食を終える時が、必ず来る。
三杯目を完食する私を見て、彼は笑顔でこう言った。
「たくさん食べてもらえて嬉しいです。本当に、コーヒーがお好きなのですね」
いえ、あなたのせいですが、と口をつきそうになる諫言。余程余裕がないのだろうか、私らしくもない。己を見失わぬようその言葉は飲み込み、適当な返答を見繕う。
「コーヒーのおかげというより、フェザーハントさんお手製のカレーが美味しいのです。ご馳走様でした」
「はい! また美味しいものを、たくさん作りますね」
それからというもの、彼はメインディッシュには必ずコーヒーを入れるようになり、風味を台無しにする事案が多発していた。そしてその度に、私は同じ言葉を口にした。
「フェザーハントさん。この料理はコーヒー抜きでも十分美味しいかもしれませんね」
さすがに生ハムでコーヒー豆を巻くという斬新な創作料理を目の当たりにした時は、きつく注意しようと思ったが、私の反応を待つ彼の視線を前にして、その決意は脆く崩れた。私から「美味しいです」を引き出したいという純粋な気持ちが、痛いほど伝わったからだ。
「独特な料理ですね。ただ、コーヒー豆は歯で噛めないので、別々に食べさせてもらいますね」
翌日。真っ白なプレートの上には、挽いたコーヒーを生ハムで包んだ一品。私の思考が止まった。
「……フフッ」
「生ハムは、面白いですか?」
「いえいえ。確かに昨晩、コーヒー豆は歯で噛めないと言いましたが、まさか挽いてくださるとは。フフフフ」
「パトリックさんが笑っているところ、初めて見ました」
指摘され振り返ってみたが、声に出して笑ったのは何時ぶりか、思い出せなかった。
「また笑ってもらいたいので、明日も同じものを出していいですか?」
「違うものにしましょうね。……フフフ」
彼は飾ることを知らない人だ。婉曲な物言いや回りくどいことをせず、真っ直ぐに彼らしい表現で交流してくる。それはときに滑稽で、要領を得ないことも少なくないが、清々しく好ましい姿であることは確かだった。実年齢を鑑みると幼さが否めないが、これから合致させていけばいいだけのこと。
別の日。彼が美しい音楽を聞いた時の感情を知りたいと言うので、仕事の合間を縫ってリビングへと足を向ける。休日に回そうとも思ったが、美しさを大切にする気持ちを無碍にはできず即日対応で承諾してしまった。あまり認めたくはないが、私もだいぶ丸くなったようだ。
「お待たせしました」
「全然です。忙しいのに、ありがとうございます」
微笑みで返答し、早速準備に取り掛かる。選曲しようとも思ったが、前回聴いていたものをそのまま鑑賞することに。この滑らかな旋律なら感じ取れるものも多いだろう。並んでソファに腰掛け再生開始。やがて響き渡る穏やかなピアノの音色が、静寂な夜を思わせる。
「これは何という曲ですか?」
「ドビュッシーの『月の光』です」
「なるほど。繊細な音ですね。とても好みです」
「それはよかった」
彼は目を閉じて聴き入り、しばらくののち質問を重ねた。
「美しい音楽は綺麗で穏やかで、聴くと気持ちよくなります。パトリックさんも、同じように思いますか?」
「ええ。落ち着きますね」
「落ち着く? 疲れているのですか?」
「いえ、そういうわけでは」
「なるほど。では、疲れていなくても、常に落ち着いた状態でいる方が好ましく、美しい音楽はそれにぴったり。あっていますか?」
「はい。さすがですね」
「よかった! 嬉しいです」
相当お気に召したらしく「もう一度聴きたい」というので、リピート再生にしてもう少しだけ付き合うことにした。
気づけばリビングに一人きり。いつの間にかうたた寝してしまったようだ。
そこに彼の姿はなく、ブランケットが膝に掛けられていた。どちらかというと起こしてもらいたかったのだが、二十分程度の仮眠なら無理なく挽回できるのでよしとする。
すぐさま音楽を止め、執務室へ。
ドアを押し開くと同時に不本意ながら震える肩。まさか彼がそこにいるとは予期していなかった。
「パトリックさん、おはようございます。よく眠れましたか?」
彼はにこやかに私を出迎えた。数本のガーベラを優しく抱え、壁に向かって立っている。よく見ると、茎をセロテープで固定されたガーベラが壁のそこかしこに貼り付けられていた。
「何を……していらっしゃるのですか……?」
「先ほど、落ち着いている状態が好ましいと学びました。なので、パトリックさんが好きなものを部屋中に飾れば、落ち着いて仕事ができると思って、庭の花を摘んできたんです。この色は、お好きですか?」
壁に飾られたペールピンクは、いま私が着用しているシャツの色に同じ。
「私好みの色を選んでくださったのですね。おかげで仕事が捗ります」
「はい、何よりです!」
ここ最近の彼の行動には、彼自身の願望が著しく欠けているように思われた。私を喜ばせたいがための行動がほとんどで、全てにおいて私が基準となり行動理由になっている。だが私はそれを良しとしない。個人の
「フェザーハントさん。これはとても嬉しいことなのですが、まずはご自身のことを優先してもらって構わないのですよ。私のためではなく、ご自身の意志に従って、ご自身が真に望むことをなさってください」
「はい。これは自分の意志です。これが、自分のしたいことです」
その満足そうな笑顔を見てしまっては、反論することなどできなかった。
間近から向けられる優しさを、どう受け止めてよいか分からず持て余している自分がいる。自己分析や客観視は常に完璧で、無駄な迷いなど無縁であったのに。
こうして調子を狂わされるのは面白くないが、これも学びのひとつとして加え、必ず解消してみせよう。私ならそうできる自信がある。優しさへの屈服など、あり得ない。
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