第2話 頭の中

 結局、一方的に追い出す気にはなれず、彼も彼で出て行く様子を見せずに、そのまま我が家に泊まることになった。彼は与えた部屋で無防備に眠り、その気になればいつでも食すことが出来たが、やはり食欲は戻らなかった。


 翌日。朝食の準備をしているところへ、見慣れぬ姿がやってきた。

「フェザーハントさん、おはようございます。よく眠れましたか?」

「はい。おはようございます」

 そのまま目を擦りつつ、緩慢な動きでテーブルを目指す。途中、ふとこちらを見遣ったかと思うと、椅子ではなく私の前で立ち止まった。

「ごめんなさい」

「おや。どうして謝るのでしょう?」

「先ほどの表情は、自分の寝坊を咎めるものではなかったですか?」

「まさか。単純に、まだ眠そうだなと思っただけですよ」

「そうですか。間違えました。ごめんなさい」

「いえいえ。お気になさらず」

 彼はそうやって、先読みをし過ぎてボタンを掛け違えることが多い。感情の理解できない部分をカバーしようとする努力が、空回りしているように思えた。


「では朝食にしましょうか。スクランブルエッグとサニーサイドアップ、どちらがお好みですか?」

「ごめんなさい。何の話ですか?」

「ふむ。なるほど。折角ですから両方作りましょうか。あとでお好きな方を選んでくださいね」

「ごめんなさい」

「謝ることなどないのです。選ぶ楽しみができましたね」

 彼は謝ってばかりだ。そしてそれはただ発せられるだけではなく、いつも自責の念を色濃くはらむものだから、聞く度になぜかこちらまで申し訳ない気持ちに引き込まれそうになる。


 彼はスクランブルエッグを選び、用意したもの全てを満足そうに頬張り完食。一方で静かにコーヒーを味わう私に、真っ直ぐに投げかけられる戸惑い。

「あの、自分は邪魔ですか?」

「いえ……。もし、こちらがそのような雰囲気を出していたのなら謝ります」

「違います。この沈黙は、自分に帰れと伝えているのかと思って」

「そういうことでしたか。どうぞご安心ください。貴方を拒んでいるわけではありませんよ」

「はい。ごめんなさい」

「大丈夫です」

「あなたは、優しいですね」

 俯いて、物悲しさが色濃く落ちるその面差し。

「全部自分のせいなんです。沈黙やに含まれる意図など、言葉にならない感覚的なものは、自分には理解するのも読み取るのも、難しくて。だから必死に、相手を見て、頭の中を先読みしようとするんですけど、人の想いは複雑で」


 真逆の二人がここにいる。

 私は人の思考、思念、願望、隠し事さえ簡単に見透かせる。心を覗く能力に頼らずとも、瞬時の観察である程度まで把握できる。

 生まれてこのかた、人を見て、人に寄り添い、人を騙して、生きてきた。彼らの思考回路を分析し尽くした結果、どんな願望を見ても驚かなくなった。手中に落とす手筈さえ、相手に合わせその場でいくらでも柔軟に構築できる。


 人を知れば知るほど、思いのままに食事することができた。

 同時に、人を知れば知るほど、胸の奥で、彼らの存在を否定し始める自分がいた。

 どれほど体裁が素晴らしくとも、人は、愛が不在の欲望を内に秘めている。欠望に飲まれ、幸せを渇望しながら、欲望に埋もれて生きる姿は、全く、美しく、ない。



「その表情は、何を意味しますか?」

 彼はまた、昨日と同じ質問を投げかけた。すぐさま微笑みを浮かべてやり過ごすことにする。

「いえ。少々考え事をしていただけです。お気になさらず」

「あの」

「はい?」

 しばらくの沈黙ののち、潔く跳ね上がる顔。その双眸には、確固とした意志が宿っている。

「自分を、ここに住まわせてくれませんか?」

「ここに、ですか?」

「はい。あなたはたくさんの感情を作ります。そしてたくさんの、複雑な表情も。それらはこれまで出会ったことがなく、自分はそこにある感情を、しっかり理解したいのです。自分を救ってくれたあなたを、より良く知るためにも、その感情のカタチを自分に教えてください」

「なるほど。素晴らしい心掛けですね」

 情報量が多過ぎて、意見をまとめ上げるのに時間がかかりそうだった。だがまたあの質問をされぬよう、そして感情詮索をされぬよう適当な言葉で間を埋める。


 彼の言葉に嘘はない。だが同居となると、例の食事の際にこうして我が家に連れ込み密かに済ますことが出来なくなる。いくら彼でも、屋内で人が消えれば怪しまずにはいられないだろう。それに私は他人との共同生活に慣れておらず、無駄なストレスが溜まる恐れもあった。


 ひとときの思案ののち、ひとつの答えに辿り着いた。


 非常食を囲うのも、悪くはないだろう。

 実際、例の食事は月に一度で十分。一人静かに外食すればよい。


「それでは、貴方のお望み通りに」

「ありがとうございます。嬉しいです」

 途端に目の前で広がる満面の笑み。無邪気で澄んだ面差しだった。


「そういえばフェザーハントさん。先ほど私が貴方を救ったとおっしゃいましたね。差し支えなければ、どういう思いなのかを聞かせてもらえますか?」

「はい。昨日の自分は、雨の中で、雷に打たれて天に昇ってもいいと思っていました」

「それはまた、どうして?」

ぜろになりたいと思ったんです」

「零?」

「はい。生まれ変わって、感情のわかる普通の人に、成りたかったんです」

 あの時、そのような意志は読み取れなかった。いや、もしかしたら、その強い感情でさえ表に出せなかったのかもしれない。

「昨日は、会社で、酷く怒られました。会議中に、上司の間違いを指摘したところ、空気を読めと、激怒されました。そして、これだからロボットは、と、言われました。人は、空気を読めとか、察しろと言いますが、あいにく自分には出来ません。空気に含まれる機微や真意が、見えなくて……」

「フェザーハントさんは、素直でいらっしゃるのですね」

「……ありがとうございます。嬉しいです。とても、嬉しいです。あなたはとても、優しいです」

 そして惜しみなく表現される、喜びの感情。

「いえいえ」

「本当です。人は、表で笑いながら心で罵ることもあるようです。でも、あなたは違う。あなたの心と言葉は、ちゃんと手を繋いでいます。自分には、そう見えます」


 否。私は思う。それは貴方がこちらの真意を知覚していないだけであると。

 私の内なる独り言などつゆ知らず、彼は熱量を下げずに次を続けた。

「あなたは、どこの誰ともわからない自分と、傘を分かち合ってくれました。更に家に泊めてくれて、自分の欠陥を特殊と言ってくれました。だから自分は、もう少しだけ、このまま生きたいと思えました」

「それは何より。では、これからよろしくお願いしますね。フェザーハントさん」

「はい! よろしくお願いします」

 こうして、非常食との共同生活が始まりを告げた。

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