愛情の記憶
木之下ゆうり
第1話 願い
朝から降りしきる冷たい雨。窓を打つ雨音が妙に耳に障るので、気分転換を兼ねて外食することにした。鬱々とした気分を放置しても良い事は無い。新鮮な食事を嗜んで、身も心も満たされたらいい。そうすれば仕事も捗るだろう。
街は予想通りひと気がない。臨時休業するレストランも少なくないが、私は一向に構わなかった。むしろこの状況を歓迎している。誰の目にも触れることなく、思う存分食事を堪能出来るのだから。
私の名はパトリック・シュロムクルツ。完全なる人の形をした、ヴァンパイア。私の求める食事はもちろん人の体に流れる生き血。今まさに白昼堂々人を手に掛けようとしているのだが、あいにく罪悪感は持ち合わせていない。弱肉強食は世界の理、そして食欲は誰もが有する生存本能だ。人以外の食物からもエネルギー摂取は可能だが、一番腹持ちがよくエネルギー値の高いものが鮮血。そうであるなら、必然的に選択肢は定まると言うもの。
しばらく歩き続け、スラックスの裾が湿り気を帯びた頃。路地裏にスーツ姿の若い男性が一人、閉じた花屋の前で傘も差さずに立っていた。空を見上げるその横顔に感情はなく、ただひたすら雨を感じているだけのよう。
だが彼の思考や事情は私には関係ない。肌の質感からして恐らく二十代前半、その事実だけで十分だった。肉体年齢は食事の栄養価に直結する。
「どうぞ」
彼に寄り添い漆黒の傘を分かち合う。彼はこちらを見上げ、呆然と視線を合わせたが、何か言葉を発するでもなく沈黙が落ち、傘に入りきらない互いの肩が雨に濡れていくだけだった。
路地裏には二人きり。即座に食事を済ませることも可能とはいえ、しとどに濡れ冷え切った男性を食すほど、私は飢えていない。
「風邪を引いてはいけませんから、私の所へいらっしゃいませんか? 少し歩きますが、温かい飲み物ならご用意できます」
彼は微笑んで素直に言った。
「ありがとうございます」
見ず知らずの相手に微塵の警戒心も抱かない様子を不思議に思いつつも、既に満たされ始める空腹感。背後で響く雷鳴が、祝砲に聞こえるほどだった。
帰宅してすぐ彼を浴室へと案内し、着替えを待つ間におもてなしの準備を進めた。リビングに二人分のケーキを準備するのは久しぶりだった。
しばらくして、廊下に響く足音。やや遠慮がちにリビングのドアから覗く姿は、まるで父親の洋服を借りた子どものよう。濡れたスーツの代わりに私の洋服を見繕ったところ、幼さを強調する装いになってしまった。大きめのシャツとスラックスをベルトでかろうじて繋ぎ止め、荒く長さを調整された裾と袖。
まあ、見た目が悪くとも味の質は変わらない。そんなことを考えていると彼がくしゃみをするので、カーディガンでその肩を包む。華奢な肩の輪郭が浮き彫りになった。
早速着席を促すものの、彼は目の前のケーキを見つめるばかり。
「シフォンケーキは苦手でしたか?」
「これは、シフォンケーキと言うのですね」
「ええ」
「いただきます」
一口含んで味わい、彼はまたあの微笑みを見せた。
「美味しいです。嬉しいです」
「お口に合うようで何よりです」
こちらもケーキを口にしつつ、適当に会話を進めていくことに。そう、急ぐことなどない。空腹は最上のスパイス。
「そうでした。まだお名前を伺っていなかったですね」
「エイト・フェザーハントです」
「フェザーハントさんですね。私はパトリック・シュロムクルツ。気軽にリックとでもお呼びください」
「はい。記憶しました」
記憶する。あまり使い慣れない表現ではあるものの、その瞬間は特に気に止める必要性を感じなかった。
「この紅茶は、何と言いますか?」
「ダージリンです」
「なるほど。とてもいい香りで、美味しいです。嬉しいです」
完食後。彼は窓辺に吸い寄せられ、静かに曇天を見つめ始めた。雨は止み、雷鳴もおさまった鈍色の世界。私は椅子に腰掛けたまま空腹をなだめつつ、彼の動向を窺っていた。
澄んだ瞳で空を見上げる横顔からは、やはり感情がうまく読み取れない。普段なら、相手を一目見るだけで心模様が手に取るように分かるのに。人は皆一様に、分かりやすい生き物だと思っていたのに。
面白くない。だが、食物に一喜一憂しても意味は無い。
「フェザーハントさん、今日はあそこで何をなさっていたのですか?」
「冷たい雨に、ひとりで打たれたときの感覚を、記憶していました」
「そうでしたか。珍しいことをなさいますね」
この人は何を言っているのだろう。私としたことが、奇妙なものを拾ってしまったのだろうか。
まあいい。弘法にも筆の誤り。単発的な手元の狂いなど誰にでもあることだ。本来であれば慎重に言葉を重ねたのちに心を覗きにかかるのだが、今回ばかりはそれが酷く非効率的に思え、手早く覗くことにした。
心を覗くこと、これはヴァンパイアの特殊能力だ。相手の胸元に触れることで、その胸中を強制的に共有させることができる。つまり心情、思考、そして記憶が丸裸になり、相手がこちらに求める態度やかける期待が露わになる。もちろん、この能力を用いずとも言動から露呈している人もいる。そう。人を手中に落とすことなど造作もない。
ヴァンパイアの中には、人とのコミュニケーションを一切省き闇雲に捕食を行う者もいると聞く。だがそれは私の美意識に反していた。相手の望むものを潤沢に与えて幸せで満たし、喜びの絶頂の中で絶えゆく姿こそが美の最高峰。
さあ、フェザーハントさん。貴方を落とす段取りを、教えてください。
「胸元に埃が付いていますね」
私はおもむろに立ち上がり正面で向き合った。彼は俯いて埃を探しているが、見つかるはずもなかった。
「ほら、ここですよ」
そして触れる指先。
一瞬で私の中へと流入する心。普段なら三秒と経たずに遮断するのだが、このときばかりは共有を解除する気になれず、無抵抗に願いの浸透を続けた。貴方の願いは、あまりに——。
「その表情は、何を意味しますか?」
不意の問いかけに集中が途切れ、強制的に接続が切れた。
「あなたのその表情は、何を意味しますか?」
「意味、ですか……?」
どのような表情かは分かりかねたが、あまり浮かべることのない感情を呈している自覚があった。それは彼の願いに起因する。
こちらの考えあぐねる様子を説明不足と捉えたのか、彼は口を開き始めた。心を覗いたときに把握していたが、私はそれを止めなかった。
「自分は、感情をよく理解することが出来ません。それは自分が、感情を記憶することが出来ないからです。今日感じた『嬉しい』や『楽しい』は、明日には自分の心を去っています。でも、知識は記憶することが出来ます。だから、感情を言葉で定義付けし、知識記憶化することで、感情のようなものを持つようにしています。嬉しいと感じるべき場面では、それを表現するために笑顔を作るといったふうに」
「なるほど。貴方は特殊でいらっしゃるのですね」
刹那、彼は明るい微笑みを浮かべてみせたが、こちらの反応を見てすぐさま消した。
「今は、笑顔を作るのに適していませんでしたか? もし不快にさせてしまったなら、申し訳ないです」
「いえ、そういうわけではありませんよ。何がそんなに嬉しかったのかと、そう思っただけです」
「あなたが、特殊だと、言ってくださったので」
こちらは何も返さなかったが、彼は言葉を続けた。
「他の人はこれを障がいと呼びます。両親も、普通でない自分のことを悲しみながら否定し、別離を選択しました。ただ、自分にはこれが普通のことなので、何が『がい』であるかは、未だによく分かりません」
「そうですか。貴方は本当に……」
それ以上は言葉を続けられなかった。
過去に触れてきた望みは軒並み安直かつ傲慢、刹那的で未来を尊ばないものばかりだった。物欲に肉欲、目に見えて形あるものを欲し、その場しのぎの高揚感を得たいがための、独りよがりな者だらけ。
彼らの願いは全く美しくなかった。故に、人にもその願いにも関心を抱くことなど皆無だった。これからもそうであると確信していたのに。
彼が望むものは、愛情の記憶だった。
彼は、知識は残るが感情記憶が残らないという特殊性を秘めている。心を覗いて過去を垣間見た限り、日常生活に大きな影響はないようだった。
だが、どんなに楽しい旅行も翌日には感情がリセットされ、彼の中には旅行したという事実しか残らない。美しい風景に感動しても、風景を眺めたという行動だけが記憶されていく。言葉による定義づけを行い、便宜的に知識記憶化された感情でなければ、理解することも表現することも出来ないのだ。
どうやら見知った情報から、愛情は人の心を満たすものと思っているらしい。しかし自らは体験したことがなく、どのような概念であるか検討がつかないようだ。真に愛し愛されることで、愛情の知識記憶を練り上げ、互いの心を満たしたい。それが彼の、切なる願い。
この人は落とせない。
貴方の願いは、あまりにも優しい。
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