#015

 朝方の冷えた空気は、火照った躯にはちょうどよかった。そのお蔭でだいぶ冷静さを取り戻し、感傷に浸っている場合ではないと頭を切り換える。恋とか愛とかをいま考える必要はないんだ。オレには最優先事項の問題があるのだから。――『どちらが天ちゃんでどちらが空ちゃんか』問題が。


 「ユウキ、ユウキ、大丈夫~?」と両脇から心配そうにオレを見上げる狐ちゃんたち。声質も同じだからか、どちらがどちらかさっぱりだ。


 さっぱりといえば、犬井が言った『管狐と妖狐の違い』がいまいち解らないでいる。いや、だってな、狐ちゃんも妖狐ではなかろうかと思うんだよね。管狐から狼、そして人型に変幻自在なわけだし。これを妖狐と呼ばずしてなんと呼ぼうか。おおかた犬井の術なんだろうけども、もともとの狐ちゃんの力もあるだろう、たぶん。妖狐などまったく見たことがないが、狐ちゃんがこうして存在している以上、想像上だと言われている天狐や空狐を含めた妖狐がどこかで存在しているはずだ。この世界ではないどこかで。


 返事をしないまま、そんな風にうだうだ思考を巡らせるオレに痺れを切らしたのか、狐ちゃんたちは「ユウキ、返答ない~! 狐、心配なの~」と袖を引っ張った。


「心配してくれてありがとうな。もう大丈夫だよ」


 わしゃわしゃ頭を撫でてやれば、頬を緩ませる狐ちゃんの背後から犬井が手を伸ばしてくる。どうやらいつの間にか追いつかれていたらしい。抱きしめられるとともに、背中を撫でられた。宥めようとしているのかなんなのか、「どうしたんだ?」と囁きながら。どうもこうも、少しばかり思考回路がおかしいだけですよ。少しばかりね。


「昨日はちょっと寝苦しくて睡眠時間が足りなかっただけだから。頭がうまく働かなかっただけ!」


 この説明で納得してくれるわけないだろうが、ごり押しでいく。「なにか文句があるのか!」と言いつつ見上げた先、犬井は目を丸めたのちに「ない」と頭を振る。勢いに飲まれたか。よしよし、大丈夫だな。


「ならいい、早く離せ。オレは問題に直面してるんだからな」


 身じろけば、不承不承といった感じに離してくれた犬井だが、「なんの問題だ?」と訝る。お前にはなんの問題もないだろ的な目はなにかね。なんなのかね。怒りを隠さずに「狐ちゃん問題だよっ」と言って、試しに「天ちゃん」と呼べばふたりとも「はいっ!」と手を上げた。ちょっと待ってください。なんでふたりともに手を上げているのでしょうか?


「く、空ちゃんは……?」


 困惑が滲む震えた声にもすぐさま「はいっ!」と手が上がる。前と同じく同時に。やめてくれー。ややこしくなるだけだからね、それは。


「ふたりとも手を上げたら解らないからね!」

「ユウキからもらった名前はどちらも大切なの~」

「だから狐は天ちゃんで、狐は空ちゃんなんだよ~」


 満面の笑みで言われたら敵わないであります! 力強く抱きしめてしまうのも当然ですからー! 「ユウキ~、ユウキ~」と機嫌のよさそうな声とともに抱きしめ返したところを見るに、狐ちゃんも喜んでいるようだ。なんといってもしっぽがすごい揺れているし、柔らかな頬擦りも何度もされている。――犬井の眉間に皺が寄るのを他所に。


「しっかし、狐ちゃんが女の子だったなんてぜんぜん知らなかったなー」

「管狐に性別の概念はないぞ。男女どちらにもなれるんだからな」


 あえて、そう、あえて見てみぬふりをするオレであるが、犬井の眉間の皺は深い。鬱憤もひしひしと伝わってくるのですよ。いやあ、もうなんで狐ちゃんに嫉妬するんですか、あなたは。


「へー、狐ちゃんはすごいな! だったら、今度は男の子に――」


 『してくれよ』と言うよりも早く狐ちゃんたちから引き剥がされ、壁際に追いやられてしまった。狐ちゃんは「あっ!」と驚いたような声を上げるが、犬井は笑みを浮かべている。目元が完全に笑っていないことから察せられるとおり、「悠希」と冷たい声が届いた。と同時に両手で頬を挟まれ、上下左右にむにむに動かされる。


「ぶっ! こりゃ、にゃにっ、をっ……」

「俺以外の男が悠希に構われるのを眺めろと言うのか? この俺に、指をくわえて我慢しろと?」

「そっ、そこまでは言ってないだろ! つか、お前、狐ちゃんでも我慢できないなんて相当危ないところまできてるぞっ」

「もとから危ないんだからいまさらだろ」

「さらりと認めてるんじゃねーよ! アホかっ」


 肩を叩いてやれば、犬井は「ユウ」とオレの顎を持ち上げて「俺は機嫌が悪いんだよ」と、不快さを表すように目を細めた。反して狐ちゃんたちは「主様ばかりユウキをひとり占めするー!」と頬を膨らませながら、犬井の足を叩いている。小さい躯で一生懸命に。力の差が歴然なのか、痛がりもしない犬井は「そりゃあそうだろ、悠希は俺のだからな」としれっと言って、狐ちゃんたちを逆撫でした。


「主様のアホー!」

「主様の変態ー!」

「主様の色狂い!」

「色狂いは嫌われるー!」


 狐ちゃんたちがそんなことを交互に叫べば、今度は犬井の逆鱗に触れたようである。狐ちゃんたちを睨みつけるのは一瞬だが、自業自得ですからね。負けじと睨み返している狐ちゃんたちだけれど、「そうか、管狐はそんなに人型が気に入らないのか。なら、いますぐに狐に戻してやるぞ?」との言葉に絶句する。口端を上げた犬井はいい笑顔だが、目元は相も変わらず笑っていません。


「嫌ーっ! 狐たちは、狐たちはっ、ずっとずっとユウキとお話したかったの!」

「ユウキとお話できないのはダメー!」


 犬井の言葉にすぐさま叩くことをやめて嫌だ嫌だと頭を振る狐ちゃんは、「ユウキ、ユウキー」と瞳に涙を溜めながらオレを見てくる。助けてくれと物語る狐ちゃんたちに逆らえるはずもなく、オレは「こら、犬井」と首に腕を回しながら、「狐ちゃんいじめんな」と軽く叱った。嫉妬に塗り潰された犬井に効くのかは解らないけれど。


「俺はもう手遅れなんだ」

「見れば解る。そうとう重症だってな」


 腰に腕を回してくる犬井にキスをして、「しょうがない奴」と苦笑してやる。腕に力を込めた犬井は、「知ってる」とそうひとことだけ言って、肩に顔を埋めてきた。赤く染まった耳が、横髪を纏める赤いリボンに触れつつも。



    □



 熱が冷めて機嫌も直ったらしい犬井から渡されたのは、リボンだった。「手を出せ」と言われて掌に置かれたのが、緑と黄色のリボン。正確にはふたつともパステルカラーであり、メロンソーダにバニラアイスを溶かしたような色とクリームレモンのような色であった。オレのリボンと合わせたら、赤青黄色の信号機が完成する。まあ、赤といっても緋袴とは違う、リンゴ飴のような暗めの色だけど。


「これで見分けがつくだろ」

「おう、ありがとう」


 犬井を抱きしめて少ししてから涙を拭った狐ちゃんたちは、それからずっと犬井の足にしがみついていた。キツネミミとしっぽが垂れたままの狐ちゃんに向かって「おいでー」と手を招き、「ユウキ~」と小走りで寄る狐ちゃんにリボンを見せる。もちろん、屈んでからね。元気よくキツネミミとしっぽが立った狐ちゃんたちの頭をいい子いい子と撫でてやれば、背後から抱きしめられた。無言のまま首に腕を回す形で。残念だが、圧に屈する時間はないのだよ。誰とは言わないが、誰かさんを構うことなく続けていく。


「どっちにする?」

「狐はどちらでもいい!」

「狐もどちらでもいい!」

「じゃあ、緑が天ちゃんで、黄色が空ちゃんにしようか。で、髪をこうやって――」


 オレから見て右側に立つ狐ちゃんの髪に触れ、一房ほど取ってから気がついた。リボンだけではすぐにほどけてしまうのではないのかと。


「なあ、犬井、ヘアゴムあるか?」

「リボンで十分だろ」

「たぶんだけど、リボンだけだとすぐとれると思う」

「言い方の問題だったか。『魔法の』リボンにとれるとれないもない」

「あ、これ、魔法のリボンなんだ? いやー、てっきり、普通の装飾リボンだとばっかり思ってたわ」


 犬井の言葉に手の端から垂れるリボンを見遣る。見た目にはそこらにあるであろうリボンと変わらないが、曰く魔法のリボンなのだから見た目に騙されてはいけない。


「いちいち手のかかるものを俺が渡すわけがないだろ」

「なんだその自信は」


 「まあ、ありがたいけど」と言いつつ、横髪を弄ったり頬を撫でる犬井の手を払い、狐ちゃんの髪を縛る。おとなしくしてくれていたが、あまり上手いとは言えないかもしれない。髪も蝶々結びにしたリボンもなんだかへにゃんとしているのは、こういうことは片手で数えられる程度しかしたことがないからである。つまり、妹の髪を縛ったことは。小さなころに「ゆーちゃんはヘタだからやー!」と拗ねられて、それ以降は母さんの役目になったのだ。自分ではないという緊張感から上手くいかないだけで、不器用とも言えないんだけどなあ……。


 狐ちゃんのヘアスタイルというのは、前も後ろも髪の毛を残し、耳の上あたりでひとつ縛りという小さな女の子がよくされている髪型だ。狐ちゃんにしてみれば、キツネミミの少し下あたりになるだろうか。惜しいことに、この髪型の名称が解らないので『ひとつ縛り』ということにしよう。


「狐、似合う?」

「うん、かわいいよー」

「狐も! 狐も早くっ!」

「はいはい」


 残った空ちゃんに急かされ、天ちゃんとは反対側に髪型をつくった。双子コーディネートというやつだ。ふたりともにかわいい。かわいすぎて眩しいです。


「空ちゃんもかわいいよー」

「ユウキ、ありがと~!」


 抱きつく狐ちゃんを「どういたしましてー」と受け止めてふたたび頭を撫でれば、狐ちゃんたちは頬を緩めた。とたん、「もういいだろ」と拗ねたような声が聞こえてくる。


「犬井にもしてやるから、拗ねるなっつの」


 躯の向きを変えて犬井の頭をわしゃわしゃ撫でつつ、「狐ちゃんも撫でろー」とけしかけてやった。「おいっ、やめろ」との言葉を無視して。そうですよ、いつもの仕返しというやつです。オレの言葉に顔を見合わせてにんまりと笑った狐ちゃんたちも「主様ヤキモチー!」と加勢し、犬井は揉みくちゃにされている。――が、早くも終わってしまう。一分も経っていないような気もしますね。狐ちゃんたちは首根っこを掴まれて引き剥がされ、オレはオレで担がれてしまいました。犬井が立ち上がると同時に。まあ、そうね、早く走りにいかないと朝食が遅れてしまうからねー。この形なのは納得できないけれども。


「小さい子の教育に悪いと思うのですがー」

「どこに小さい子がいるんだ?」


 肩の上で毒づけば、お前はなにを言っているんだと言いたげな声が届いた。お前こそ、なにを言っているんだよ。目の前にいる狐ちゃんは小さい子そのものだろうに。解らないのなら、教えてやるしかなかろう。


「狐ちゃんでーす」

「管狐が小さい子なわけないだろ。ユウが構いやすいようにその姿にしただけであって、アリテア様のようにいろんな姿になれるんだよ。してやらないけどな」


 オレの返答に対して鼻で笑った犬井はそのまま歩き始め、狐ちゃんたちは笑顔のままあとをついてくる。「狐はー天ちゃん」「狐はー空ちゃん」と歌いながら。


 落ちないようにと犬井のジャージを握りしめれば、軽く尻を撫でられた。あれか、よくできましたってか! 担がれていなかったら蹴ってやれるというのに―! つまり、オレの視界はジャージでいっぱいなのを察してください。


「尻を触るな、尻を!」

「解った解った、今度からは胸にしてやる」

「超解釈はやめろー!」


 なんでそうなるんだと怒りを表すように、笑いを堪えているであろう犬井の背中を叩いてやる。しっぽが揺れる感覚をものともせずに。


 笑いを堪えきれずに含み笑いになっていた「はいはい」との言葉におとなしくしてやろうと思い直し、オレはそのまま犬井に躯を預けることにした。


 いい匂いに感謝するがいいさ。




 

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