ガスラード

 熱った身体は、湯冷めしたように瞬く間に発汗と合わせて沈静していき、ぐるぐると渦巻いていた感情がベッドの奥へと消え去った。ぽつねんと天井を眺めていると、数刻前まで学校の授業を受けていたのが不思議なくらい、あべこべな現実の中にいる事を改めて自覚する。


「コン、コン、コン」


 懇切丁寧な扉を叩く音が、郷愁に耽る俺をベッドから引き起こす。「手合わせ」と称したシゴキに対してあれほど上手く立ち回ったにも関わらず、妙に身体が重く感じて、扉のノックへ健やかに答える力が湧いてこない。それどころか、億劫に思って狸寝入りすら検討する程度に腐した。しかし、無関心を装って知らぬ存ぜぬとするには、もう少し図々しさが求められそうだ。


「はい」


 扉を開けると、目線を下げなければ目を合わせる事も叶わない、少女と呼んで差し支えない幼なげな女が立っていた。


「兄さん、いつまでここにいるつもりですか」


 言葉の意味を理解できず、記号的表現に当たる疑問符が頭に浮かんで仕方ない。


「そうやって、逃げるんだ。私達から」


 俺に全面的に非があるかのような俯き加減と女が話す内容は、想像力だけでは補えない。暗中模索にも似た身の処し方に終始するしかなく、一人でに動き出す口はこの場を切り抜ける唯一無二の方法であった。


「ちょっと待ってくれよ。俺はここでやる事があるんだよ」


「私設の冒険団に入れば何も言われずに済むもんね? だって、社会奉仕だから。皆のためになるから」


 恨み節たっぷりな女の言い回しは、人の感情を逆撫でるだけの叙情に溢れていて、眉間から熱を発するのが分かった。


「俺はちゃんと選んでここにいる。それを蔑ろにするのは、家族であろうと許さない」


 思わず女の肩を掴んで、説得めいた行動を取ってしまった。身体に走る微振動を手に感じると、目元に光るものを見た。


「そうですか。そうなんですね」


 花が枯れるように、しおらしく俺の手を払い除けて、女はふらりと去っていってしまう。よしんば兄と妹の関係であるとするならば、俺の取った態度ははっきり言って最低である。


「また、妹さんに講釈垂れて、追い返したのか?」


 偶さか通りがかったであろう男に、知った風な口をきかれれば、女の後ろ髪に引かれて廊下へ出てしまっていた事に気付かされた。


「お前より先に見つけてやるから。安心しろ」


 クリーム色の布を身体に巻いて服とする男は、意味深長な言葉を捨て台詞に去ろうとする。


「見つけるって、何をだよ」


「あ? ガスラードに決まってんだろ」


 まるで共通言語のように扱われる「ガスラード」は、俺にとって既知の未知に違いない。何故ならば、初めて聞いたとは思えない耳馴染みがあったからだ。


「まぁ、そんな顔をするな。うだつの上がらないお前に代わって、ガスラードを手に入れてやるから。そうすれば、二度と妹さんがお前に尋ねる事はなくなる」


 コイツは一体何なんだ。えらく馴れ馴れしく、俺を出し抜こうとする口ぶりが苛立たせる。自信たっぷりな歩行で目の前から去ろうとする男の肩を掴み、女に対して働いた朴念仁ぶりを披露したいところだが、それは今すべき事ではない。


「謝ろう」


 俺はマイヤーへの謝意に託けて、「ガスラード」という物の理解を深めようと考えていた。決して物覚えがいい方ではない。だが、一度だけ訪れたマイヤーの部屋へ行くまでの道中、一切立ち止まる事すらしなかった。


「……」


 この奇妙な感覚を内包したまま、俺は扉を叩く。

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