第六十四話 雨宮讃歌(2)

 



 小さな、和室の部屋の中で。幼い女の子が猫の人形を二つ握り、ぶつぶつと何か言っている。幼齢にして美麗の片鱗を見せるその幼女の後ろ髪は、青色の濃淡により染め上げられていた。


 猫の人形を楽しげに握っている彼女は、とことことそれを歩かせるように動かす。


「こんにちは〜黒猫さん。今日もいい天気ですね〜」


「そうですね〜。今日はお散歩日和ですよ〜」


 おままごとだろう。キャッキャと一人で遊ぶ楽しそうな声は、微笑ましいものだ。彼女の持つ人形は実姉からの貰った真っ黒な猫さんと、ボタンの目がほつれてしまった三毛猫のものである。


 その時、廊下を歩く誰かの足音が聞こえた。和装に身を包み、懐に両手を突っ込む男は、どこかやつれているように見える。


「あ……おとうさま。さとはです」


「……」


 娘から声をかけられたのにもかかわらず、彼は、一切の関心を彼女へ向けていない。


「あの……おとうさま。ねこさんのお目目、とれちゃいそう」


「……」


 言葉足らずに、直して欲しいと伝える里葉の声を聞いて、初めて彼は彼女に目を向ける。おもむろにしゃがみこみ、猫の人形を手に取った彼は━━━━



 ゆっくりと、その三毛猫の首を引きちぎった。ポトリと頭が、畳の上に落ちる。



「ひゃ──」


「やかましい。静かにしろ。二日酔いの頭に響く」







 猫の人形を抱きかかえる幼子は、部屋の中で泣いていた。それに寄り添う背の高い老齢の男に、彼女は縋り付く。


「じいや。ねこさんが、ねこさんが、ひっく、ふぇぇ、うわぁぁああああん」


 くぐもった声が、部屋に響いた。


 彼は胸の中で泣く女の子の背を摩っている。じいやと呼ばれていた男は、彼女と同じように涙で瞳を潤わせていた。雨宮家当主である男は、父親としての愛情を彼女に注ぐ気がない。胸を痛める彼は、ただ無力な己を呪うばかりである。


「お嬢様……大丈夫ですぞ! このじいやにお任せいただければ、ねこさんを、治してみせます!」


「ほんと?」


 見上げるようにした里葉に向けて、男は自信満々の、満面の笑みを浮かべた。


 後日。笑顔の里葉の右手には、瞳の位置が少しずれて、縫合痕の目立つ人形が握られている。






 それは、雨宮家の次女、里葉が五歳。長女怜が、十四の頃。

 雨宮の家は、時の雨宮家当主、重治の手により荒廃し切っていた。


 雨宮家当主が連綿と受け継いだ歴史ある当主の執務室には、空になった重世界産の酒瓶が転がっている。清廉な魔力で満たされていたはずのそこは、の匂いで充満する始末。そこにいるのは大抵酒を飲むときのみで、挙句の果てには執務室に妾を連れ込み、悦楽に浸っていたときさえあった。


 妖異殺しの家の義務である、渦の間引きを彼は行わない。雨宮の術式屋と妖異殺しに適当に丸投げして、収入源となる表側の企業経営に関しても、何の動きも見せない。


 あれもこれもそれも任せる。そういった杜撰な体制では上手く回るものも回らぬし、彼の周りに擦り寄る人物は皆、彼のおこぼれにあやかろうとする愚か者のみであった。


 歴代雨宮家当主が後世を想い、貯蓄した資金、値打ちものは全て彼の酒色を支えるだけの金となり、段々と貯蔵庫は寂れていく。加えて、なんと哀しきことであろうか。彼が持つ四人の子供のうち、二人の男児は彼によく似てしまった。


 雨宮の屋敷を歩く怜が、長男の部屋に通りがかる。そこからは妖しい匂いが漏れ出ており、かつ、嬌声がくぐもって響いていた。


 次男の部屋の近くを通れば、同じように女を連れ込む彼の姿が見える。彼女は三十路を越える彼らの機嫌を損ねぬよう、平伏するだけ。


 そんなある日。執務室の中で資財に関する書類を確認した当主重治は、目を見開かせた。今雨宮の家には、彼が生を楽しむための金がなくなってきた。重術に長けた家が栽培に成功した、重世界産の薬草。元は治療薬として導入したそれを吸いながら美女を抱くのが彼の楽しみであるというのに、そのためには金が足りない。


 さて。彼は考える。もうすでに蔵の大半を開けてしまったし、売れるものはあまりない。残ったものも金にならないものばかりで、どうすれば良いのか。


 そんなある日、彼が薬草を買う家からある話が持ちかけられる。その話を聞いて、彼は理解した。それを得るためには、どうすればよいのかと。




 娘を育てて、売れば良い。




 怜の方はもう十四になってしまったし、付加価値をあまり与えられない。しかし五歳の里葉であれば、十分間に合う。それに里葉は、幼子にしてその約束された将来の美貌を期待されていた。






 呼び出された一室。後見人のじいやを伴って、かつ猫の人形を彼に隠してもらった里葉は、恐怖に身を竦ませながら部屋に訪れる。


 現れた里葉を前に、重治は一方的に宣言した。


「里葉。十三年後。お前が十八になった頃、お前を白川家へ養子縁組をすることとなった。それまでの間、お前は女として、花嫁修行をせねばならない」


「なっ……! それはどういうことです! 重治さまぁッ!」


 何を言っているかまだ理解できていない里葉を置き去りにして、じいやが憤る。


「妖異殺しの名家である雨宮。重術の名家である白川が手を取りあえば、よりよくなろうというだけの話よ。悪い話ではない」


「何を仰られますかぁ!」


「……黙れ」


 魔力が迸る。鋭く放たれた右拳になんの備えもできなかったじいやは、吹き飛ばされ襖を突き破り飛んでいった。


 里葉の喉から、声は出ない。


「良いか。それまで、里葉を立派な女とせよ」


 幼い彼女にはまだ、何が起きているか分からない。






 誰も訪れない静かな一室。その中でじいやと里葉は、二人で礼法についての勉強をしていた。


「……じいや。さとは、猫さんと遊びたい」


「…………申し訳ありませぬ。お嬢様。この授業が、終わってからにしましょう」


「……ねえ。じいや。なんでさとは、こんなことしなきゃいけないの?」


 その無垢な瞳が、欲望の餌食となる。その未来を知っている彼は、凍りついたように止まってしまった。


「じいや? なんで、泣いてるの?」


「……申し訳ありませぬ。申し訳ありませぬ。お嬢様……この後、じいやと怜さまで、遊びましょう」







 三年の時が経った。物覚えの良い賢い子である里葉はじいやの下で、学び続けている。しかし里葉も、あの時とは比べて大きくなった。もう、自分の行先が、だんだんと分かるほどの年齢になってしまったのである。彼女が、自身の行く先を完全に理解できる日。それが訪れる時が、彼はただただ怖かった。


「ねえ。じいや。このはなよめしゅぎょうって、なんのためにしてるの?」


「…………お嬢様がいつか、お慕いする人ができた時のためでございます」


「そうなんだ。さとはの旦那さま、どんな人かなぁ?」


 明るい声が部屋に響く。

 締め付けるような胸の痛みに、彼は耐えられない。


「……きっと、お嬢様を救ってくれる、すっごくかっこいい人ですよ」


 彼は、そんな願うような嘘をついた。

 また、時が経つ。




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