211.値千金の情報

「ぅうん………寒い…………」


 心地の良い眠り。しかし目覚めは決して良いといえるものではなかった。

 安定しない体の角度。ふわりと受け止めるはずだった布団の圧倒的硬さ。そしてなにより、凍えるような寒さが眠りに漂う俺を襲った。

 しかし悲しいかな、それでも眠気というものは強く迫ってくる。角度も硬さもまだ許容範囲。少なくとも寒さをどうにかしようと四方八方へ手を伸ばすが、そのどれもが空を切りペタンと床に手をついてしまう。


 毛布は一体どこへいった?枕も蹴飛ばしてしまったのか?

 いくつかの疑問符が浮かんでくるものの流石は寝ぼけた頭。夢心地で結論なんて出ない。むしろ許容してしまいそうな雰囲気さえもある。

 人間の三大欲求とは大したものだ。様々な問題点があるものの全てを遠くへ放り投げ、再び深い水底へ意識を沈めようとする。


「くぅ…………」

「そろそろ起きないと、本格的に風邪コースよ?」

「――――はっ!?」


 睡眠欲に負けて水底へ落ちる寸前だったが目覚めるのは早かった。

 それは聞き慣れない声が届いたから。雪や母さんの声だったら遠慮なしに無視したことだろう。若葉は貞操の危険を感じるから起きるし、麻由加さんは情けない姿を見せたくないから起きる。

 存外聞き慣れた声でも起きる判定があるが、それでも聞こえた声は誰の声でも違った。


 警戒心と驚き。突然の声に勢いよく目を開けて見ればそこは見覚えのない天井……どころか天井さえ見当たらなかった。

 眼前に広がるのは赤くなった空と、そこに舞う鳥たち。目の端には緑いっぱいの木々が広がっていて、どこからどう見ても室内ではないことを理解した。


「ここは……?」

「起きた?随分気持ちよさそうに寝てたわね」

「…………葵さん?」


 勢いよく飛び上がった俺にかけられる声。

 彼女は……そうだ、葵さんだ。

 今日初めて会った不思議な女性。帽子やサングラスで顔を隠しているけれど決して不審な様相ではなく、まさにそれが当然かのように凛と堂々としている女性。

 雪が何か気づいたようだったが当然俺が分かるわけもなく、こうして今相対してもその正体を伺い知ることはない。

 そんな彼女が口角を上げながらピョン、ピョン、と器用に岩を渡って俺の横までたどり着く。


「おはよ。もう夕方だから起こしちゃったけど、よかった?」

「夕方? ……っ!!そうだ案内!!ごめん葵さん!!」

「いいのよそのくらい。それより口元、よだれ出てるわよ?」

「っ――――!!」


 クスクスと笑いながら指摘する彼女に俺はカァッ……!と熱くなって口元を慌てて拭う。


 そうだ思い出した。今は葵さんと散歩しつつ村を案内する予定だったんだ。

 なのに一番にたどり着いた沢で夕方まで横になるなんて。

 完全にやらかしてしまった失敗に恥ずかしさと申し訳無さが大きくなるものの、彼女はなんてこと無いように吹き飛ばして俺の居る岩に背中を向けて体を預ける。


「案内は残念だったけど十分自然を満喫させてもらったわ。私もちょっとウトウトしてたしね」


 そう苦笑しながら掻く頬は、長い時間同じ体勢でいたのかほんの少し紅く染まっていた。

 きっとウトウトどころではなかったのだろう。けれどそれに言及するような無粋な真似はもちろんせず、夜の近い冷たい風がビュウと吹いて震える彼女にそっと自らの上着をかける。


「あら? いいの?貴方が寒くなるだけよ」

「風邪引いても春休みだから問題ないよ。それより葵さんは明日用事あるんでしょ?」


 最悪風邪引いても春休みだからもう一泊すればいいだけの話だ。

 俺よりも風邪引いてはいけないのは葵さん。本来逆方向の、ウチの学校で用があったのだから明日は忙しくなるだろう。

 春の上着だから随分と薄い。しかし有ると無いとでは大違いのようで脱いだ瞬間冷気が身体中を駆け巡るも努めて何もないように肩をすくめる。


「それなら遠慮なく。ありがと。紳士的な貴方はきっと学校でもモテるわよ」

「………どうだか」

「あら、否定はしないのね?」

「…………」


 否定はしない。できない。

 少なくともあのアパートのみんなに告白されている今の歪な状態では、そこに言及するのは俺としても避けたいところだった。

 そんな思いを知ってか知らずか、彼女は振り返って「それじゃあ……」と話題を変える。


「それじゃあ、そんな真摯な貴方に私の秘密を教えましょう」

「秘密?その変装を解いてくれるの?」

「残念ながら見せられないわ。『兄には正体を明かさない』っていうのが雪ちゃんと交わした条件だもの」


 そういや泊まる時の交渉で2つの条件がなんとか言ってたな。

 なんでワザワザ"俺には"と限定するのか謎でたまらないが、碌でもないことはわかり切っているため特に気にすることなくスルーする。


「秘密っていうのは私、帰国子女なの。それでさっきメモで見せた学校に転入する予定なのよ」

「それが……秘密?」

「えぇ。わかる人からすれば値千金の情報よ。もしかしたらクラスメイトになるかもね?」


 なんとなくサングラスの向こうからウインクしてくるのを感じ取った。

 すまないが俺はわからない人なんだ。あの学校に転入は驚きだが、正直何が秘密に相応しいかわかりっこない。


「よくわからないけど……とりあえず学校で会ったらよろしくな」

「えぇ。紳士的な貴方がどれだけモテてるか調べるのが今から楽しみだわ」


 クスクスとからかいながらそっと手を差し出して起き上がるよう促す彼女に、「それは勘弁」と苦笑しながらその手をとる。

 どっちが紳士的なんだと心のなかで思いながら、星空が見え隠れする空の下でともに祖父母の家へと帰路につくのであった。

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