第20話
タカミは、床に転がる一条を、彼の拳銃を手にして見つめていた。
なんて顔をしていやがる。その顔を見て一条は思った。
「あんたさえ裏切らなきゃ、一緒にハルミやユワに会いに行けたんだよ……」
悲しそうな顔をしていた。まだ自分を信じている、信じたいと思っている、そんな顔だった。
「俺は最初からお前たちの味方じゃない。いつかハルミに追い付くためにお前たちを利用していただけだ」
一条は世界には裏切られなかったが、
「俺はハルミに置いていかれたんだ」
小久保ハルミに裏切られた人間だったのかもしれない。
ショウゴは一条を床に寝かせ、手慣れた所作で手当てをした。
手当てといっても、止血をし銃弾が貫通した傷口を熱したサバイバルナイフで焼いて塞ぐという荒々しいものでしかなかったが。
止血する際に彼は一条の服を脱がせて使ったが、それだけでは足りず自分のTシャツも脱いで使った。
その身体には、一条にした処置に似た傷痕がいくつもあった。
「雨合羽の男」として活動する中で怪我を負うことがあったのだろう。彼は自分でそんな処置をしたのだろうか。
目を背けたくなる光景だった。
麻酔もなくそんな処置をされることがどれほど痛いことなのか、タカミは想像するだけで血の気が引き、貧血を起こしそうになる。
だが一条は苦悶の表情こそ浮かべていたが、叫ぶことも痛いと口にすることもなかった。
「ハルミと俺が、学生時代からの友人だっていうのは君も知っているな」
痛がるどころか、一条は処置されながらタカミに話しかける余裕さえ見せた。
ハルミからそう聞いていたから、タカミは頷いた。
「ふたりが実際にどんな関係だったのかまでは知らない」
それ以上のことは当時は知りたくなかったからだった。
「ハルミとあんたは恋人だったのか」
だがもうそんな甘いことは言ってはいられない。
今はそういう状況であったし、初恋をいつまでも引きずる年でもなかった。
「そういう時期もあった。付き合い始めたのは高校生のときだ。同じ高校だったからな」
一条とハルミが同じ高校に通っていたということは、ふたりは同郷だったということだ。一条の地元はタカミやショウゴが住む雨野市と同じ県内だから、ハルミも同郷だったということになる。
ふたりは大学進学の際に上京したが、同じ大学ではなかった。
別れたわけではなかったが、同じ東京にいても次第に疎遠になり、いつの間にかそういう関係ではなくなっていったのだという。
それでも大学生の頃は年に数回は連絡を取り合っていたらしい。
社会人になってからは、互いに仕事が忙しく連絡を取り合うこともなくなっていたそうだ。
「ハルミが千年細胞を発見し、時の人になったときも、俺はテレビや新聞でそれを眺めているだけだった。
だが千年細胞が、ハルミがでっち上げた嘘だという報道がされ始めた頃、俺だけはあいつの味方になってやらなければと思った」
千年細胞を一部の権力者たちが独占するために国が総がかりで彼女の研究を闇に葬ったことは、一条が調べればすぐにわかったという。
だが、ふたりが恋人に戻ることはなかった。
「味方にはなってやりたかったが、表立ってそれをすることが俺には出来なかった」
彼がしたことは、マスコミから彼女がうまく逃げられ、隠れられる住みかを用意するくらいのことだったという。
その住みかも、彼の両親が買ったものの数回しか利用したことがなかった避暑地の別荘であり、用意したというより初めからそこにあったものでしかなかった。
「この少年のために、こんな高級マンションの最上階を用意してやった君と俺とでは雲泥の差だな」
「どうしてだ? 一条さんが警察官だったからか? でも彼女は犯罪者というわけじゃなかっただろ?」
「出世に響くと考えたんだ」
その言葉にタカミは落胆を隠しきれなかった。
「そんな理由で……」
「今思えばな。確かに『そんな理由』だったな」
14年前の話だからだろう。
世界がこんな有り様になるなんて誰も想像してやしなかった。警察がなくなるなんて事態もだ。
14年前はマヤ文明による終末の予言の年でもあったが、ノストラダムスの大予言や2000年問題を無事に乗り越えた人類は、終末が訪れることはないとたかをくくっていた。
「彼女の敵はこの国だけじゃなかった。世界中の権力者たちだったんだよ。女のために身を滅ぼすのは違うと思ったんだ」
それが誤った選択だと気づいたときには、一条家の別荘からハルミは姿を消していたという。
「アリステラがハルミに近づいたのも、君がハルミと知り合ったのも、おそらくはその頃だろう」
一条は小久保ハルミに裏切られたわけではなかった。
彼が彼女を見捨てたのだ。
一条はショウゴの顔を見た。
「ハルミを見捨てたことを俺はずっと後悔していた。
だから、4年前、世界中を敵に回してでも恋人を守ろうとした君の存在は、俺には眩しかった」
君は俺には眩し過ぎたんだ、と一条はショウゴに撃たれずに済んだ左手で顔を覆った。
一条とショウゴは、同じタロットカードの逆位置のような関係のようにタカミには思えた。
ひとりは世界を敵にまわすことを恐れ、保身に走り愛する人を見捨て、もうひとりは世界を敵にまわすことも厭わず、たとえ自分がどうなろうとも愛する人を守ろうと奔走した。
ショウゴがそうできたのは、彼がまだ世間知らずで向こう見ずな14歳の少年だったからかもしれない。
だが、同じ14歳でも、一条と同じ選択をする者がおそらく大多数を占めるのではないだろうか。
ショウゴが一条と同じ年齢で同じ立場であったとしても、彼の選択が変わったとは思えなかった。一条もまたそうだ。
それは人間としての資質の問題であり、どちらの選択も正しいと言えるし、間違っているとも言えると思った。
世界か愛する人かの二択を人が迫られたとき、その選択自体には正解はないのではないか。
必ずどちらかは犠牲になるからだ。
選択の結果としてどうなったかが問題なのだ。
現に、同じタロットカードの逆位置のようなふたりだったが、その運命は正反対の結果にはならなかった。
どちらも、愛する人は今アリステラににいる。ヤルダバにいる。
一番の悪は、自分で選択することを放棄し、他者にその選択を委ねた人間なのではないか。
そしてそれは他ならぬタカミ自身のことだった。
タカミは妹も世界も、そのどちらも選ばなかった。
ショウゴが妹を選んでくれたから、彼の協力者になっただけだ。一条に協力を仰いだだけだった。部屋から一歩も出ることなく、あくまでパソコン越しスマホ越しの協力者であろうとした。
ふたりが逃げ続けることに疲れ果てるまで、妹が彼に自分を殺すよう懇願するまで、ショウゴが妹に手をかけるまで、タカミは最後まで何の選択もすることはなかった。
ショウゴが世界を選んでいたら、あるいはショウゴが妹の恋人でなかったら、自分は妹を選んでいただろうか。世界を敵にまわす覚悟ができただろうか。
きっと自分はショウゴのようにはなれなかっただろう。一条のように生き、一条のように後悔したに違いなかった。
タカミはようやく自分の愚かさに気づいた。
気づいてはいたが考えないようにしていただけかもしれなかった。
自己嫌悪に苛まれることがわかっていたからだ。
ショウゴを匿うことを決めたのも、結局は選択をしなかったことからの逃避に過ぎなかったのではないか。
一度飲み込まれたその渦からは逃れられそうになかった。
「君とは昔、カルト教団が企てていた首相暗殺を一緒に阻止したことがあったな」
一条が渦の中にいるタカミに救いの手を差しのべ、彼はその手にしがみついた。
「当時のあの首相は、ハルミの研究を握りつぶすよう指示した権力者たちのひとりだった」
それは救いの手ではなかった。
「俺はそれを知りながら、保身と出世のために君に俺の罪の片棒を担がせた」
一条が乗る泥舟とともに、タカミは渦の中に沈んでいった。
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