第10話

 少年は、傘も差さず、仕立ての良いスーツが雨に濡れることも厭わず、両腕を広げて降り続ける雨をその全身で受け止める男の姿を見かけた。

 彼は狂犬病に感染してしまった返璧マヨリ(たまがえし まより)に食糧を届けにいく途中だった。


 マヨリが狂犬病にかかってしまったのは、山汐リン(やましお りん)を殺した暴徒を殺さなかった自分の責任だと少年は考えていた。

 四肢を撃ち抜き、身動きがとれないようにして生かしたまま、雨や水溜まりに恐怖を感じる地獄を見させてやろうと考えてしまった結果、マヨリが暴徒に噛まれ、狂犬病に感染したのだ。

 暴徒はやはり生かしておいてはいけなかった。必ず殺さなければいけない、と改めて思い知らされた。


 マヨリのことは、彼女が彼女でいられるうちは自分が面倒を見なければと考えていた。

 とはいえ、いつ彼女が自分以外の誰かに狂犬病を感染さないとも限らない。

 相手が暴徒ならば感染しようが知ったことではないが、それによってリンのような死に方を彼女にさせたくなかった。


 マヨリには、リンが狂犬病に感染していたこと、行動を共にしていた彼女も感染している可能性があることだけを話した。

 本人の許可をとり、手足を拘束し、水を湿らせたタオルを猿ぐつわにして噛ませ、例の薬局店の奥の部屋に軟禁していた。


 暴徒がリンを殺害しただけでなく、その前には強姦し、その後には肉を喰らっていたということは、伝えるべきではないと判断した。

 もっとも、彼女はとうに気づいていたかもしれなかったが。


 少年にできるのは、マヨリがマヨリでなくなってしまったときは、それ以上苦しまないように楽に死なせてやる。もはやそんなことしか残っていなかった。

 それがリンを守れなかっただけでなく彼女まで守ることができないどころか、自分のせいで死なせてしまうことになってしまった、少年なりの贖罪だった。


 マヨリに食糧を届け、明け方までジェスチャーや紙とペンを使って、「中学生のときは楽しかった」だとか「誰々のあれは傑作だったね」などといった他愛もない会話をした後、少年は「また夜になったら来るから」と、彼女に猿ぐつわを噛ませタカミのマンションに帰ることにした。猿ぐつわを噛ませるときは、毎日のように心が痛んだ。


 マヨリの元へ向かう途中に見かけた男は、あれから5時間ほどが経っているというのに、同じ姿勢で雨を受け止め続けていた。

 まるで少年が生まれる前に作られた映画のワンシーンのようなポーズだったが、あれはワンシーンだから感動的なのであって、この男は5時間もその姿勢のままだったのだろうかと思うと、何とも言えない気持ちにさせられた。


 少年からは後ろ姿しか見えなかったというのに、その男はまるでこの世界を謳歌しているように少年には見えた。

 災厄の時代の到来を喜ぶ人もいるんだな、と思った。


 どこに暴徒がいるかわからないですよ、危ないですよ、そう声をかけたかったが、少年の声は4年前から失われていた。

 この男はおそらく暴徒ではないだろう。だが、油断はしてはいけない。

 少年は足音を立てず気配を消し、男にゆっくりと近づいていった。

 少年は雨の中を足音や雨合羽の衣擦れの音を立てることなく歩くことができた。気配や殺気を消すことも、暴徒狩りをしているうちに勝手に身に付いていた。


「誰かいるのかな?」


 しかし男は振り返ることもなく、少年の存在に気づくと、顔だけを少年の方に向けた。ほう、と満足そうに頷いた。

 その顔は三十代半ばくらいに見えた。


「そうか、君が噂の『雨合羽の男』か」


 男は少年に、思ったより若いんだな、と続け、


「君は、そうか、あのときの……」


 と、少年の名を呼んだ。

 少年は男とは一切面識がなかった。だから、あのときというのはおそらく4年前、少年と彼の恋人であった少女の名前と顔が有名になってしまったときのことだろう。

 顔を見られれば必ずこういうことが起きる。だからいつもいくら真夜中とはいえ、街に出るときは雨合羽のフードを目深にかぶっていた。だが、マヨリがいる薬局から出たときに深く被るのを忘れてしまっていたらしい。


「いつか、君に出会えることがあったなら、僕は君に感謝の気持ちを伝えたいと思っていたんだよ」


 感謝? この男に感謝されるようなことを自分が一体いつしたというのだろう。少年は思った。

 少女を生け贄に捧げることは間違っている、そんなことで災害や疫病を止めることなど出来ない、と少年は少女を連れて日本中を逃げ回り、この国だけでなく世界中を混乱に陥れた。

 そのくせ、数ヶ月で逃げることに疲れはて、自らの手で少女を手にかけた。

 その結果が今の世界なのだ。


 当時ネットで揶揄されていたような、セカイ系主人公ですらなく、ヒロインではなく世界を選んだわけでもない。

 世界を混乱させておいて、勝手に疲れはてて少女を殺した結果、世界の状況をさらに悪化させた。

 それが少年が認識する自分という存在だった。


 少年が男の言葉の真意について考えていると、


「もしかして君は言葉が話せなくなってしまったのかな?」


 男がそう言ったので、少年は頷いた。

 顔を見ればわかるのだそうだ。

 男の知り合いに昔、失語症になってしまったことがある者が何人かいたのだという。

 医者か何かだったのだろうか。

 少年は男がかつて会社を経営していたことを知らなかったからそんなことを思った。


「これは、僕からの君への感謝の気持ちだよ。受け取ってほしい」


 男は、スーツの内ポケットから、真空パックに入れられた何かを取り出した。

 それは、腕時計だった。

 高級時計に疎い少年も名前くらいは聞いたことのある「ユークロニア」という高級ブランドのもので、おそらく高級自動車並みに値の張るものだった。

 ユークロニアは確か雨野市内に本社と製造工場があった。


「本当なら箱に入れて渡したかったのだけれど、かさばるし、いつ君に会えるかわからなかったからね。

 それでも一応新品だよ。会社がなくなってしまって、発売されなかった2024年モデルの試作品。これは世界に1個しかないものなんだ」


 男は少年の右手首に腕時計をつけてくれた。

 男はユークロニアの社長だったという。名は橋良トネリというそうだ。


 先程の失語症に関するくだりは、彼が会社で社長という立場を利用し、部下に対しパワハラやモラハラを繰り返していたためだったのだが、男は少年にそのことは話さなかった。


「君が4年前に彼女とおそろいでつけていたスマートウォッチもよく似合っていたけれど、君はもう大人だ。

 大人の男はいい時計をひとつくらい持っていた方がいい」


 災厄の時代の到来の前から、いつの間にかそういう時代じゃなくなってしまっていたらしいが、彼よりも一回り上の世代はそういう人が多かったそうだ。

 そう言えば、少年の父親もひとつだけ、数十万円もする高級時計を持っていた。


「それにあれだけ流行ったスマートウォッチは今はもう使い物にならないしね」


 橋良はそう言って笑った。


 貰えないと思った。

 いくら成人したとはいえ、中学生の頃と外見が全く変わっていない自分には、全く似合っていないように見えたからだ。

 それ以上に、世界にひとつしかない、下手をすれば数千万円の値がつくかもしれないものなんて貰えないと思った。


「自分には似合わないと思うかい?」


 そう訊ねられ、少年は頷いた。

 タカミならもしかしたら似合うかもしれないが、自分にはまだ早い。早すぎる。


「いつか似合うようになるよ。良い時計っていうものは、そういうものなんだ。持ち主の成長を時を刻みながら見守ってくれるものなんだよ」


 僕は今でも十分君に似合っていると思うけどね、と言って男は笑った。


 笑顔のまま、その場に崩れ落ちるように倒れた。


 男の腹部には、ナイフで刺されたと思われる傷が何ヵ所もあった。


 刺されてからどれくらいの時間が経過していたのだろうか。

 今まで気づかなかったのが不思議なくらい大量に出血していた。

 雨が血のにおいを消し、アスファルトに流れ落ちた血を洗い流していたから気付けなかった。


 暴徒にやられたのだろう。

 こんなところで大の大人が5時間以上もショーシャンクごっこをやっていたからだ。


「最期に君に出会えてよかったよ。

 僕は、君に自由を与えられた者なんだ」


 自由? またしても少年には理解できない言葉を男は口にした。


「いくら仕事に忙殺されて、心に余裕がなかったとしても、やっぱり部下は大切にしないと駄目だね。

 部下だけじゃない。これは、他人の尊厳をないがしろにし続けた僕に与えられた罰なんだろう」


 男を刺したのは、暴徒ではなかった。

 かつて彼が失語症になるまでに精神的に追い詰めた部下のひとりだったという。


「災厄の時代の前の僕には、仕事と金以外何もなかった。

 けれど、仕事も金も妻も子もすべてを失って、手に入れたものがひとつだけあったんだ」


 それが自由だったのだという。


「時計屋が時間を気にすることすらなくなるくらい、この数年間、僕は何にも誰にも縛られることなく、僕の人生を自由を謳歌することができたんだ」


 それは、君のお陰だ、と男は言い、


「僕の亡骸はこのままここに放っておいてくれるかな」


 息を引き取った。


 少年は、彼の意思を尊重することにした。


 目をつぶらせ、胸のあたりに両手を組ませると、マンションに向かって歩きだした。


 こんな世界になってから、ようやく人間らしく自分らしく生きることができるようになった人がいる。


 そんな人がいることが、少年には理解できなかった。


 もらった時計が似合うようになる頃には、理解できるだろうか。


 少年には一生理解できない気がした。

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