第2話
「止まない雨はない、だっけ。昔の人はそんなことを言っていたようだけれど、ぼくはその人にこのいつまでも降り続く雨を見せてあげたいと思うよ」
人は自分の経験に基づいたことや、本などで得た知識、影響力のある人間の言葉しか信じることができない、その外にある事実を簡単には受け入れられない、タカミはそう続けると、少年が座るソファーに彼もまた腰を下ろした。
雨野市は、戦後最大の台風被害となった伊勢湾台風をはじめ、過去に度々水害にあった経験から、水害対策がしっかりととられていた。
そうでなければ、この街はとうに雨に沈んでしまっていただろう。
何も応えない少年に対し、彼が何かを言うことも、表情を変えることもなかった。
この数年間、少年は言葉を口にしたことが一度もなかったからだった。
心因性の失語症。少年を看てくれる医師がいたなら、おそらくそんな診断をしただろう。
それに、彼の話をちゃんと聞いているかどうかは、少年の目を見ればわかるということだった。
少年は彼によって市内にある高層マンションの最上階の部屋に匿われていた。
タカミは妹であった少女と血が繋がってはいなかったから、アリステラの王族の末裔ではなかった。彼の両親もまた、連れ子同士の再婚ではなく、初婚であったからそうではなかった。
なぜ少女だけ血の繋がりがなかったのかについては、少女の不幸な生い立ちがあった。
彼女の両親は、彼女が生まれて間もなく交通事故で他界し、彼女の両親とタカミの父親が学生時代からの親友だったため、雨野家に引き取られたのだそうだ。
アリステラの血は、少女の母親の家系のものだったらしい。
少女はそのことを知らなかった。
タカミや両親は、必要に迫られたときに話せばよいと考えていた。
だが、世界はそんなことはお構いなしに、少女に生い立ちを突きつけた。
そして少女だけではなく、彼と彼の両親の命をも狙った。
タカミは難を逃れたが、暴徒化した市民による集団リンチによって両親を殺されてしまっていた。
息子である彼ですら、一目で両親だとわからないほどに、警察署の霊安室で対面した遺体は顔を潰されていたという。
いくら血が繋がっていなかったとはいえ、妹を手にかけた少年の面倒を何年も見てくれている彼には、感謝しかなかった。
この災厄の時代に、衣食住に困らずに済んでいるだけでも有難い話だというのに、彼は少年をまるで大切な友人か家族のように扱ってくれていた。
何年も会っていなかったが、少年の家族の面倒も見てくれていた。
少年は毎日でも感謝の言葉を口にしたかったが、いつも声にはならなかった。
数年前、少年が少女とまだ出会ったばかりの頃、タカミは引きこもりの青年だった。彼は両親と不仲であり、彼が唯一心を開き、部屋に招き入れていたのは妹だけだった。
少女にとって、彼は引きこもりだが、自慢の兄だった。
なぜなら彼は警察から捜査協力を依頼されるほどの、漫画やドラマ、都市伝説の世界にしかいないようなスーパーハッカーだったからだ。
少年と少女が世界中から命を狙われる中、数ヶ月もの間逃げ回ることができたのは、タカミのおかげだった。
SNSに書き込まれる目撃情報や写真、監視カメラやドライブレコーダー、ドローンに映る映像など、ふたりの現在地や逃走ルートに関わるものをすべて、別の場所や別の人物に差し替えてくれたからだった。
タカミの知人に、一条という警察の協力者がいたこともまた大きかった。
少年が逃げ続けることに疲れなければ、諦めなければ、もしかしたら少女は今も生きていたかもしれない。
それなのに、少女を死なせてしまった。殺してしまった。
罪悪感が、少年の心を支配するたびに、タカミにかけられた言葉を思い出す。
「君は頑張ってくれたと思う。本来なら、ぼくが妹を連れて逃げなければいけなかった。だけど、引きこもりのぼくの体力じゃきっと数日で妹を死なせていた」
雨が降り続ける中、自ら手にかけた少女の死体を抱きかかえ、泣きじゃくることしかできなかった少年に、タカミはそう言って傘を差してくれた。
「世界中が妹を生け贄に捧げて、災厄から逃れようとした。
君だけが、妹を守ろうとしてくれた。
不幸な結末になってしまったけれど、ぼくは君に感謝しているんだ」
少年と少女の現在地や生死については、スマートウォッチによってタカミにだけわかるようになっていた。
彼は少女の心拍数が途切れたことで妹の死を知り、一条という刑事が運転する車で少年を迎えに来てくれたのだった。
タカミが部屋から出たのは、中学生以来であり、そのときが9年ぶりのことだった。
「これで災厄が終わるとはとても思えないが」
一条刑事が運転席で言い、
「終わらないよ。妹を生け贄にしようとしたこんな世界、さっさと滅びればいい」
助手席のタカミは、後部座席の冷たくなった妹と少年を見つめながら、吐き捨てるように応えた。
「彼女の遺体は、こちらで引き取らせてもらうが構わないな?」
一条刑事はタカミや少年の協力者ではあったが、立場上はあくまで警察官だ。本人から聞いたことはないが、かなり危ない橋を渡っているだろうことはわかっていた。
協力者であることがすでに警察上層部に悟られている可能性があった。
少女が死んでしまった以上、遺体を回収し、協力者のふりをしていたとすれば彼にとっては身の危険が多少は減るだろう。
「政府は妹の死体を見せ物にでもするつもりなのか?」
「政府ではなく国連だ。バチカンも承認している。狂っているだろう?」
本当に狂っていた。
「災厄が終わらなければ、どうせ偽物だと疑われる。見せ物にしたいなら、最初からダミーを飾ればいい」
タカミも一条刑事が置かれている状況を理解してはいたはずだった。
だが、感情が追い付いていなかった。
「そうしよう。同じ年頃の少女の死体はいくらでもあるからな」
少女には懸賞金がかけられていたため、当時は別人と知りながら懸賞金欲しさに同世代の少女たちが殺される事件が多発していた。
少年もタカミも、その事実をそのとき初めて知らされた。
「死体の顔を変えればどうにでもなる。DNAの鑑定書も偽造させる」
「それは駄目だ」
ダミーにされる少女もまた、この狂った世界の被害者なのだ。
一条刑事によれば、死体は腐ることがないよう冷凍保存され、世界各国をまわることになるだろう、とのことだった。
タカミは冷凍保存された状態のまま遺体を引き取ることを条件に、一条刑事に妹を任せることにした。
「君はどうする?」
一条刑事は少年に問うた。
「君の顔も名前も、彼女と同様世界中に晒されている。
顔や名前を変え、海外で家族と共にひっそりと暮らしていくのが君のためだと思うが」
少年は首を横に振った。
それはタカミも同じであったからだった。
タカミと共に少女の遺体が戻るのを待つ。
それが少年の選択だった。
だから少年は、この数年間タカミの庇護下にあった。
しかし、遺体は戻ってはこなかった。
1年前、飛行機での輸送中にハイジャックされ、行方がわからなくなってしまったのだ。
かつてアリステラ王国が、その全土を支配したとされる大陸の上空での出来事だった。
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