第77話:動き出すもの




「そろそろ働かないと駄目よね」

 庭で優雅にお茶を飲んでいたフローレスがカップをソーサーに置きながら、ポツリと呟く。

 帝国内全土で発売されるようになった既存本の売上げは凄まじく、よほどの贅沢をしなければ一生遊んで暮らせる額が口座に有る事に、フローレスは気付いていない。


 契約書には、お互いの取り分の割合しか書いていないので、どれくらいの収入になったのかは、口座に振り込まれる金額を確認するしかない。

 売上げ総数、総額、振込金額などは、年末に明細が届くように契約したので、まだ届いていない。


「どうせ大した額にならないから、毎月じゃなくて年に1回で良いわよね」

 そう言ったフローレスに、何か言おうとした担当をさえぎり「そうですね」と返事をしてしまったのはローゼンである。


 本当の収入金額を知ったら、必要以上に使用人に還元しようとするのが目に見えていたからだ。

 オッペンハイマー侯爵家を勝手に辞める形になったので、使用人達は退職金を貰っていない。

 それを不満に思う者は誰一人として居ないのに、唯一フローレスだけが気にしていた。



 最初の数ヶ月こそ少し下がった給金だが、今では侯爵家に居た頃と遜色そんしょく無い額を貰っている。

 それこそ、オッペンハイマー家に残った者達より貰っている程だ。

 あちらは伯爵家に降格しているのだから当然だが、それをフローレスが知るよしも無い。


「では、例の担当と打ち合わせできるように、連絡を取りますね」

 ローゼンの言葉に、フローレスは「え?」と驚きの視線を向ける。

「私は貴族女性の話相手コンパニオンとかの仕事を探そうと」

 今度はローゼンが「え?」と眉間に皺を寄せる。


「そんなの、どこの国でも供給過剰で安く買い叩かれますよ。ここにも何人か売り込みに来たくらいですからね」

「そうなの!?」

 本当に知らなかったのだろう。

 フローレスが目を見開いて驚いている。


「しかもお嬢様は身分を明かせませんよね」

 今のフローレスの肩書は、貴族ではなく平民の女性だった。

「あ、そうだったわ」

 ペアラズール王国に居た時よりも優雅な生活をしている為、フローレスは自分の身分を失念していたようである。

 使用人としては嬉しい限りであるが、色々と駄目駄目である。



「あまり自信は無いけれど、とりあえず担当の人と会ってみるわ」

 フローレスが了承したので、ローゼンはくだんの担当へと連絡を取った。

 その際に『この前のような風体で訪ねて来たら追い返す』と一筆添えておいた。

 未婚の女性の屋敷に、あのような男が出入りしたら、どんな悪評が流されるかわかったものではない。


 せめてどこぞの商家の人間に見える程度には整えて来い。

 ローゼンとしては、その程度の意味のつもりだった。




 午後になり、約束の時間に訪ねて来た担当は、完璧な侍女と自負していたローゼンの表情すら崩してしまう破壊力だった。

 これで花束でも持っていたら、求婚する貴族である。


「この前は失礼いたしました。締切開けで3日は寝ていなくて……いや、4日だったかな」

 爽やかに笑う姿は、どこから見ても高位貴族の子息だった。



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