第20話 2月26日

2月26日




 あの最後の日以来、私は彼からのメッセージを無視し続けた。年明けの【あけましておめでとう】が最後の連絡だ。私は既読の文字も付けることをしなかった。いつまでも残る“1”と表示された通知を消すに消すことができないでいた。


 彼と突然関係を切るのはとても辛いものだった。しかしこれでよかったのだと自分に言い聞かせるしかなかった。


 この日私は引っ越しの支度をしていた。卒業式を3月に控えてはいるが、それ以外で学校に行く予定もほとんどなかったからだ。必要なもの以外はほとんど実家に送ってしまうつもりだ。


 プチやマスター、他のみんなに会えなくなるのが名残惜しいが、挨拶も済ませてしまっている。もう実家に戻るだけの状態だ。


 片付けを進めているうちに、いつしか買った花の辞典が埃を被って机と袖机の隙間から現れた。懐かしさからページを捲る。薔薇のページで詩織が挟み込まれていた。




 いつしか、彼が話していたことを思い出した。薔薇は本数によって意味が変わるのだ。そして彼が語っていた小説にも、確か薔薇の本数が関係していたとか……。確か1本で”一目惚れ”、365本で”あなたが毎日恋しい”、999本で……。机の上のスマホに着信が入った。震える画面の文字を確認すると、【お母さん】と表示されていた。


 画面を耳に付けると、久しい声に思わず本を伏せて読み止まる。大学や卒業式について話した後、洗濯乾燥機が停止を知らせた。中から取り出したのはマフラーだ。次シーズンに備え、今年はもう収納しておこうと思ったのだ。


「そうだ、忘れないうちに……」


 私は無くしやすいものには名前を付ける癖があった。マフラーもその対象だ。


 机の上、タグに二文字、“牛嶋”と書いた文字を見てふと気が付いた。そうだ、あのマフラーにも確かそう書いたような……。




「まあ、タグなんか見ないか……」


 再びスマホが小刻みに机を叩き始めた。


「何か伝え忘れたのかな……?」


 画面を確認すると、彼の名前が表示されている。私は悩んだ末に、画面をそっと隠すように伏せた。もう私は未練も全て捨てたのだと自分に嘘を吐く。しかし再び音を立てるスマホに何か緊急事態なのかもしれないと理由を付けて、そっと耳元へ近づけた。




「どうしたの……? あ、ごめんね連絡してなくて、実は……」


「今家!?」


 随分と呼吸が荒々しい。本当に緊急だったのだろうか。私の言い訳も聞かずに話し始めてしまった。


「え? うん、そうだけど……どうしたの息切らして?」


「出てきて欲しいんだ! 一瞬でいいから!」


 訳もなくそれだけ伝える彼に私は戸惑いを隠せない。ただ彼の言う通り、もう一度会うしかなさそうだった。


「……わかった。今どこ?」


「橋の近くの住宅街!」


「え!? ……わかった、すぐ着替える」




 もうすぐ近くまで来ていたようだった。私は急いで部屋着から収納したばかりの服に着替え、家から飛び出した。


 アパートの階段を降り、大通りを越えた先に目を向けると、私に気づいた彼が片方の腕を大きく振って交差点へと速度を上げた。私も気付けば足が動いていた。点滅する信号を髪も服も乱しながら彼が走り抜けてきた。


 私達は白い梅の木の陰で再び出会ってしまった。


「どうしたの!? そんな急いで……」


 肩から息を吸うように荒れた呼吸で彼は膝から崩れるように座り込んだ。




「そっちこそ……急に連絡……途絶えて……」


「…………ごめんね」


 その一言で、彼は私が思ってもみなかったことを口にした。


「やっと、やっと思い出したんだ……今まで……気づかなくてごめん……すいちゃん!」


 私は貴方の真っ直ぐとした優しさが好きだった。隣から見上げたときに遠くを見つめるその瞳が好きだった。


「あの卒園式の日から、また会おうって約束してたのに、忘れててごめん!」


 時に見せる驚いた表情がどこか可愛らしくて好きだった。私を気にかけて、歩く速度を合わせてくれるその気遣いが好きだった。


「絶対また遊ぼうって約束したのに、ごめん!」


 心を落ち着かれてくれる、その声が好きだった。不器用で私のくだらないことにも付き合ってくれるところが好きだった。私はそんな彼が、大好きだ。




「ずっと待っててくれてありがとう。あの時言えなかったけど、これが僕の気持ちだ」


 彼は、片膝を立ててぎゅっと握りしめていた花束を私の前に差し出した。その手には、カランコエ、ペラルゴニューム、クロッカス、イベリス、そしてそれらに囲まれるように繊細な赤色をした薔薇が中央に美麗に咲き誇っている。私達の周りを、微風に誘われた梅の花びらが躍るように舞い上がった。


 溢れかえりそうな涙の水溜まりで視界が滲み、彼の表情がよく見えない。袖で両目を拭い、私はこの時人生で初めて笑えたような気がした。




「待ちくたびれたよ」


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