第19話 1月29日
1月29日
「こんばんは、みんな」
「こんばんは。お久しぶりですね」
運の良いことにこの日は雨が降っていたため、テラス席に座ることができた。とても綺麗な空を拝めることができたのだ。
「今日は素敵な満月ね」
マスターはふふっと笑い、あれは満月ではないのです、と言って続けた。
「満月は昨日でしたからほんの少しだけ欠けてしまっているのです」
その言葉を聞いて私はテーブルに身体を馴染ませるように落ち込んだ。
「また満月じゃないのかー……。ついてないなぁ」
「本当ミドリは満月にこだわるのね」
プチは頬杖をついて私を見下ろすように呟いた。この真っ白な毛並みももう見ることは出来ないのだ。
私がぐったりとテーブルに右頬を乗せたまま、プチの頭をゆっくりと撫でおろすと、とても驚いたような、安心したような表情をしていた。
「プチは本当に綺麗な毛並みをしているのね」
何かを察したのか、瞳孔が僅かに見開いた。
「……ええ、貴女の髪の毛も、本当に素敵よ」
テーブルに横臥する私の前に、マスターは白く湯気の立つマグカップをそっと置いた。
「これは私からの最後のお気持ちになります」
私は体を起こし、ありがとうと言ってそっと縁に唇を付けた。
「これはどんな飲み物なの?」
マスターから初めて寂しげな顔を向けられた。その表情はとても優しく、まるで深更のような静けさだった。
「ただのココアですよ」
私はココアを半分ほど飲み終えたところで立ち上がり、一人ひとりを抱きしめた。プチ、ダッチ、ウィン、ラテ、モカ。それぞれ違った獣のような匂いが個性を表していた。
「なんだよ、最後の別れみたいに」
鈍感なウィンは何も気づいていないようだった。
「いいの? 彼とは会わなくて」
プチの一言に、私は力の抜けた笑顔を向けて振り絞ったような声で答えた。
「うん、もう大丈夫よ」
席から立ち上がり、月の鉢の前へと体を運んだ。私の鉢にまた一つ花が咲いている。その花は、マスターに訊かずともわかった。
「これがダイアモンドリリーなのね……」
私の鉢の花は、なんとなく察していた。これは、彼の心を表した花が咲く。そして、彼の鉢には私の心が咲く。最後に彼に待つ花言葉は、なんなのだろう。私はそれを知ることは無いだろうな。
「マスター、この花はいただける?」
もちろんです、そう言ってマスターは鉢を抱えて店内へ運んだ。
「みんな、彼には私の事を話さないでね」
察しの悪いウィン意外は頷いてくれた。それぞれ個性のある頷き方に、私は自然とまた泣きそうになってしまう。鼻の奥に詰まる汗のようなものを飲み込んだ。
「ねえ、初めて会った時のことを覚えてる?」
私は席へ戻り、マスターを待つ間に雑談をした。思えば彼と出会った日もこうして、みんなと笑い合っていたような気がした。
「お待たせしました。お気をつけてお持ち帰りください」
マスターは持ち手のない紙袋の中に花を詰めてくれていた。中を覗くと、小さな花束、ドライフラワー、詩織に姿を変えた花々がとても可愛らしかった。
「ありがとう、本当にお世話になりました。とっても素敵です」
気持ちを伝えると、マスターの微笑む表情に私は安心した。
「プチ、ここで最初に出会えたのがアナタで良かったわ」
プチは猫とは思えないほどの寂しげな顔をしていた。そのビー玉のような綺麗な瞳が私は印象的だった。
「ええ、またいつか、会えることを願っているわ。スイ」
うん、そう言って私は頷いた。
「じゃあね、みんな」
席を立ち、みんなの顔を見渡し、私がその席へ戻る事はなかった。別れは本当に辛く、美しいものだ。こんなにも涙が溢れるものだから。恵まれた出会いに感謝を残し、私は一人の部屋にドライフラワーを飾りつけた。
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