第5話 6月5日

6月5日




 3日ほど前に見た週間天気予報で、おそらく今日が梅雨入りするという予想は、案の定当たっていた。


 約一か月の時間で心の整理もつけられ、前向きにとらえることができていた。今日、彼は約束を忘れずに来てくれるだろうか。確か休みの日は12時と告げたはずだ。午前中、何をしようかとベッドの上で悩んでいると、SNSで気になる投稿を見つけた。


 それは恋愛小説を投稿している人の投稿だった。2作品をつなげて読むと、一つの物語が完成するといったものだった。リンクをタップして読んでいるうちに時間は自然と過ぎていた。


 読み終えたころ、心が錆びていたようだった。




 小説だとか、音楽だとか、私はいつからか悪い印象を持つようになっていた。努力とか夢は叶うとか、そんな言葉ばかり並べて、恵まれた人の口から無関心に飛び出した言葉など、所詮私の心に響かない。そんなことを思うようになっていた。人生はそんなものじゃどうにもならないとわかっていたからだ。


 11時を過ぎ、支度をした後に家を出た。かなり早い時間になってしまったけれど、家にいてもすることがなかった。


 今日彼と会って何をするか、どう思い出して貰えるかを考えた結果、思い出をあえて作っていく事とした。だから私は今日デートに連れていくつもりだ。嫌と言われないか無駄な不安は出来るだけ無視していた。




 雨が空から滴るバス停で、何度も心の中で大丈夫、大丈夫と自分に声をかけた。バスが歩道に近づき停車した。緊張しているうちに、到着したバス停から降り、カフェの場所へと歩く。じめじめとした空気に髪の毛がパサついてしまっていた。


 足早に雑木林の道を抜け、大木がうっすらと見えてきた。いつもは建物の隙間から抜けないと見えないはずだった。しかしその謎も、道を抜けるとすぐに理解できた。


 声も出なかった。全てを奪われたような雲一つない夜空だ。生まれて一度も見たことがないほど大きな満月だ。目を凝らしてみても、欠けていることなく月面全てが輝いている。この場所に出会って初めての満月だった。その大きなオーラは圧巻だった。今にも落ちてきそうなその存在に、生きる力を受け渡された気さえした。




 足音に気づき、私はその方に顔を向けた。私に真っ直ぐと近づく彼だった。


「ちゃんと来たね、颯君」


 大丈夫、緊張していない。そう自分を落ち着かせた。


「今朝梅雨入りしたと知って、思い出したよ」


「ありがとう、わざわざ来てくれて」


 覚えていてくれたことに、嬉しさが笑顔となって表れてしまう。


「今日は素敵な満月だよ、ほら」


 私は再び天を見上げる。五感が全て喜んでいる気がした。こんなに素敵な夜空を彼の隣で見上げられていることが、これほどに幸せな事なのか、初めて知ることができた。


 彼の横顔をちらりと覗く。夢中になって見上げて、私が横にいることも忘れていそうだ。その子どもらしい立ち姿に、私は思わずふふっと声を漏らす。




「見惚れてたね、口を開けてすっごい夢中になってたよ」


 恥ずかし気に赤くなった顔を隠そうとする仕草が愛おしい。


「昔の私みたい」


「え?」


 彼の顔を見つめ続けると、自分が保てないような気がし、再び目線が天に逃げた。


「私も初めてここに来た時は、今の颯君みたいに口を開けて、この空の一部に慣れたらいいのになーなんて思ってた。たぶん、プチが話しかけてくれなかったら、永遠と見続けていたかもしれない」


 出来ることならば、このままずっと彼とこの月を眺めていたい。この月のように美しくなりたい。そんなことを思うけれど、今日はやることがある。


 一息ついて、彼の顔を覗き込むように体を傾けて、私は意を決した。




「じゃあ行こっか」


「え? どこに?」


「まあまあいいからいいから。あっちから出るよ」


 私は出口へと向かい、彼を誘導する。振り向かずとも付いて来てくれていることが足音でわかる。


「怖い?」


 振り返って彼の顔を確認したが、真っ暗で何もわからない。


「ううん、大丈夫。でも、ちょっと不安」


 私は今なら大丈夫、と自分に言い聞かせて彼の手首を掴んだ。顔が熱くなっていくのがわかったが、きっと彼には見られないだろうと腕を引っ張る。


「こっち」


 手汗をかきそうで内心焦っていた。心拍数が上がっていくのがわかる。ずっとこの時間を過ごしたい気持ちと、早くこの場所を抜け出して手を放したい気持ちが混ざり合い、喧嘩していた。


 雨音が鳴り始め、雑木林の出口を抜けて彼の手を放した。




「ここは……?」


 傘を広げ、振り返って辺りを見渡す彼に、答える。


「私はいつもここからさっきの場所に行ってるの」


「どうしてこんな道、最初に通ろうと思ったの?」


 手元の傘を広げる彼の質問に、私は2年前のあの日を思い出した。とても話せる内容なんかじゃない。


「じゃあ逆に颯君の方は、あの場所の入り口、どんな場所にあった?」


「僕の方は……小さな神社の裏側……人が入っているところを見たことがない神社の裏側が入り口だった」


「そこへはどうして入ろうと思ったの?」


「なんだか、どうしようもない好奇心というか……」


「私もそんなところかな。理由はあんまり変わらないと思う」


 正直に話すことなんてできるわけがなかった。ただ彼の答えも曖昧だったことが唯一の救いで、私は誤魔化すことができた。




「よし、じゃあ行くよ!」


 私は背筋を伸ばして気合を入れた。真っ直ぐ見つめる私に彼は驚いていた。


「え? ここからどこに!?」


「私、観たい映画があるの!」


 唖然として立ち尽くしている。本当はこれといって気になる映画はなかった。1週間ほど前に公開中の映画を調べ、悪くなさそうなものをピックアップしていた。


「あ、ちゃんとお財布とか持ってきた?」


「財布とスマホは持ってきた……けど……?」


「よし! じゃあ大丈夫だね! 行くよ!」


 半ば無理やりだったが、不器用な自分はこんな方法しか思いつかなかった。




「ちょ、ちょっと待ってください。いきなり映画って、どういうこと?」


 事前に映画へ一緒に行く理由は色々考えたが、どれもしっくりこなかった。人差し指を顎に付け、考え込むふりをした後、彼に笑顔で答えた。


「んー、気分?」


「気分……」


「ダメだった? この後予定あったりする?」


 眉を顰めると、彼は考え込んだ。


「予定は……ないですけど……」


「けど?」


「……わかったよ。……行くよ」


「やった!」


 もし断られたら……。なんて考えは心配に過ぎなかった。喜びを握り締め、私達は橋横の階段を上がった。この橋を見るたびに、あの日に落ちていたらと嫌な思い出が蘇ってしまう。


 静かな住宅街に佇むバス停の前で足を止め、私は言葉をかける。


「この辺ね、住宅街だから車もあんまり通らないの」


「へぇ、なんだか大きな家ばかりだね」




 バス停には屋根があったにも関わらず、私達は傘を畳まなかった。彼の気持ちはわからなかったが、私は緊張のあまり傘の存在を忘れていた。


「うん、私も将来、大きな家に住んでみたいの」


「この辺りで?」


「そうだなぁ、この辺りの住宅街も好きだけど、山とか、森みたいなところに住みたい。人があんまりいないような」


 お互い、目も顔も合わせずに話を続けた。どこか安心感と胸が鳴る音だけが体を伝う。


「山とか森かぁ、素敵だね。空気が綺麗だもんね」


 彼のその肯定的な考え方に、また心を惹かれてしまう。


「そう、後は自分だけの世界って感じがしていいかな。憧れる」


「いいね、なんかそういうの。あ、でも買い物がちょっと不便かも」


 現実的な意見に私はプッと吹き出して、あははと笑ってしまった。




「急にリアルだね」


 とても静かだった。水が屋根を叩く音と、私達の声意外、消えてしまったようだ。足音もしない風が、傘をすり抜けて雨水を足元に貼り付ける。


 バスのエンジン音が水を弾く音と重なって聞こえ始めた。


「あ、バスがきたよ」


 バスの扉が私達の前で開き、傘を閉じてICカードをかざして乗り込んだ。日曜日ということもあり、そこそこ人が乗車していた。私は後ろの方の席に指を差して向かった。


「あそこ、座ろう」


 席の前で立ち止まり、彼を窓際の席に座らせた。この地域を見ているうちに、昔の思い出が蘇るかもしれないからだ。雨粒が窓の外を見えにくくさせていた。


「バス、発進いたします」




 私が座ると同時に出発した。エンジンの回転する音に合わせ、乗客の体が揺れる。


「この辺りね、自然いっぱいで好きなんだ。住宅街なのに。共存してるって感じがするの」


 他人に会話を聞かれたくなかった私は、彼の耳元で囁くように話をした。彼はたまに片目を向けるだけで、窓の外に夢中だった。


「翠さんの家は、この辺りなの?」


 ようやく彼の両目が私に向いた。


「うん、もう少し待つと見えるよ」


 私の一言ですぐに視線を戻した。私に興味がないのだろうか、そんな不安が無駄に生まれてしまう。私は彼に少しだけ近寄った。


「あ、ほらそこ! このオレンジっぽいアパート!」




 大通り沿いに建てられた私のアパートに指を差す。彼は窓の外に夢中で私の事を見向きもしない。悲しみが大きくなってきてしまう。


「あそこの2階の1番奥の部屋なんだ! でね、そこの部屋が……」


 とにかく気を逸らさなければと、焦る気持ちがどんどん膨らんでいった。


「どうして僕にそこまで話してくれるの?」


 唐突に振り向かれた。数センチで鼻同士が触れてしまう距離だった。無意識のうちに彼の顔の横にまで私は近づいてしまっていたのだ。一瞬だけ、本当に一瞬だけ時間が止まってしまったようだった。


「ごめん……!」


 謝る彼の表情を見られない。必死に赤くなる頬を俯いて隠したのだ。髪が長くて助かったと思った。


 止まってしまった会話を戻さなければと、彼の発言を思い出す。そうだ、どうしてそこまで話すのか、だった。心拍数が高くなったまま、私はようやく顔を上げた。


「どうして話すか、かぁ……。うーん、話しやすい、から?」


 彼はプッ吹き出して私に尋ねた。




「なんで疑問系なの」


 私も彼の笑顔に釣られて笑ってしまった。彼の笑顔は、なんだかんだ初めて見たような気がした。


「颯君のおうちはどんななの?」


 私の話ばかりだったと気づき、彼の事を訊いてみた。知っていることを、知らないふりをして聴くのは心に負荷がかかった。


 今住んでいる場所の事や、学校生活など、知らないこともあったが、それでも私の知っている彼を、初耳のような反応をしなくてはいけないことが心苦しかった。


「まもなく~終点~終点の……」


 終点にもかかわらず、ピンポーンと誰かが押した車内のボタンが全て光る。


「あ、もう着くよ」


 終点の駅に到着した。私の家の最寄り駅でもある。


 ICカードを片手に、彼に尋ねる。




「お昼ご飯もう食べた?」


「いや、まだ食べてないよ」


「そっか、何か食べよっか。何か食べたいものとかある?」


 彼は狭い天井を見上げて悩む。


「うーん何があるかわからないから……」


「ごめん、私も言ってなかったもんね。じゃあ映画館の横にイタリアンがあるからそこはどう?」


「うん、大丈夫だよ。そこにしようか」


 飲食店が多い場所だが、映画館のすぐ隣にあるためそこにした。


 バス停のロータリーに足を降ろすと、雨だというのに人の流れは意外にも多かった。傘が揺れながらあちこちへと移動している。


「日曜日だから人多いね」




「うん、この駅に来るの初めてだから逸れたらもう会えないかもしれない」


 あまりにも真剣に言うものだから、私は吹き出してしまった。


「大袈裟だなぁ」


 私は彼と逸れたとしても、また会えることを知っている。大丈夫、また会えるよ、そうポツリと呟いた。


「え?」


「ううん、なんでもないよ」


 私の漏らした言葉を気にする彼に、私は作り笑顔で誤魔化した。


「そうだ、スマホ持ってきたよ」


「お、じゃあ後でID交換しよう!」


 私の声が彼に届いていないことを願った。




「先にチケット買ってからご飯食べる?」


「うん、そうしよう」


 たった二言だけしか貰えない返事にすら、嬉しさがあった。


 映画館の中に入り、エスカレーターを昇る。段々とポップコーンの甘い香りが広がり、映画館の雰囲気を漂わせる。


「映画館の匂いって、なんかいいよね」


 エスカレーターで私より低くなった彼が上目遣いで言葉を返す。なぜだか、バスでの一件以来、やけに彼に意識が向いてしまう。


「ね、映画館に来たって感じがする」


 チケット販売機のある階へ到着し、私は慣れた手つきで販売機をポチポチと推し進める。


「何を観るの?」




「これ観たいんだけど……どう?」


 事前に探しておいた作品を差した。


 “明日の世界”と書かれた文字列を見て彼は了承してくれた。


「うん、いいよ。それにしようか」


 私はそのまま文字に伸ばした指を画面に付ける。


「ありがとう、なんだかあらすじとか、題名に惹かれちゃって、観てみたいなって思ったの」


 ポチポチと進めるが、なんだか少しばかり彼を騙しているような罪悪感が生まれた。しかし題名に惹かれたのは本当だった。あらすじに目を通しても、彼と観てみたい、そんな気持ちがあったのも本当だ。




「うん、僕もなんだか素敵な題名だなって思った」


「よかった……」


 彼が嫌がらなくてほっとした。


「席どこが良いかな?」


「んー、僕はいつも1番後ろを取ってるよ」


「うそ!? 私どちらかというと前に行っちゃう」


 彼と目が合うと、私達はお互いの真剣な表情に笑いが溢れてしまった。


「じゃあ間にしようか」


「うん、たまには少し後ろでも観てみたい」


 私達はI列の16番と17番の席のチケットを購入した。


「14:15上映開始だから、お昼ご飯食べたらちょうど良いかもね」


 小さな鞄から取り出したスマホで時間を確認すると、12:32の数字が並んでいる。




「そうだね、ゆっくり食べよっか」


 チケットを発行して、私達はイタリアンのお店に足を運んだ。


 私はカルボナーラ、彼はナポリタンを注文した。いただきます、と言ってから私は鞄の中からヘアゴムを取り出した。同級生はみんな手首に通しているが、私はどうしてもそれが気になってしまう人だった。


 セミロングの髪をポニーテールにし、再びいただきますと言ってフォークにパスタを巻いた。


 動かない彼の腕が視界に入り、口に運ぶ途中の手を止めた。

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