第6話 決戦
「おい、こんなに酷い移動法だなんて聞いてないぞ」
イェラナイフはゲエゲエと吐きながら私に抗議した。
情けないとは言わない。
私の樹を使った高速移動法を初めて経験した人は大抵こうなる。
お兄様ですらそうだったし、ミレアは一度経験して以降、断固としてこの移動法を拒否している。
「言わなかったのよ。言ったら拒否されるかもしれないじゃない」
私としては一刻も早くお城に帰りたかったし、何より一度ぐらいは彼を驚かしてもみたかったのだ。
イェラナイフは無事に全ての朝食を吐き終わったらしかった。
革袋の水で口を軽くゆすいだ後、うんざりした口調で私に尋ねる。
「それで、俺は後何回飛べばいいんだ」
「心配しなくても今ので終わりよ。
この森を出れば、もうお城が見えるわ」
というか、飛んでいる最中にとっくにお城は見えていたはずだ。
きっと初めての飛行だったから、目を開けていられなかったのだろう。
私は足元もおぼつかない様子の彼の手を引いて森の中を歩きだした。
そう歩かないうちに森を抜け、視界が開ける。
「ほら、あれが〈浮遊城〉よ!」
私が指さす先を見てイェラナイフが感嘆の声を上げる。
「なるほど噂には聞いていたが、実物を目にするとやはり驚かされるな」
「凄いでしょう」
言いながら私は空を見上げた。
久しぶりの太陽は、この厚ぼったい外套と相まってひどく暑苦しかった。
その上、あの異常に魔力が濃厚な空間から出てきたものだから、空間が頼りなくなったような気すらする。
それでも、久しぶりの帰宅となればやっぱり胸が躍る。
「さ、早くいきましょ!」
私は城を見つめ続けるイェラナイフをせかした。
聞くところによれば、お城では私はもう死んだことになっているらしい。
早く戻ってミレアを安心させてあげないと。
*
城門を避け、城下町を囲う外城壁を乗り越えようとしたところでイェラナイフに止められた。
彼にはそれが奇異なことに思えたらしい。
「なんだってこんな所から入るんだ。
普通に城門を通ればいいじゃないか」
「だって、そんなことしたらきっと大騒ぎになるでしょ」
何しろ私は全身白ずくめの大変目立つ風体をしている。
城門なんて通ったら一瞬で門番に見つかってしまう。
もちろん、この外套を脱いだって同じだ。
別にやましいことがあるわけではないけれど、静かに帰宅できるに越したことはない。
「お前がいきなり城に姿を見せるほうが余程騒ぎになると思うが。
悪いことは言わん。門番に話を通して先触れを出しておけ。
面倒に思えるかもしれないが、その方が最終的にはトラブルが減る」
そういうものなのかしら?
でも、確かに彼の言うことにも一理はありそうだ。
きっとミレアなんかは私が幽霊になって化けて出たと思って腰を抜かしてしまうだろう。
その前に心の準備をさせておくのは悪くない。
私は彼の助言に従い外城門を守る衛士の所に顔を出すことにした。
「おお、姫様!
お早いお戻りで。もう大丈夫なんですか?」
門番にあたっていた顔見知りの老衛士は、私の顔を見るとのんびりした口調でこう言った。
もしかして、彼らは私が死んだ事を知らないのだろうか?
それも十分あり得る話だった。
お兄様の不在時に、森の守りの要である私が死ぬというのは、色々な所に動揺を起こしかねない。
その原因がお義姉様だなんて事になれば猶更だ。
きっと私の死は一般には伏せられているのだろう。
だったら余計な混乱を起こす必要はない。
「ええ、誤解はちゃんと解けたから。
私はこれからお義姉様に謝りに行くの。
お城に先触れを出しておいて貰えないかしら?」
「へえ!
姫様が! お妃様に謝罪を!
こりゃ一大事だ!」
老衛士が目を真ん丸にして叫んだ。
何もそんなに驚かなくてもいいんじゃないかしら?
すぐにお城に使いが出され、私達はあれよあれよという間にお城に連れていかれた。
お城ではミレアが満面の笑みを浮かべて出迎えてくれた。
「まあまあ姫様! よくお戻りになられました!
森の中の生活はさぞご不便でしたでしょう?
ちゃんと食事はとっておられましたか?
堅パンや干し肉ばかりでは味気のうございますからね。
久々に温かい食事でもいかがですか?
すぐに厨房に人をやって――え? いらない?
分かりました。すぐに湯浴みの支度をさせ――これもいらない。
え? すぐにお妃様に会いたい? 大事な話がある!
ええ、ええすぐにお妃様にお伝えしますとも!
でもまずはその外套をお脱ぎになって――」
外套を脱ぐように促されフードを外した瞬間、休むことなく動き続けていたミレアの口がぴったりと止まった。
目も口も驚きのあまり真ん丸になっている。
「ひ、姫様!
その御髪は一体……!」
「ああ、これ?
邪魔だから切ったのよ」
何も知らないのなら余計な事は言うまい。
今思えば狩人の兄弟には悪い事をしてしまった。
彼らは本当に私を連れ戻しに来ただけだったのだ。
きっと見つけ出してお詫びと埋め合わせをしてあげないと。
お義姉様なら彼らの居場所がわかるだろうか?
いや、彼らはそのお義姉様から逃げているんだったかしら?
まあいいか。今はお義姉様だ。
ミレアはまだアワアワしたままなので、自分で外套を脱いで荷物と一緒にミレアに押し付ける。
「そんな事より今は一刻を争うの。
早くお義姉様のところへ連れていってちょうだい」
「は、はい……」
まだ何か言いたげなミレアをせかしてお義姉様のところに向かう。
もちろんイェラナイフも一緒だ。
人間から見ればとても小柄な彼は城中から好奇の視線を集めていた。
ミレアも彼が気になるようで先程からチラチラと振り返っては彼の様子を窺っている。
気になるのはわかるけれど、何しろ私にとっては大事な仲間だ。
彼女にはもう少し落ち着いてからしっかりと紹介してあげたい。
「本日、お妃様はこちらでお会いになられるとのことです」
そう言って通されたのは、意外なことにお義姉様の私室だった。
謝罪したいと伝えていたのだから、てっきりお城の大広間に通されるとばかり思っていた。
そこでなら、私が謝罪するところを大勢の人に見せることができる。
互いの立場がはっきりするということは、お義姉様にとって利益になる。
ところがお義姉様はファラに人払いを命じて侍女達まで追い出してしまった。
「すまぬがご客人。
今だけは義妹と二人っきりで話をさせて欲しいのじゃ。
ミレア、話が済むまでの間、ご客人をもてなしておいてはくれぬか」
ミレアは私に少しだけ躊躇うような視線を向けてきたが、私が頷いて見せるとイェラナイフを連れて部屋から出ていった。
部屋には私とお義姉様、ファラの三人と、お義姉様の腕の中の赤ん坊だけが残った。
私はお義姉様の前に跪き、首を垂れる。
「お義姉様におかれましては大変ご機嫌麗しゅう。
この度は、私めの勘違いにて大変な不始末を――」
「よい。なにも言うな」
ところが、私が謝罪の言葉を口にする前にお義姉様に遮られてしまった。
もしかして謝罪は受け入れてもらえないのだろうか?
そうか、だからこっちの部屋なのか。
当然だ。それだけのことはしてきた。
言葉一つでチャラにできるほど、お義姉様の怒りが軽いわけがない。
私は覚悟を決めてお義姉様の言葉を待った。
「皆まで言わずとも、そなたの真心は伝わっておる。
そなたがこれまでの行いを悔やみ、改めるというのなら、全て許そう。
そして新たな関係を築こうではないか。
共に手を取り、陛下を、そしてこの国を支えていこうぞ」
その優しい言葉と声色に、私は泣きそうになってしまった。
お義姉様は滅茶苦茶にお怒りだということが分かったからだ。
だって何も言わずに真心が伝わるわけがない。
言葉どころか、まだ行動ですら示していないのだ。
一体今の私のどこに許される要素があるというのか。
きっとこれはお義姉様の罠だ。
先の暗殺者は確かにホルニアの手の者だったのだろうが、お義姉様はお義姉様で私の命を狙っているに違いない。
こうやって私を油断させて背後から刺すつもりだ。
そのためにこうして私室で人払いをした上で謝罪を受け入れたのだろう。
謝罪を受け入れてから殺したのではあまりに外聞が悪い。
だけど、誰もいない所でのやり取りであれば、後からどうとでも言い繕うことができる。
私が悲しみに肩を震わせていると、お義姉様が言葉をつづけた。
「そなたの戦いぶり、すべて見せて貰った。
そなたの叫びも聞いた。
我が愛しい
そなたが家族のために命を懸けてくれたこと。
そしてその家族に、わらわも含めていてくれたこと、わらわは生涯忘れぬ」
え? ちょっと待って。何でお義姉様が知ってるの?
私は思わず顔を上げてしまった。
目の見えないはずのお義姉様が私の顔を
「疑うのも無理はない。
だが、今の言葉は真実そう思うての言葉じゃ。
信頼の証に、我が魔法の力を見せてやるとしよう。
ファラ、鏡を持て」
お義姉様の指示で、ファラが恭しく不思議な装飾の鏡を差し出した。
お義姉様は腕の中の赤ん坊と引き換えにそれを受取ると、私に鏡面を向けて捧げ持つ。
「我が魔法の力は三つ。
第一に、この盲いた目に代わって鏡に映った景色を見ることができる。
第二に、その鏡を経由して遠く離れた鏡を映し出すことができる」
そういってお義姉様は鏡に向かって何やらぶつぶつと唱え始めた。
鏡に映った私が大きく歪み、代わって森の中の景色が映った。
忘れるはずもない。先日カリウスと戦ったあの場所だ。
なるほど。
これがお義姉様の力……。
「そして第三に、その過去の景色も映すこともできるのじゃ」
そう言いながら、お義姉様は再び魔法に集中し始めた。
鏡に映った景色が再びグニャリと歪む。
次に映し出されたのは、宝剣を構える後姿のカリウスと、それに対峙する私。
鏡の中の私が何かを叫んでいる。
声こそ聞こえないものの、何を言っているかははっきりと分かった。
間違いなく、あの時だ。
鏡の中で、叫び終わった私が戦いを再開した。
お義姉様が何事か呟き、鏡の中の景色が止まる。
巻き戻る。
再びカリウスと対峙する鏡の中の私。
何か叫んでいる。
「お、お義姉様、もう止めていただけないかしら」
恥ずかしさのあまり私が哀願すると、お義姉様は意地の悪い笑みを浮かべた。
「何、恥ずかしがるでない」
リピート。鏡の中の私が何かを叫んでいる。
お義姉様の復讐はまだ始まったばかりだ。
「あの、お義姉様……もう一つ大事なお話が……」
なにも、話をそらそうとしてこんなことを言っているわけではない。
これを持ち出すなら、人払いされた今以外にないだろう。
「なんじゃ?」
お義姉様が集中を解いたおかげで、鏡から森の景色が消えた。
私はちらりと赤ん坊の様子を見た。
赤ん坊はファラの腕の中でスヤスヤと眠っている。
「カリウスは私が死んだものと思い込んでいたわ。
なんでも、このお城にいる内通者から情報を得ていたとか」
お義姉様の表情が変わった。
そして振り返り、ファラに視線を向ける。
ファラの反応は極めて速かった。
懐からナイフを取り出し、坊やに突き立てようと振り上げる。
お義姉様が立ち上がり、坊やを取り戻そうと手を伸ばした。
ファラが身をかわし、お義姉様の手が空を切った。
胸元の首飾りが揺れて、お義姉様はファラを見失う。
その隙にファラがナイフを振り下ろす。
だけど、それが赤ん坊に届くよりも私が組み付く方が速かった。
ファラがバランスを崩し転倒する。
あの鉢植えさえあれば!
こんなことなら荷物を置いてくるんじゃなかった。
ナイフも赤ん坊も抱えたままだ。赤ん坊が火が付いたように泣き始めた。
ファラがものすごい形相でこちらを睨みつけながら、私を振りほどこうともがく。
「誰か! 誰か参れ!」
お義姉様が叫び声をあげながら参戦し、赤ん坊を取り戻そうと必死で手を伸ばす。
私はファラのナイフを握った手を必死で抑え込む。
程なくして、勢いよくドアが開き衛士達が雪崩込んできた。
赤ん坊を取り戻したお義姉様が後ろに這いずりながら距離をとる。
衛士達がファラを取り押さえ、ナイフを取り上げたのを確認してから私も後ろに下がった。
お義姉様は泣きじゃくる赤ん坊を抱え、荒い息を吐きながら茫然とファラが拘束される様を見つめている。
お義姉様にしてみればあまりにも突然のことだったのだろう。
私にとって、ファラの裏切りは想定していたことだった。
少し考えてみればわかることだ。
もし、奥方衆の息がかかった侍女たちにあの小包の中身が知られていたら、城内に秘密が漏れないはずがない。
ところが実際には、ミレアですら私が髪を切ったことを知らなかった。
お義姉様の周囲で、お義姉様の秘密を守ることができる人間なんてファラ以外にはいない。
つまりホルニアにその情報を伝え得うる人物も一人しかいないことになる。
もっともこんな思い切った行動に出るとは思わなかったけれど。
衛士たちに縄をかけられ連行されていくファラの背に向けて、お義姉様が呟いた。
「なぜ……」
ファラが足を止めて振り返った。
衛士が縄を強く引こうとしたが、私はそれを目で制した。
「なぜじゃ、ファラ。
そなただけは、どこまででもわらわについてきてくれると信じておったのに……」
「もちろんついていくつもりでしたとも。ナハマン様。
貴女が地獄に落ちるのを見届けるその日までね」
「何故じゃ……!
あの暗闇の牢においてすら仕えてくれた其方が、なぜ今頃になって――」
「なぜですって?
その愚かさで、我が一族を諸共に滅ぼしておきながら、よくも抜け抜けと。
貴女に仕え続けたのも、貴女が苦しむのを間近で見るために過ぎません。
ですが、それも今日までのようですね。
せめて、最後に貴女の一番大事なものを奪えればよかったのですが……
フフ……いいお顔ですこと」
ファラの告白はよほど衝撃的だったのだろう。
お義姉様はがっくりと項垂れると、赤ん坊を抱きしめたままシクシクと泣き出してしまった。
ファラはその様子を見て満足げな笑みを浮かべると、自身の縄を引く衛士を促し、部屋を出ていった。
「お、お義姉様……」
私は泣き続けるお義姉様を慰めようと一歩踏み出した。
ところがお義姉様は気配を察してか、ヒィと悲鳴を上げたかと思うと、赤ん坊を抱え込むようにして私に背を向けてしまった。
部屋に残っていた衛士達もどうしていいか分からない様子だ。
私はお義姉様の傍にかがみこんで、その背を撫でながら声をかけた。
「お義姉様、もう大丈夫です」
もちろん、そんな言葉でお義姉様の傷がいえるはずもなく。
赤ん坊も、お義姉様も泣き止むことはなかった。
お義姉様の鏡の首飾りが、赤ん坊の産着の上できらりと光る。
そこに映った私の顔は、どうしようもなく途方に暮れていた。
その時、何かの液体が一粒、ポタリと鏡の上にたれた。
私の血だ。
どうも、ファラともみ合っていた時に腕に傷を負っていたらしい。
私は立ち上がると、パックリと裂け目のできた袖をまくって傷を確認した。
大した傷ではなさそうだ。
「誰か布を貰えないかしら?」
衛士の一人が、短剣で自身のマントを引き裂くと、私の傷口を縛ってくれた。
傷の処置が終わって振り返ると、もうお義姉様は泣き止んでいた。
私の傷への視線を感じる。
お義姉様は口元に泣いているとも笑っているともつかない表情を浮かべながら言った。
「どうやらわらわはずっと、信じるべき者を疑い、疑うべき者を信じていたようじゃのう……」
その声は、私にはとても寂しげに聞こえた。
今のお義姉様からはいつものあの尊大な気配が消え失せ、ひどく弱々しくなってしまっている。
できることならば、このままそっとしておいてあげたい。
だけど今は一刻を争う状況だ。
私は鏡に垂れた血を拭いながら声をかけた。
「ねえお義姉様。私の友人と会って頂きたいのだけれど」
「少しの間でよい、放っておいてはくれぬか……」
「そうはいかないわ。
お城に危機が迫っているの」
「……危機じゃと?」
お義姉様の気配が変わった。
「ええ、そうよ。
この城に地龍が迫っているの。
とても大きくて強い怪物よ。
お願い、お義姉様。私達に力を貸して」
「詳しゅう話せ」
お義姉様の声を聴いて私は嬉しくなった。
少しだけれど、その声に力が戻ってきている。
そうでなくちゃ。
それでこそ私のお義姉様だ。
*
義妹が連れてきた小男は、〈山の下の王〉の庶子イェラナイフと名乗った。
小さな体躯に見合わぬ、堂々とした態度であった。
はるか西方には、彼のような小男ばかりが住む地下の王国があるという。
しかし、その地下の王国は地龍なる怪物の襲撃を受け、大いなる損害を被った。
そこで彼は王と同胞たちの仇を討つため、仲間と共に地龍を追ってこの地までやってきた。
というのが小男の主張だった。
「そしてその地龍が、現在この〈浮遊城〉に向かってきているのです。
より正確には、この城の真下にある古代の地下遺跡に向けてです。
そこにある霊気結晶が破壊されれば、この城の建つ岩塊は落下し、地上に大きな被害をもたらすでしょう。
どうか我らの地龍討伐に力を貸していただきたい。
これは双方にとって利のある事でございます」
俄かには信じがたい話である。
しかし、ナハマンはこの小男に見覚えがあった。
確か、森で義妹がホルニアの王子を倒した際に共に鏡に映っていたはずだ。
この小男らがいなければ、おそらく義妹はホルニアの王子に敗北していただろう。
王国にとり、またナハマン自身にとっても恩のある男である。
何より、その傍らには義妹が共に跪いている。
しばしの黙考の後、ナハマンはこの男を信じることにした。
「よかろう。我が城に危機が迫っているというならば是非もなし。
助力は惜しまぬ。何なりと申し出るがよい」
「ありがたき幸せ。
つきましては城内を捜索することをお許し願いたい」
ナハマンは首を傾げた。
「構わぬが、何のためであるか」
「我らが国に伝わる伝承の通りであれば、
この城のどこかに地下遺跡への入り口があるはずなのです」
ナハマンの疑問はますます膨らんだ。
この城は宙に浮いているのだ。
いったいどうすればここから地下につながる道が見つかるというのだろうか?
*
ナハマンは客人に率いられ、義妹と共に城の地下へと向かっていた。
城中に他へ通じる抜け道があるのなら把握しておかねばならぬ、という名目だった。
彼女は王の不在時にはその代行者としてこの城を守る責務がある。
しかしそれだけなら、わざわざ自身が赤ん坊を抱きしめて出向く必要はない。
オッターか、あるいは彼が信用する衛士にあたりに任せておけばいい話である。
それでもこうしてナハマン自身が出向いて来たのは、一人でいる寂しさに耐えられなかったからだ。
なにより、うじうじと考え事をしているよりはこうして体を動かしていた方が気も紛れる。
客人の国に伝わる伝承によれば、地下遺跡の入り口はこの浮遊島の中心に存在していたのだという。
この城を建てるにあたって、地下の遺構はそのまま利用されている可能性が高い、というのが彼の考えであるらしい。
「それにしても、まさか本当に役に立つ日が来るとは思わなかったな」
城の基部へ続く階段を下りながら、客人がつぶやいた。
その右手には何やら円盤状の不思議な道具を持ち、左手にはツルハシを担いでいる。
「何の話?」
義妹が客人に尋ねた。
その様子はずいぶんと気安く見えた。
さほど長い付き合いではないはずだが、信頼を培うのに十分な出来事が彼らの間にあったようだ。
「子供の頃の話さ。
庶子とはいえ、一応王族だからな。
山に下の民の歴史について散々叩き込まれたんだ。
それこそ〈大移動〉以前についても、残されている限りにな。
ところがその知識ときたら、つぎはぎだらけどころか、ほとんど襤褸切れのさらに切れ端みたいな有様だ。
もう戻ることもない、遥かな、しかも実在すら怪しい土地の断片的な知識なんて詰め込んでなんになるのかと子供心に思ったものさ。
ところがいざ大人になってみると、その怪しげな情報以外に頼れるものがないときた。
本当に、何が幸いするか分からないものだな」
客人の口ぶりは愚痴めいていたが、その表情はどこか懐かしげだった。
おそらく、彼にとっては悪くない思い出なのだろうとナハマンは彼らの話を聞きながらぼんやりと思った。
円盤状の道具を覗き込みながら歩いていた客人が、ある扉の前で足を止めた。
「入っても構いませんね?」
客人が振り返り、ナハマンに確認をとる。
そこは地下牢だった。
「あ、ああ、構わぬが……」
ナハマンの歯切れの悪い許しを得て、客人が扉を開く。
牢番の詰め所で何やら書き物をしていた衛士が、ナハマンらの顔を見るなり立ち上がって最敬礼をした。
「楽にしていてよい。
牢の奥が見たい。構わぬな」
「は、はっ!
しかし……」
衛士の目には、同情と警戒が入り混じった複雑な色が浮かんでいた。
どうやら彼はナハマンがここに来た理由について何か誤解をしているようであった。
万が一にもナハマンが囚人に危害を加えようものなら、この牢番はオッターからきついお叱りを受けることになる。
彼には拒否することができないにもかかわらずだ。
それでもここを開けてもらわないことには始まらない。
彼女が改めて促すと、衛士は躊躇いながらも詰め所の奥にある鉄格子を開けた。
円盤を手にした客人を先頭に奥へ進む。
鉄格子の先には薄暗い廊下が続いており、その両側には独房の扉が並んでいた。
客人は迷うことなく一番奥の扉の前に立った。
「こちらを開けていただけますか?」
ツルハシを担いだ見知らぬ小男にそう言われ、衛士がナハマンの顔色を窺う。
「……構わぬ。開けよ」
衛士が扉にカギを差し込んでガチャリと回す。
案の定、中にはあまり見たくなかった顔があった。
ファラはナハマンの顔を見るなり、自虐的な笑みを浮かべた。
「これはこれは。
わざわざかような薄暗いところまでお越しいただき光栄至極にございます。
私に何か御用でしょうか?」
ナハマンは口をへの字に曲げた。
あんなに劇的な別れをしたばかりだというのに、こんな形で顔を合わせる羽目になるとは思ってもみなかった。
「そなたに用はない。
おい、この者を隣の牢へ移せ」
ファラの目が見開かれた。
彼女はなにか泣き言でも聞けると期待していたのだろう。
驚きの表情を浮かべたまま、訳も分からず衛士に連れ出されていく。
その様子を鏡越しに確認したナハマンは少しだけ留飲を下げた。
「……客人、本当にここなのであろうな?
何もないではないか」
ナハマンはファラのいた独房を見回しながら言った。
「間違いありません、陛下。
方位盤は間違いなくこの壁の向こうをさしております」
客人はそう言いながら担いでいたツルハシの先で壁をコツコツと叩き始める。
やがて何かを見つけたらしく、壁を叩くのをやめてツルハシを振り上げた。
「この奥です。しばしお待ちを」
言うが早いか、客人は勢いよくツルハシを振り降ろし壁を破壊し始めた。
分厚い壁石が瞬く間に叩き割られていく。
程なくして、崩れた壁から青銅製の扉のようなものが姿を現した。
表面には、悪趣味にもグニャリと歪んだ人間の顔の装飾が施されている。
客人が扉をぐいと引くとそれは音もなく開いた。
扉の向こうには闇が広がっていた
客人は円盤を足元に置くと、代わって腰につるしていた筒状の道具を手に取り捻った。
すると、空いた隙間から青白い光が漏れ出てきた。
どうやら、それは魔法のランタンであるらしい。
彼は青白い光を放つそれで闇の奥を照らそうとしたが、黒い靄のようなものに阻まれて奥を照らし出すことは叶わなかった。
客人はしばらくの間その靄を見ながら思案していたが、やがて意を決したようにランタンを持った手を靄の中に突っ込んだ。
輝くランタンはすっと靄に飲み込まれたが、靄の中からは一筋の光すら漏れ出てくることはなかった。
客人が手を引くと、その手とランタンが何事もなかったのかのように姿を現す。
「フム、本当に伝承の通りだな」
客人はそう言うと、物入から一巻のロープを取り出し、自身の腰に結び付けた。
それから反対の端を義妹に持たせて言った。
「まずは一人で入ってみる。
こいつが壊れていなければ、古代遺跡に出られるはずだ。
マズイと思ったら、このロープを二度引く。
そしたら俺を引っ張り出してくれ」
「任せて」
客人は義妹と頷きを交わすと、躊躇うことなく靄の中に足を踏み入れた。
義妹が手にしていたロープがするすると伸びていき、やがて止まった。
「……どうなっておるのじゃ?」
義妹にそう尋ねたものの、彼女も困惑するばかりである。
「分からないわ」
ロープが弛んだ。
直後、靄の中から客人がぬっと姿を現した。
「大丈夫!?」
「ああ、問題ない。何度か呼びかけたんだが、聞こえなかったか?」
ナハマンは義妹と顔を見合わせた。
義妹が客人に答える。
「何も聞こえなかったわ」
「ふむ、音は伝わらないのか。
まあいい。転移装置は問題なく稼働しているようだ。
お前も見に来るか?」
「もちろん!」
「陛下はいかがいたしますか?」
「無論、わらわもいく」
ここまで来たのだから見届けぬわけにはいかなかった。
ところがいざ動こうとしたところで、自身の足がすくんでしまっていることに気づいた。
ナハマンにとり、闇は絶望と恐怖を強く想起させる存在だった。
ファラの事がナハマンの脳裏をよぎった。
あれが共にいれば闇といえど恐ろしくはなかった。
だが彼女はもういない。
「どうしたの?」
義妹が振り返り、不思議そうに首を傾げた。
ナハマンは声が震えぬよう、慎重に答えた。
「なんでもない。
少し……戸惑うてしもうただけじゃ」
「じゃあ、お義姉様。
一緒に行きましょう」
差し出された義妹の手を取ると、少しだけ恐怖が遠のいた。
義妹と共に、靄の中に足を踏み入れる。
靄の先も暗闇だった。
その闇の中に、客人が青白い光を放つランタンを手に立っている。
「真っ暗じゃない。どうなってるの?
前はもっと明るかったけれど」
義妹が客人に向けて文句を言った。
どうやら彼女はどこか似たような場所を訪れたことがあるらしかった。
「あそこは霊気結晶がむき出しだったからな。
普通は光が漏れないよう、反射板で覆われているんだ。
その方が効率的に利用できる。
俺たちの故郷もそうだった」
「じゃあ、あなたたちはこんな真っ暗闇の中で暮らしているの?」
「まさか。普通はこれと」
そう言って客人はランタンを掲げて見せた
「同じような街灯がそこら中に配置されているんだ。
どうやらご先祖はここを出る前に灯りを全て消していったらしい」
「へえ」
義妹はそう応えながら、どこからか同じようなランタンを取り出し、灯りをつけた。
青白い光に照らされて義妹の白い装束が闇の中にはっきりと浮かび上がる。
「それでどうするの?
こんなに暗くちゃ戦えないわ」
「安心しろ。霊気結晶の近くに制御室があるはずだ。
まずはそこにいこう」
「道は分かるの?」
「霊気結晶のある都市の構造はどこもそう変わらん。
せいぜい大きさが違う程度だ」
客人の明りに先導されながら、緩やかな坂道をまっすぐに下る。
程なくして、何か大きな建物の前で客人が立ち止まった。
「ここだ」
客人はそう言って扉を開け、中にその身を滑り込ませる。
義妹が続けて中に入ろうとしたが客人に押し返されてしまった。
「なによ」
義妹が不満そうに口をとがらせると、客人はニヤリと笑う。
「そこで待っていろ。
いいものを見せてやる」
そう言い残すと彼は扉をぴたりと閉めてしまった。
「なんなのよもう」
取り残された義妹はふくれっ面をしている。
ナハマンは鏡の首飾りを手に、あたりを見回した。
周囲は濃い闇に覆われており、魔法のランタンですらせいぜい十歩先を照らすのが精いっぱいだった。
これから何が起きるのかと不安になりかけたその時、目の前でぽっと明かりがともった。
義妹が手にしているのと同じ、月明かりに似た青白い光だ。
続けて一つ、また一つ。
魔法の光が同心円状に広がり、古代の遺跡を照らし出していく。
その様はまるで、死した都が息を吹き返していくかのようだった。
「なんと……なんと美しい……」
ナハマンは絶句した。
今や闇は打ち払われ、目の前には堂々たる都市が広がっている。
これほどの感動を覚えたのは、かつて地下牢から連れ出された時以来だった。
*
お義姉様を地上に送り届けた後、私達はさっそく地龍迎撃の準備を開始した。
といっても今の時点でできることはたいして多くない。
せいぜい、落とし穴の予定地点の建物を壊して整地しておく程度。
それだって前のように簡単にはいかない。
使える魔力の絶対量が足りないせいだ。
なにしろ以前の遺跡では巨大な霊気結晶がむき出しになっていて、遺跡全体に無尽蔵の魔力を放出し続けていた。
ところがここでは霊気結晶は反射板――魔力を通さない金属製の板であるらしい――で覆われてしまっている。
地上よりは多少魔力も濃厚で暮らす分には快適だけれど、さすがにいくらでも魔法が使えるとまではいかない。
「まずは霊気を供給できるようにしないとな」
イェラナイフはそう言って、霊気結晶が据えられた円錐型の台座の階段を登り始めた。
殆ど塔と言っても差し支えないその台座に上ると、遺跡全体が見渡せた。
お皿を二枚張り合わせたような円盤状の空間に廃墟がひしめいていて、遺跡の中心から放射状に太い道が何本か伸びている。
なるほどイェラナイフが言っていた通りだ。
基本的な構造は前の遺跡とほとんど変わらない。
違いといえば、青白いランタンが点々と灯って全体が淡く照らし出されている点と、あとは規模ぐらいだろうか?
この遺跡は前と比べると、直径にして半分ほどしかない。
イェラナイフが霊結晶を覆う構造物の根元に屈みこんで何やら調べ始めた。
「前のに比べると、ずいぶん小さいわね」
私が都市を見下ろしながらそう言うと、彼は振り返りもせずに答えた。
「これでもでかい方だ。
俺たちの王国が掌握している霊気結晶は全部で七基あるが、ここよりも大きいのは二つしかない。
一番大きいのは〈はがね山〉だが、それだってここより二回り大きい程度だからな。
あの遺跡が異常すぎたんだ」
「ふ~ん」
「だがまあ、ここだって中々のものだろう。
地上人の都市で、これだけの夜景が拝めるところはそうはないはずだぞ」
それはまったく彼の言う通りだった。
確かに都市の規模だけで言えばマノアの城下町の方が大きい。
それでも夜間にこれだけの照明が灯ることはまずなかった。
燃料の油代や薪代がもったいないからだ。
そして他の都市でも事情は同じはずだ。
「確かにすごいわね。
とくに、最初の光が広がっていくところなんてすごく素敵だった」
「そうだろうとも」
「だけど、私はお城から見下ろす城下町の夜景のほうが好きだわ。
ここの灯りは少し寂しいもの。
街の灯りは数が少なくても、沢山の人が暮らしてる気配が感じられるから」
「なるほどな。お前さんらしい」
私は振り返って塔の上に鎮座する長球形の構造物を見上げた。
その根元では、イェラナイフが湾曲した板を組み合わせたうちの一枚にツルハシを差し込んでウンウンと唸っている。
どうやら、板を無理やりはがしてその隙間から魔力を得ようということらしい。
しかし、反射板とやらはずいぶん強固に固定されているらしく、ミシミシと音を立てるばかりで頑として剥がれようとはない。
「手伝うわ」
私はそう声をかけてツルハシに手を添えようとした途端、バキンッという音とともに反射板が一枚はじけ飛んだ。
同時にイェラナイフが派手に尻もちをつく。
「だ、大丈夫?」
「イタタ……ああ……なんとかな。
それよりもどうだ。光の方は」
彼の指さす方に目をやると、人一人が立って歩けるぐらいの隙間から青白い光が煌煌と漏れ出している。
「試してみるわね」
私は隙間の前に立つと、ゆっくりと門を『ひらい』た。
「……前の遺跡lに比べるとずいぶん物足りないわね」
「やはりか……」
「ねえ、中を覗いてもいいかしら?」
「構わんが気をつけろ。
特に結晶の真下にある水晶の周りはな。
そこに光が集中するように反射板が配置されているんだ。
近づけば急激に霊気の密度が上がるはずだ」
「分かったわ」
イェラナイフの忠告に従い、『ひらき』加減を慎重に調整しながら中に足を踏み入れる。
彼の言う通り、真ん中に近づくほど魔力の密度が濃くなっていく。
これなら何とかなりそうだけど――そう思いかけたところで、魔力の動きに違和感を覚えた。
言葉にはし辛いけれど、なんだか外側からの圧力で自分の中の魔力がかき乱されているような感じだ。
魔力の流れを正常に認識、あるいはコントロールすることができない。
「おい、大丈夫か?」
どうにか魔力の感覚を取り戻そうと四苦八苦していると、イェラナイフが心配そうに隙間からのぞき込んできた。
「大丈夫。だけど、この中にいたら魔法が使えないかも」
「ふむ。異常を感じたならとりあえず出てこい。
こっちが気が気じゃない」
イェラナイフに促されて私は外にでた。
途端にいつも通りの感覚が戻ってくる。
今のは一体何だったのかしら?
「魔法が使えないと言っていたが、どういうことだ?」
「私にもよくわからないの。
なんだか、魔法の力が四方八方からかき混ぜられるみたいな感じがして……」
「ふむ。その辺りの感覚的なところは俺にはよくわからん。
ケィルフならわかるかもしれないが……」
イェラナイフはウウムと唸った。
彼の言う通り、ケィルフならこの感覚を理解してくれるだろう。
だけど、ケィルフだってこれをうまく言葉にできるとは思えない。
「ひとまず、そこから出れば魔法は使えるんだな?」
「えぇ。でも魔力の方は少し心もとないわね」
イェラナイフの眉間に皴が寄った。
「……何とかなりそうか?」
「単純に抑え込むだけなら、多分大丈夫。
でも……光の触手が出てくれば分からないわね。
あれに対抗するのにはとんでもなく魔力を食うから……」
あの触手でツタに傷をつけられると、まるで霊鋼に切られたかのように魔法が失われてしまうのだ。
それに対抗するには、さらに魔力を注ぎ込んで修復する必要があり、最後には魔力のぶつけ合いとでもいうべき消耗戦に陥る。
「……断言はできないが問題ないだろう。
あの遺跡の戦いでは、奴もお前同様ほとんど無尽蔵の霊気を受け取ることができた。
だが、ここでは霊気を補充できるのはこちら側だけだ。
時間はお前に味方する。
奴が体内にため込んでいる霊気を消耗しきるまで抑え込めれば、お前の勝ちだ」
なるほど。理屈はわかる。
問題は――
「それで、あいつはどれぐらいの力を蓄えておけるの?」
何しろあの図体だ。
私の体よりもずっと沢山の魔力を溜めておけるんじゃなないかしら。
イェラナイフは頭を横に振った。
「わからん」
「でしょうね」
結局のところ、なるようにしかならないのだ。
*
数日たって、ディケルフ達が到着した。
お義姉様が集めてくれた人足と一緒に大急ぎで落とし穴の掘削を開始する。
人手が増えたからと言って前よりも作業が楽になるわけじゃない。
何しろ、私もケィルフも使える魔力が前に比べれば大きく減っている。
人手が増えた分でちょうど差し引きゼロといったところだ。
大まかな作戦は前回とほとんど変わらない。
落とし穴に落とし、ツタで拘束。
しかる後に眼を潰す。
違いといえば、最後の攻撃に私もツタと霊鋼の杭で参加する事ぐらい。
言葉にすればたったの一文。だけど大きな違いだ。
魔力は減ったのに、私の役割は増えている。
それでも他に妙案が浮かばない以上はどうしようもない。
時間が戦いの準備に淡々と費やされていく。
イェルフは今も心が死んだままだ。
日に何度か、その口に少しずつ水分を含ませることでかろうじて生き永らえている。
イェラナイフは、そんな彼の居場所を霊気結晶の台座の上に定めた。
そこからなら戦いのすべてを見守ることができるだろうから。
作業は概ね順調に進んでいたが、一つだけ気がかりなことがあった。
私の杭を作るために森の遺跡に残っていたドケナフ達が中々姿を現さないのだ。
不安になった私はイェラナイフに聞いてみた。
「ねえ、様子を見に行かなくて大丈夫かしら?」
「何がだ?」
「ドケナフ達よ。
もしかして、ここに来る途中に何か問題でも起きたんじゃ……」
森とお城との間には危険が一杯だ。
盗賊や獣、それから私は見た事がないけれど妖怪やお化け、そんな連中に襲われていないとも限らない。
「ドケナフもイェンコも立派な一人前の男達だ。
戦士として十分な心得がある。
城から差し向けられた護衛もいる。
盗賊や獣など何の脅威にもなるまい」
「だ、だけど、他にもこう……落盤とか、色々……」
なにしろ地龍のおかげであのあたりの岩盤はめちゃくちゃになっているはずだ、
何かが突然崩れて彼らが下敷きになってしまったとしても不思議はない。
イェラナイフは落ち着き払った様子で諭すように答える。
「懸念はもっともだが、だからと言って様子を見に行ったところでどうなるわけでもあるまい。
とすれば無駄と分かっている事に貴重な人手を割くことはできん。
俺達にできることは、彼らが無事だと信じる事だけだ」
彼の言うことは一々もっともで、返す言葉がなかった。
だからと言ってそれで私の不安が軽くなるわけでもない。
「……まったく、二人とも何をしているのかしら?」
私が苛立ち紛れに呟くと、イェラナイフは眉間をもみながらため息をついた。
「大方、興が乗っちまってるんだろう。
目的を忘れて自分の興味や理想を追求しちまうんだ。
ドケナフ――というか、あいつに限らずうちの職人連中にはそういうところがある」
「ああ……」
彼らとの付き合いの短い私にも心当たりがあった。
イェンコは味見をしだすと完璧に仕上がるまで止まらないし、ディケルフは罠の威力を追求するあまり獲物を木っ端みじんに粉砕してしまっていた。
「普段ならそれでも構わんが、こういう時には実に厄介だ。
どうにか期限前に正気を取り戻してくれればいいんだが」
私たちはもう一度、二人揃ってため息をついた。
*
結局、彼らが到着したのは地龍が地底遺跡を揺らし始めてからだった。
ギリギリもいいところだ。正直、私は諦めかけていたのだ。
「よお! どうやら間に合ったようだな!」
上機嫌でそう叫ぶドケナフに私は感情に任せて怒鳴り返した。
「遅いじゃない! 一体何をしていたの!」
「わしは散々とめたんじゃがのう」
と、しょげきったイェンコが申し訳なさそうに言う。
ところがドケナフは一向に悪びれた様子を見せない。
「悪い悪い。
どうしても作りたい物ができちまってな」
「そんなの戦いが終わってからにすればいいでしょ!」
「まあそう言うなって。
それだけの仕事はしてきたつもりだ」
そう言って、彼は肩に担いでいた杭を三本、抱えるように差し出してきた。
差し出されはしたものの、重すぎて私には持てそうにない。
そもそも三本では数が足りない。
私は杭を四本作ってくれと頼んだはずだ。
私は彼が背負っている、もう一本の長い包みに目をやった。
「で、その長いのは何?」
「槍だ」
答える彼の声はそれまでと違って真剣だった。
「イェルフはどこにいる?
案内してくれ」
「……こっちよ。時間がないから、急いでね」
地龍が遺跡を揺らす中、転ばぬよう慎重に台座の階段を上る。
イェルフは台座の上、戦場全体を見下ろすことができる位置に、上半身を立てかけるようにして座らされていた。
ドケナフは彼の前に片膝をつくと、背にしていた槍を下ろし、イェルフに向けて捧げ持った。
「我が戦友にして、我らが英雄よ。
汝に我が槍を捧げん。
どうか、我らの戦いを見守りたまえ」
そう言って、彼は槍を保護していた包みを取り払った。
見事な出来栄えの槍だった。
柄から穂先に至るまで、全てが一つながりの霊鋼でできている。
あのナイフと同じように一切の装飾が省かれ、ただ一つの目的のために研ぎ澄まされていた。
否。
よく見ると穂先の根元に小さな刻印が施されている。
「ねえ、その印は何?」
「これは、イェルフの魂の印だ。
俺たちは生まれた時、名前と一緒に印を一つ賜るんだ。
遥かな祖先から現在そして未来に至るまで一つとして同じ印はない。
墓には名前ではなく、この印だけが刻まれる」
イェルフの視線は、相変わらず虚空に注がれていて、この見事な槍を前にしても何の反応も示していない。
ドケナフはこちらに視線を向けて、少しだけ寂し気に笑った。
「なあ、嬢ちゃん。俺は思ったんだ。
嬢ちゃんがこの槍で戦えば、あいつも一緒に戦った事になるんじゃないかってな」
悪くないアイディアだった。
「……しょうがないわね。使ってあげる」
私は杭のために用意していたツタを手元まで伸ばすと槍を受取った。
全金属製の槍からは魔法を経由してもなお、ズシリとした重さが伝わってきた。
ズドン、と背後でひときわ大きな振動が起きた。
私達のやり取りを見守っていたイェラナイフが口を開く。
「そろそろ来るぞ。
さあ配置に着け!」
*
遺跡の外壁にひびが入り、やがてバリバリと破壊音をたてながら崩壊する。
そして崩れ落ちる土埃の中から、巨大な地龍、肥大したミミズのような怪物が姿を現した。
ここまでは前回と同じだ。
私はその様子を霊気結晶が据えられた台座の上から見下ろしていた。
眼下には青白い光が点々と灯った古代都市が広がっている。
地龍の出現地点から霊気結晶にかけての直線上はすっかり整地されていて、そのために街灯もすっかり撤去されてしまっていた。
灯りが抜け落ちて真っ暗になったその空間は、まるで黒い絨毯でも敷いてあるみたいだ。
私は気合いを入れなおすと、背筋を伸ばして堂々と立ちあがった。
気圧されぬようあえて怪物を睨みつけ、待ち受ける。
地龍が絨毯の上を進みかけ、躊躇うように止まった。
遠慮なんてしなくていいのよ?
その絨毯は貴女のために敷いたんだから。
絨毯の両脇で、街灯の青白い光に混ざって松明の赤い光が次々と灯っていく。
こんなこともあろうかと伏せさせておいたお城の衛士達だ。
彼らは松明を振り回しながら一斉に鬨の声を上げた。
男達の蛮声が前の遺跡と比べて幾分か低い天井に反響し、遺跡中に響き渡る。
その様子に威圧されたのかどうかはわからないけれど、地龍がこちらに向けてゆっくりと進み始めた。
この遺跡は前よりもずっと狭い。
落とし穴まではあっという間だろう。
私はツタに魔力を込めながらその時に備える。
地龍がミミズのような体躯を伸び縮みさせながら、全身を引きずるようにして這いよってくる。
転々と灯る赤青の明かりの中、闇の絨毯の上を進むその威容は、生理的嫌悪感すらもたらす奇怪な外見にもかかわらずどこか神々しく、そして痛々しかった。
大人しく地の底で眠っていれば誰にも手出しなんてされなかったろうに。
それでも進むことをやめないその様は、まるで昔話に出てくる呪われた靴を履いた旅人のようだ。
地龍が落とし穴の上にのしかかった。
隣でケィルフが冷や汗を垂らし始める。
今回も落とし穴の天井は彼が支えているのだ。
けれど、以前に戦った時と比べれば圧倒的に魔力が不足している。
その分石の積み方に工夫を加えているという話だけれども、さて持ちこたえられるかどうか。
闇の絨毯の上に、ポツンとおかれた青白い灯りがある。
地龍がそこまで進んだら落とし穴を崩せという目印だ。
「もう少しよ、ケィルフ。頑張って」
うめき声をあげるケィルフの肩にそっと手を置き、励ます。
反応がない。返事をする余裕もないらしい。
ただ眼を見開いて、歯を食いしばりながら、じっと地龍の進みを見つめている。
落とし穴が崩れれば次は私の番だ。
その時には私も、彼のように足りない魔力で必死に抗わねばならない。
怪物の六つの目がまっすぐにこちらを見据えている。
私を見ているわけではない。
視線の先にあるのは霊気結晶だ。
それでもその視線に全身が恐怖ですくむ。
今ですらこれだ。七つめの眼が開いたとき、私はそれに耐えられるだろうか?
私は胸に下げた鏡の首飾りの、金でできた鎖をぎゅっと握りしめた。
戦いの直前にお義姉様が私に贈ってくれたものだった。
大丈夫。今の私にはお義姉様がついている。
お義姉様が、文字通りに私を見守っていてくれるのだから、きっと戦える。
*
無人の城に一人、玉座に腰かけたナハマンは、鏡を通じて脳裏に映し出されたその光景に打ち震えた。
鏡越しであってもなお、その怪物は圧倒的な存在感を放っていた。
義妹はその真正面に立ち塞がっている。
果たして自分にこれと同じことができるだろうか?
ナハマンは己を顧みた。
おそらく無理だろう。戦う力の有無は問題ではない。
人間個人の力など、あの神のごとき気配を放つ存在の前にはちり芥に等しい。
いったい何が義妹にあそこまでの勇気を与えているというのか。
かわいい坊やは義妹の侍女に預けて地上に降ろした。
他の者も万一の場合に備え浮遊島から退去させてある。
城の者達はナハマンも避難するべきだと主張したが、彼女はそれを退けて一人ここに留まっていた。
彼女に、この城を出るという選択肢はない。
夫にこの城を守ると誓っていた。
そしてそのために今、夫のたった一人血を分けた義妹が命がけの戦いを始めようとしている。
そのような時に、どうして一人おめおめとこの城を離れられようか。
どの道、ここを失えば彼女に生きていける場所はないのだ。
義妹が敗北し、命を落とすというのなら。
その時は自分も一緒だ。
ナハマンは全てを義妹に賭けていた。
突如、地龍が地面に半ばまで沈んだ。
視界が大きく揺れたが、ナハマンが座す玉座はみじんも揺れず、耳を打ち据えるはずの衝撃も響いてこない。
玉座の間は至って平穏で、物音ひとつない。
義妹に預けた鏡の首飾りは普段自身の目の代わりとして使っていた品であったから、そこから伝わる光景と、自身の居場所とのギャップがことさら奇妙に感じられた。
半ば地面に沈み込んだ地龍の両脇から、ツタの根がまるで投網のように広がり、まとわりつき、一瞬のうちに地龍を締め上げた。
怪物が拘束を解こうとのたうつ。
ツタの根がメキメキと太くなり、その抵抗を抑え込む。
至極単純な力比べが繰り広げられる。
ナハマンの見るところ、劣勢を強いられているのは義妹であった。
地龍がどこかしらを持ち上げようとするたびにブチブチとツタがちぎれていく。
かろうじて穴の中に押しとどめてはいるものの、抑え込んでいるとまでは言い難い。
このままでは狙撃は困難だろう。
なによりもちぎれたツタの修復が追い付いていない。いずれ押し切られるのは明白だ。
鏡を通じて、義妹の焦りが伝わってくるような気すらする。
(なんぞ手立てはないものか……)
彼女は義妹を手助けする手段はないかと思考を巡らせる。
しかし、悲しいかな。ナハマンは非力な〈鏡の魔女〉である。
できることといえば、鏡に映るものを別の鏡に映し出す程度。
義妹のように戦うための力は彼女には備わっていなかった。
情報を集め、秘密を暴くことには長けていても、それは今この場においては何の役にも立たない。
義妹がちらりと振り返り、その背後にそびえる霊気結晶の格納容器が鏡に映った。
一枚だけ引き剝がされた反射板の隙間から青白い光が煌々と漏れ出ている。
それは一瞬のことに過ぎなかったが、ナハマンはその光から確かに力を受けとった。
義妹はこの霊気結晶の光から魔力を補充できると言っていた。
そしてどうやら、その光からは鏡を通しても力を得られるらしい。
その時、ナハマンに天啓が走った。
自分は鏡に映るものを別の鏡に映すことができる。
そして、複数の鏡に映る景色を一つの鏡に同時に映し出すこともできる。
普段であればそんなことをしたところで何の役にも立たない。
景色を重ねたところで、どちらの景色も見づらくなるだけだからだ。
だが、この光を重ねればどうなるのか?
あの格納容器の、反射板と呼ばれる内張りは鏡のようなものだ。
重ねること自体は可能なはずだ。
もちろん、簡単なことではない。
一枚二枚ならまだしも、何十枚もの鏡を重ね合わせるには相応の集中と魔力を必要とする。
それでも、やってみるだけの価値はあるはずだ。
ナハマンは一度義妹の鏡との接続を解いた。
脳裏に映っていた光景はかき消えて、彼女の視界は闇に閉ざされた。
その闇の中で、ナハマンは今一度精神を統一し、集中力を高め始めた。
*
足りない魔力をどうにかやりくりしつつ、かろうじて地龍を穴の中に押しとどめ続けている。
魔法を通じてツタに伝わる感触から、地龍の動きに合わせて強化の必要なところと、最低限でいい場所を見極め、素早く配分し続けるのだ。
それにしたところで私の反応速度には限界がある。
強化が、魔力の移動が間に合わなかった箇所が、少しずつちぎれていく。
地龍はビタンビタンと穴の中をのたうち回っており、当然ながら仲間たちも大弩の照準どころの騒ぎじゃない。
ツタの修復も全てには行きわたっておらず、どうしてもまずいところだけに集中的に魔力を回している。
だけど修復を後回しにしたところが増えるにつれ全体の強度は当然のごとく下がっていく。
このままではじり貧だ。
その上、敵は未だ光の触手を出してきてすらいない。
出すまでもないと思われているのか、それとも出せないのかは知らない。
出せないのならいい。
だが、そうでないなら――
そんなことを考えていたところで地龍の全身から無数の光がゆらりと伸びあがった。
万事休す。
「ケィルフ!」
霊気結晶が食われたら終わりだ。
転移装置が動かなくなればここから出る手段がなくなる。
今ならまだ間に合うはずだ。
万が一私が抑えきれなかった場合に備えて、落とし穴はかなり外縁部寄りに設置してある。
「イェラナイフに伝えて。
私がこいつを抑えている間に――」
皆と一緒に脱出しなさい、と言いかけて気づく。
魔力の流量が上がっている。
私はその出所を知ろうと振り返った。
反射板が一枚だけ、異常な明るさで光っている。
お義姉様だ!
どうやっているのかは知らないけれど、間違いない。
私のお義姉様が何かとんでもないことを思いついたのだ!
「リリー、なに!?
てつだえる!?」
ケィルフが緊迫した様子で聞き返してきた。
「いいえ、何でもないわ」
私は彼の緊張を解くために不敵に笑って見せた。
光の触手が怪しく靡くような動きを見せたかと思うと、次の瞬間、一斉にツタ目掛けて襲い掛かってきた。
だけど問題ない。今の私は元気百倍だ。
私とお義姉様と、それから仲間たちとで、今度こそアイツを仕留めるのだ。
既に門は限界まで開かれている。
私のツタは地龍の抵抗を押さえつけ、ついに完全に拘束した。
眼下では大弩に備えられたランプが次々と点灯する。
一つ……二つ……三、四……五!
一斉に霊鋼製の鏃が発射され、もれなく地龍の眼玉に突き刺さる。
それから一拍遅れて――ネウラフが一人で二基分を担当している――六発目が命中。
地龍が声なき声で悲鳴を上げる。
濃厚な魔力の中で行われた前の戦いとは違い、ここではその気配を微かに感じられる程度だ。
さあ、ここからが本番だ。
私は杭と槍とをツタの先端に握りしめ、第七の眼の出現を待ち受ける。
程なくして第七の眼が開き、七色に光る怪光線を放ちながらギョロギョロと周囲を睨め回し始めた。
その視線を直接向けられたわけでもないのに全身に震えが走る。
「ケィルフ、始めて!」
「あい」
ケィルフが石人形を起動し、突撃させる。
予定していたよりもずっと数が多い。これもお義姉様のおかげに違いない。
地龍の視線と触手が地を駆ける石人形たちに集中する。
多分、イェルフのことを覚えているのだろう。
だけど残念。今回の本命はこちらだ。
私は各々に杭を携えたツタを第七の眼向けて一斉に突き出す。
地龍の反応は速かった。
石人形を薙ぎ払っていた光の触手が第七の眼を守ろうと、私のツタに群がってくる。
私もツタを無数に枝分かれさせてこれに対抗する。
そこかしこでツタと触手がある場所では押し合い、また別の場所では引き合いながら複雑に絡まっていく。
時間がない。
あまり手間取れば先に潰した他の眼が再生してしまう。
地龍の眼がギョロギョロと動き、あたり一帯を怪光線で照らしまわる。
その視線はもう地面を向いてはいない。
術者が他にいると気づかれているのだ。
私は拘束に回していた魔力を弱め、杭を持ったツタに回し、グイグイと押し込む。
あと少し、あと少しだ。
杭を持ったツタの一本が触手に切断された。
構わない、まだ二本ある。
すぐに二本目のツタが斬りつけられ、力を失った。
残り一本。
地龍の攻撃が最後の一本に集中する。
思わず笑みをこぼしそうになった。
この時を待っていたのだ。
私は四本目のツタ、〈イェルフの槍〉を握りしめたそれを死角から突貫させた。
これで終わりだ!
その瞬間、第七の眼の怪光が私を捉えた。
この世のものとは思えぬ凄まじい恐怖感が私の精神を打ちのめす。
歯がカチカチと間抜けな音を立てる。
全身の力が抜け、私は何にもかもを放り出してその場にへたり込みそうになる。
危うく失神しかけたところで、何か黒い板が私の視界を塞いだ。
ケィルフが、外した反射板で怪光を遮ってくれたのだ。
大急ぎで気を引き締め、魔法のツタを掌握しなおす。
槍を握っていたツタからの応答がない。
私の意識がとびかかっている間にやられてしまったらしい。
大丈夫。まだ杭がもう一本残っている。
落ちた杭を拾いなおすことだってできる。
まだ戦える。
生き残っているツタを枝分かれさせながら反射板の影から身を乗り出した。
目を皿のようにして、どこかに落ちているはずの杭と槍を探す。
「あ……」
ケィルフが心細げな声を上げる。
何かあったらしい。
「どうしたの⁉」
「イェルフがいない」
「え⁉」
思わず振り返ってしまった。
ケィルフの言っていた通りだった。
私の斜め後ろで半ば寝転んでいるはずのイェルフが影も形もなかった。
まさか地龍が起こした振動で台座から転落したのか。
そんなはずはないと思いつつも台座の下を確認する。
もちろんイェルフはいなかった。
「いた!」
ケィルフが再び声を上げた。
彼が指さしたのは、こともあろうに地龍のすぐ近くだった。
無手のイェルフがおぼつかない足取りで、フラフラと地龍に近づいていく。
いったいいつの間に!
「ケィルフ! 連れ戻しなさい!」
彼は意識を取り戻したのだろうか?
だとしても、今はまだ戦える状態じゃないはずだ。
「あい!」
ケィルフが付近の石で石人形を組上げ、イェルフのもとに向かわせた。
私も大急ぎでツタを彼の援護に回す。
最後の杭の一本で眼玉を狙って牽制。
地龍の意識を引きつけつつ他のツタでさりげなくイェルフを守る。
イェルフが何かにつまずき、転んだ。
地龍の触手が、イェルフのところに向かっていた石人形を砕いた。
思わず舌打ちをしてしまう。
この時間のないときに!
イェルフがもぞもぞと起き上がる。
その時、私は奇跡を眼にした。
立ち上がったイェルフの手には槍があった。
ドケナフが鍛え上げた、あの〈イェルフの槍〉だ。
イェルフが吠える。
ここ数日、殆ど飲まず食わずだった彼のどこにあんな力が残っていたというのか。
イェルフは槍を構えると確かな足取りで突進を開始した。
「リリー! イェルフが!」
「わかってる! 援護するわよ!」
「あい!」
今度は仕損じたりしない。彼を守り切って見せる。
ケィルフが新たな石人形を立ち上げ、イェルフを囲むように駆けさせる。
私も全てのツタを援護に回す。
イェルフを認識した地龍が怪光線を浴びせた。
しかし、彼はそれをモノともせずに突き進む。
イェルフが跳躍した。
地龍の体に飛び乗り、眼に向けて駆けあがっていく。
今や恐怖を感じているのはあの怪物の方だ。
地龍が必死で触手を伸ばす。
私のツタがそれを絡め捕り、あるいは打ち払う。
ついに、イェルフの槍が地龍の眼をその間合いに捕らえた。
突進の勢いそのままに槍を突き立てる。
ドケナフが、ただ一つの目的を追求して鍛え抜いたその槍は地龍の眼を守る薄膜を易々と貫き、深々とめり込んだ。
遺跡全体に、まるで少女の悲鳴のような、声もなき思念が響き渡る。
靡くように蠢いていた無数の光の触手が全て一直線に延び、やがて薄くなり、消えた。
同時にイェルフも全身から力が抜け、地龍の体から転がり落ちていった。
地龍の眼から完全に光が失われるのを見届けて、私とケィルフは台座を駆け下りた。
地龍を誘導するために押し広げられた暗い大通りを、イェルフのもとへと急ぐ。
小山のような地龍の死体に近づくにつれ、その前に人だかりができているのがぼんやりと見えてきた。
既に勢子を務めていた衛士達が集まっているのだろう。
だというのに、聞こえて当然の声、勝利の立役者を讃える歓声が聞こえない。
黒い人だかりは、不気味なほどに静まり返っている。
衛士の一人が振り向いた。
その酷く沈痛な表情を見て私は察した。
結局、奇跡は一つだけで終わりだったのだ。
私達に気づいた先の衛士がそっと周囲に促し、人垣がゆっくりと割れていく。
その中心に、イェルフが仲間に囲まれて横たわっていた。
仲間達が手にした魔法のランタンの光が彼の周囲を青白く切り取っている。
それはまるで神話の一場面のようだった。
思わず足を止めた私の脇を、ケィルフが駆け抜けていく。
「イェルフ!」
そう叫びながら躊躇なくイェルフのもとに駆け込んだ彼は、死体に縋り付きながらオイオイと声をあげて泣いた。
そんな彼の頭にイェラナイフが優しく手を置いて言った。
「泣くな。ケィルフ。
イェルフは本懐を遂げたのだ。
笑って見送ってやれ」
「だ、だけど……。
せっかく、いきかえったのに……。
またおしゃべりできるとおもったのに……!」
ケィルフは再びイェルフの胸に顔をうずめて号泣した。
野太いのにどういうわけか子供っぽい、普段であればコミカルにすら聞こえる彼の声が、今ばかりは何よりも悲劇的に響いた。
*
私の部屋は、お城で一番高い塔のてっぺんにある。
だというのに重い鎧戸を開ければカンカンという槌の音がここまで響いてくる。
今、お城の門――という名の高い塔――は絶賛修理工事中だ。
それというのも、地龍との戦いの真っ最中にお義姉様が私に力を送りすぎたせいで浮島の高度が下り、塔を破壊してしまったからだ。
巻き上げ式の昇降機があるから多少の人の行き来はできるけれど、人力式な上、外壁のない今は風が吹くたびに大きく揺れるため酷く不評だ。
昨日、お兄様からの早馬が到着し、今日の昼頃にもお城に到着するとの報せを届けてくれた。
お兄様の帰還までに門の修復が済めばよかったのだけれど、これでは間に合いそうにない。
高いところはお兄様の唯一の弱点だ。
かわいそうに、そんなお兄様があの揺れる荷台に乗らないとお城に戻ってこられないだなんて。
今にもお兄様が戻ってくるのではないかと北の方じっと見つめていると、ミレアが呆れたように声をかけてきた。
「姫様、そのように外ばかり見ておられると日に焼けてしまいますよ」
私の白すぎる肌は太陽の光にとても弱い。
だから普段は全ての窓を閉め切っている。
「大丈夫よ。こっちの窓は北側だし、この通りちゃんとベールも被っているもの」
そもそもこの窓は北向きで、日光が直接差し込んでくるわけでもない。
いくら私だってこの程度の光ですぐにどうにかなったりはしないのだ。
きっとこの心配性の老侍女にとって、私は今でも小さな女の子のままなのだろう。
「だからって、一日中そんな風に外を見ていなくたっていいじゃありませんか。
姫様が覗いていたからって、陛下が早くお帰りになるわけもなし」
「あら、そうとも言いきれないんじゃないかしら?
世の中何がどう影響するかなんてわからないんだし、
私が見ているおかげでお兄様の帰還が早まることだってあるかもしれないじゃない」
「その理屈ですと、姫様のせいで陛下の帰りが遅くなることだってあり得ますよ。
さあ、早く窓を閉めて、私と一緒にレース編みでも致しましょう。
殿方の心を射止めるには、美しいレースが一番ですからね!」
それはどうだろうか。
彼女の夫は衛士長のオッターだけれど、あの老兵が奇麗なレースに心惹かれて結婚を決めたとはとても思えない。
ミレアはもっと自分の人柄を高く評価するべきだろう。
とはいえ、私に花嫁修業をさせようとするのは、今ではもうこの愛しい老侍女しかいない。
お兄様は既に半分諦めているし、他の人たちはそもそも私をそういう存在とは見なしていない。
私に結婚が必要かはさておいて、魔女であるこの私を、できるだけ普通の人間として扱おうというその気持ちはとてもありがたいと思っている。
だから、たまには彼女の提案に付き合ってあげることにした。
「仕方ないわね。でも、少しだけよ?」
ミレアの顔がパッと明るくなる。
これを見るためだけでも、ちょっとばかり苦労するだけの価値があるというものだ。
「では早速お道具の準備をしてまいりますね!」
ミレアが嬉しそうに部屋を出ていこうとするのを尻目に、鎧戸を閉めようと手を伸ばしたその時だ。
遥か彼方、丘を越えて続く街道の先で何かがキラリと光った。
「ミレア待って!」
「どうされました?」
「ほら、あれ!
街道の先で何かが光ったわ!」
ミレアが戻ってきて、恐る恐るといった様子で窓を覗き込んだ。
「どこですか、私には何も……ああ! 確かに!」
あの煌めきは槍の穂先が陽光を反射したものに違いない。
とうとうお兄様の軍勢が帰ってきたのだ。
「あの分なら、ご到着は予定通りになりそうですね。
もう気は済んだでしょう。
早速レース編みを――」
「そんなことしている場合じゃないわ!
すぐにお義姉様にもお報せしないと!」
そう言って部屋を出ようとした私だったが、ミレアに引き留められてしまった。
彼女は部屋のドアの前に立ちはだかると、両手を腰を当てながら言う。
「わざわざ姫様がいかずともいいではありませんか。
衛士達だってしっかりと見張りをしてるんですから、
お妃様のところにもすぐに報せが行きますよ」
「ダメよミレア。
戦場ではそういう油断が命取りになるんだから」
「またそんなことを!
分かりました。では、衛士を呼んで言付けさせましょう。
それならば報せはお妃様にもちゃんと伝わりますから」
「違うの!
私が! 自分で! 一番に! お義姉様に知らせたいの!」
ミレアには悪いけれど、こればっかりは誰にも譲れない。
「子供みたいなことをおっしゃらないでください。
立派な淑女になるためには、人を使うということも覚えねばなりません」
なるほど。
「じゃあこうしましょう。
衛士にレースを編ませて、私が伝令に走るの」
「衛士を淑女にしてどうするのですか!
姫様が淑女になるのです!」
「いいえ、私は魔女よ。
魔女が使うのは人ではなくて――」
私はソロリソロリと窓の方へ下がりながら、そこで言葉を区切る。
「魔法よ!」
私は塔の窓から飛び出した。
「姫様!」
ミレアが悲鳴のような声をあげながら窓から顔を出す。
でも大丈夫。すぐにツタが絡んで私の体を受け止めてくれた。
私はおしゃべりで彼女の気を引きながら、こっそりと窓の外にツタを伸ばしていたのだ。
「そんな顔しないで!
大丈夫、すぐに戻ってくるから!」
ミレアに向かって手を振りながらそう叫ぶと、私はツタをお城の主塔に向かって伸ばした。
空中を移動しながらふと見張り塔の方に目をやると、見張りの一人が北の方を指さしながら仲間を呼び集めているのが見えた。
すぐにそのうちの一人が塔の階段を駆け下りていく。どうやら彼らもお兄様の軍勢に気づいたらしい。
でもこの分なら、お義姉様の所には私が一番乗りだろう。
*
お兄様は予定通り昼を過ぎてからお城に到着した。
私達はお城詰めの家臣や奥方衆たちと共にお城の大広間でお兄様の帰還を待ち受けた。
私とお義姉様の立ち位置は玉座の両脇だ。
「国王陛下、御帰還!」
広間の大扉の向こうから、衛士の呼ばわる声が響く。
群臣たちのざわめきが一瞬で静まる。
少し間を開けて、侍従が大扉を音もなくゆっくりと開くと、お兄様が側近たちと共に姿を現した。
鳥の羽をふんだんにあしらった伝統的な戦装束をまとって、堂々たるお姿だ。
生やし始めた頃は全く似合っていなかったお髭も、今はとても様になっている。
あら?
同じような戦装束を身にまとい共に進んでくる側近たちの中に、見慣れぬ初老の男がいることに私は気づいた。
あらあら?
あのお方はもしかして。だとしたらお兄様も人が悪い。
私達は玉座の前に進み出て、お兄様の前に跪き、頭を下げた。
そしてお義姉様が頭を下げたまま型通りに挨拶の言葉を述べる。
「ジリノス陛下、マノアの民の王にして浮遊城の正当なる守護者よ。
陛下が御無事でお戻りに――」
「堅苦しい挨拶は抜きだ。
愛しい妻よ、立ち上がってその顔をよく見せてくれ」
お兄様はそう言ってお義姉様を立たせると、そのまま抱きしめた。
羨ましい。
私もぎゅっとして欲しかったけれど、もう去年までとは違う。
今の私は成人を迎えた一人前の淑女なのだから、そういうはしたないことは言わないのだ。
お兄様はしばらくそうした後、体を少し離してお義姉様にねぎらいの言葉をかけた。
「報告は聞いている。
私が留守をしている間に大変なことが起きたようだな。
よくぞ城を守ってくれた」
「当然のことをしたまでにございます」
その言葉のそっけなさにとは裏腹に、お義姉様の声は弾んでいる。
「しかしながら陛下、この城を危機から救ったのは私ではなく
義妹のリリーでございます。
お褒めの言葉は彼女にお与えください」
お義姉様の言葉に、お兄様は笑顔をこちらに向ける。
「そうであったか!
リリーよ、よくやった」
「いいえ、私一人では到底城を守ることは叶いませんでした。
全てはお義姉様と、それから戦友達の助力があってのことにございます」
「ほう、戦友達とな。
実に気になる話ではあるが、そなたらの活躍についてはあとでゆっくりと話をきくとしよう。
それよりも、まずは我が子の顔を見せておくれ」
そういって、お兄様はきょろきょろと周囲を見回した。
あのかわいい坊やはお兄様が出陣なさった後に生まれたので、お兄様はまだあの子の顔を見ていないのだ。
すぐにおくるみに包まれた赤ん坊を抱いたミレアがお兄様の前に進み出た。
お兄様が赤ん坊に手を伸ばし、その頬そっと触れる。
「おぉ……」
そう声を漏らしたっきり、お兄様は感極まった様子で固まってしまった。
お義姉様が見かねた様子で声をかけた。
「陛下、どうか抱き上げてやってください」
「い、いいのか?」
「もちろんでございますよ!
さあさ、お早く!」
ミレアがそう言いながらニコニコと差し出した赤ん坊を、お兄様はおずおずと受け取った。
「……随分と、軽いのだな」
「陛下も昔はそのぐらい軽うございましたよ」
ミレアがそう感慨深げに言うのを聞いて、お兄様の表情が緩む。
「これが我が子か……嬉しいものだな」
そう呟くように言ったお兄様の目じりには涙がにじんでいた。
*
赤ん坊との対面で少しばかりしんみりとした空気が流れた後、大広間にはたくさんの机と料理、それからお酒が運び込まれてきて宴会の始まりと相成った。
開宴に先立ってお兄様が先程の初老の男を皆に紹介してくれた。
「こちらにおわすお方は、三つの王冠の所持者、太陽の信仰の護り手にして敬虔なる信徒、偉大なるホルニア王メニスタス陛下にあらせられる。
先の戦の勝利により、我々はかの高貴なお方を勝利の宴にお招きする栄誉を手に入れた。
この場において、陛下は虜囚ではなく客人である。
くれぐれも失礼のなきよう、皆、相応しい敬意をもって接するように」
宴会の主賓席、つまりお兄様の隣にいたホルニア王が立ち上がり、むすっとした顔で皆にお辞儀をした。
お兄様は彼にもきちんと高貴な虜囚としての権利を約束しているらしく、腰には立派な装飾を施された剣をつっている。
聞くところによれば、ホルニアの裏切りを察知したお兄様は、こちらに不意打ちを食わせようと接近してくるホルニア軍を逆に待ち伏せて、散々に打ち破ったのだという。
こと戦にかけてはお兄様の右に出るものはいないのだ。
お兄様が乾杯の音頭を取り、宴が始まった。
今日は戦勝祝いの宴だから、これより後は無礼講だ。
私は早速席を立って仲間達はどこにいるかと周囲を見まわした。
彼らは大切な客人として主賓席からそう遠くない位置に席を与えられていたからすぐに見つかった。
まだ宴会も始まったばかりだというのに、早くもお兄様の配下の騎士達から飲み比べを挑まれている。
ああ、これはよくない。
彼らはほとんど無尽蔵にお酒を飲むことができるけど、酔いが回るのは思いのほか早いのだ。
グデングデンに酔っぱらった彼らをお兄様の前に連れて行けば事故が起きかねない。
特にネウラフには前科がある。
私は大急ぎで彼らのもとに駆け付けると、すぐに勝負を中断させ、騎士達の不満の声を背中に聞き流しながら、仲間達を揃ってお兄様の前に引っ立てた。
大広間中の視線が、私と、私の背の低い仲間達に集まる。
玉座の前に進み出た私達を見てお兄様は嬉しそうに目を細めた。
一方、隣にいるメニスタス陛下は実に面白くなさそうな顔をしている。
当然だろう。
この男は彼らを手に入れたいがために私達を裏切り、挙句に虜囚の憂き目に遭ったんだから。
わざわざ見せびらかしに来たかいがあったというもの。
それにしても不思議な縁もあったものだ。
もし彼が私に暗殺者を送り付けてこなければ、きっと私は仲間とは出会えなかったのだ。
そう考えれば、むしろ彼には感謝するべきかもしれない。
「お兄様! 紹介したい者達がいるのですけど」
私がそう言うと、お兄様は背筋を伸ばして姿勢を改めた。
「ぜひとも頼む、我が妹よ。
遠目に見てもただならぬ雰囲気の持ち主達故、
先ほどからずっと気になっていたところだったのだ」
「それでは紹介させていただきます。
彼らは、私の戦友にして恩人。
はるか西方、〈はがね山〉よりやってきた〈山の下の民〉の戦士達です」
私はそう言って一歩下がり、イェラナイフに向けて名乗りを促した。
それを受けたイェラナイフは私と入れ替わるように一歩進み出る。
「ご紹介にあずかり光栄にございます。陛下。
我が名はイェラナイフ。
〈山の下の王〉イェッテレルカ十三世の命により、邪悪なる地龍を討伐し、
また〈闇夜の森〉の地下に眠る我らが故郷を再興すべくこの地に使わされた者にございます」
自身の名乗りに引き続き、残る仲間を順に紹介していく。
〈泥棒豚〉に〈挽肉製造機〉、〈ヤボ金槌〉、〈王冠落とし〉、それから今この場にはいない〈酔っ払い〉。
奇妙な二つの名の数々になんとも言えない表情を浮かべるお兄様を見て私は不思議と懐かしい気持ちになった。
彼らと出会ったのはつい最近のはずなのに、もっとずっと昔から知り合いだったような気がしてしまう。
「貴君らの事は既に聞き及んでいる。
我が妹を助けホルニア軍を退けたのみならず、
強大な怪物を討ち取り、我らが〈浮遊城〉を救ってくれたそうではないか。
この感謝の念を表すにはどれだけの言葉を尽くしても到底足りぬ。
せめてもの礼として、可能な限り貴君らの望みを叶えたい。
何かお望みの事はないだろうか?」
お兄様からの申し出に、イェラナイフが恭しく答えた。
「助けられたは我らも同じこと。
地龍の討伐は我らが悲願。
しかしながら、御妹君の助力なくしては成しえぬことでございました。
礼を言わねばならぬのは我らの方でございます」
「そのようなことを言われては我らの面目がたたぬ。
どうか望みをおっしゃっていただきたい」
「しからば――」
イェラナイフの口が止まった。
もちろん、要望はあるはずだ。
彼らは〈闇夜の森〉を求めている。
だけど、この場でいきなり領土の割譲を要求するほど考えなしな男じゃない。
十分な根回しもないうちにそんなことを言われれば、お兄様だって領主たちの手前、断らざるを得なくなる。
だからといって金品を求めて、せっかくの恩を清算してしまったりもしないだろう。
きっと、なにかちょうどいい落としどころはないかと考えているに違いない。
一瞬の間の後、イェラナイフが再び口を開いた。
「陛下の御妹君を我らの『一つ穴の兄弟』と呼ぶ栄誉を授けて頂きたく」
突然の衝撃発言に場が静まり返る。
当のイェラナイフは自分が何を言ったかを全く理解していない様子だ。
周囲の空気が変わったことには流石に気づいたようで、視線でこちらに助けを求めてきた。
助けてほしいのはこちらの方だ。
私は慌ててお兄様に説明した。
「あ、あの、お兄様。『一つ穴の兄弟』というのは、その、
彼らの言いまわしで『家族のように強い絆で結ばれた同志』という意味で……」
はっきりと確認したわけではないけれど、そう大きく外れてはいないはずだ。
イェラナイフも「御妹君の言う通りでございます」とばかりに頷いている。
「そ、そうであったか。なるほど」
いち早く衝撃から立ち直ったお兄様が再び口を開いた。
「我が妹をそのように親しく思ってくれているとは、兄としても喜ばしい限りだ。
しかし――」
お兄様は慎重に言葉を選んでいるらしかった。
「失礼ながら、『穴の兄弟』とは……我々の国においては、その、少しばかりいかがわしい意味合いを持つ言葉になるのだ。
『兄弟』を……そうだな、例えば『家族』などに置き換えて頂く事は可能だろうか?」
「分かりました。では、御妹君の事は『一つ穴の家族』と呼ばせて頂きます」
家族だなんて、なんだか兄弟よりも少しばかりくすぐったい響きがある。
お兄様は一瞬だけこちらに目をやると、意味ありげな笑みを浮かべた。
なんだろう。お兄様が何か企んでいるような気がする。
お兄様がイェラナイフに向かって話を続ける。
「ありがたい。
貴君らがこの地を訪れたのは、父祖の地を再興するためでもあると言っていたな。
貴君らのような頼もしい隣人を得られるのは実に喜ばしいことだ。
我が妹がその懸け橋になってくれるというのであれば、大変心強い」
お兄様には、彼らが〈闇夜の森〉を求めていると既に伝えてある。
その上で彼らを隣人として歓迎するというのなら、それは森を与えるという内々のメッセージに他ならない。
イェラナイフたちが近所にいてくれるのだから、これからの暮らしは今よりもきっと楽しくなるだろう。
「そうだ。実は一つ、私から貴君らに頼みたいことがあるのだ」
今度はお兄様から彼らに頼み事があるらしい。
「できることであれば、なんなりと」
お兄様は、お義姉様を隣に呼び寄せた。
お義姉様の腕の中では、坊やがスヤスヤと可愛らしい寝息を立てている。
お兄様はその寝顔を愛おし気に撫でながら言った。
「この子の名付け親となっては頂けないだろうか」
これにはイェラナイフも驚いたらしかった。
「光栄にございます。
しかし、よろしいのですか?」
イェラナイフはお義姉様とお兄様の顔を交互に見やった後問い返した。
「妻の了解も既に得ておる。
これは我が嫡男だ。
無事に育ったなら、この子がマノアの王となろう。
こうして貴君らとの縁をつなぐことは、この子にとっても、我が国にとっても
また貴君らにとっても利となるであろうと考えておる」
「そういうことでありましたなら、謹んでお受けいたします。
実は一つ、良き名に心当たりがあるのです」
「お聞かせ願おう」
「イェルフ、とそうお名付けください」
その名を聞いて、私の涙腺が少しだけ緩くなった。
「名の由来を尋ねてもよろしいか」
「我らの古き言葉で『成し遂げる者』を意味する名でございます。
また、先の地龍との戦いで命を落とした戦士の名でもあります。
もしも名が力を持つのであれば、何事もやり通す強い意志と、
地龍をも打ち倒す武勇、そして友を大切にする善良な心を持つ
立派な王となられることでしょう」
「まことに良き名である!」
お兄様は玉座から立ち上がると、広間の全員に呼び掛けた。
「それでは皆の衆、今一度感謝の盃を捧げようではないか!
我が子イェルフのため!
今は亡き勇敢な戦士のため!
そして我らの新しき友とその未来のために、乾杯!」
「乾杯!」
広間中で歓声があがり、今度こそ楽しい大宴会が始まった。
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