第4話 勝ち犬のふふん
「フィニアリーズ・レガート……」
幼女の名乗ったそれを繰り返す。
『レガート』とはさっき食べたレガト牛の名前の元になった、この辺りを治める領主の名前だ。
幼女自身も侯爵の跡取りだったと言っていることから、間違いなくその姓はレガート侯爵のものなのだろう。
だが、気になるのは『元の』名前、ということと、跡取り『だった』と過去形で言っていることだ。
視線で言葉の先を促せば、幼女は話を続けた。
「わたくしは現レガート侯爵の実子ではありませんわ。子供に恵まれなかった侯爵夫婦がわたくしを養子としたのです」
「そうか」
子に恵まれない貴族が血縁を探し、跡継ぎとするために養子にする。それはよくあることだ。
まあ、男児を養子とすることが多いが、女児を養子にすることもありえないというほどでもない。
だから、とくに驚きもなくその話を受け入れると、幼女は膝の上に置いていた手にぎゅっと力を入れた。
「わたくしの実父は前レガート侯爵。わたくしは現レガート侯爵とは歳の離れた腹違いの兄妹になりますの」
「……現レガート侯爵も五十は越えているよな」
つまり、幼女の実父である前レガート侯爵はそれよりも年上。少なくとも七十にはなっているだろう。
俺がぼそりと呟くと、幼女は小さく頷いた。
「はい。わたくしと現レガート侯爵はすでに父と娘というより、祖父と孫に見えると言われたこともありますわ。そして、前レガート侯爵にいたっては曾祖父でもおかしくない。……わたくしの母はレガート家より格下の家にメイドとして仕えていたと聞きましたの。そこへ前レガート侯爵が来たときに関係を持ったのだろう、と」
幼女の話の内容は唾棄すべきものだが、それよりもその話をしている幼女の様子が気にかかる。
そんな話は幼女の歳で知らなくてもいいことだろう。それが事実だとしても、それを教える必要などない。
だから、じっと幼女の目を見つめると、その碧色の目は少しだけゆらゆらと揺れた。
「……一度だけ。前侯爵夫人に連れられて、母に会いに行きましたわ。母は暗い部屋のベッドに体を括りつけられていました。体をかきむしるから、と、両手には分厚いミトンをはめていましたの。そして、小さな窓から外を見上げて、歌を口ずさんでいました」
ぱちりと瞬いた瞳。
こぼれそうな雫が目のふちに溜まっていく。
「前侯爵夫人はわたくしに言いました。『お前はあれから生まれた。卑しい』と」
……確か、前侯爵夫人は嫉妬深く、夫を亡くしてもなおその気性は変わらないと聞いた。
夫の浮気を知った前侯爵夫人。その子供を後継ぎとして息子夫婦の養子にすることになったことにさぞ怒り狂ったことだろう。そして、その矛先は――
「わたくしは一歳ごろに引き取られ、ようやく母に会えたのは四歳ごろのことです。わたくしはそんな母を見て、やらなければならない、と思いましたの。完璧な令嬢にならなくては、と。……けれど、母は間もなく亡くなりました」
……この子は侯爵家でどんな日々を送っていたのだろうか。
病んだ母を見せられ、それでも跡継ぎになるために教育をされ……。そして、そばには嫉妬に狂う前侯爵夫人。
そんななかで、必死に勉強をしたのだろう。
だからこそ、見た目の年齢からは考えられないぐらい、しっかりとした言葉で伝えることができるのだ。
「そして、レガート侯爵家の養子となって五年。あんなに子に恵まれなかった現侯爵夫人が懐妊しましたの。……わたくしは現レガート侯爵に少しばかりの銀貨を握らされて、すべて忘れろ、と家から出されました」
……子がいないから、と実の母から奪い、子ができれば、用がなくなったと手放す。
それがこの子がたったひとりでギルドにいた理由。
よく見れば、肩まである三つ編みは左右で結ばれた位置も太さも違っている。
きっと、慣れないなか、必死に自分で結んだのだろう。
質の良い服もあちこちに汚れがついてしまっていた。
「わたくしは捨てられたのではありません」
それは自分を慰める言葉。
涙を流しながら、現実から目をそらすために自分を騙す言葉。
けれど、幼女はまっすぐに前を向いていて――
「わたくしは自分の人生を自分で選び取ったのです」
凛とした声。すこしだけ濡れた碧色の目。
今にもこぼれそうな雫は、それでも決してこぼれなかった。
「これは負け犬の遠吠えではありません」
「ほぅ」
「勝ち犬のふふん! ですわ!」
「かちいぬのふふん」
その言葉に目の前の幼女の姿が重なる。
しっぽを股の間に入れ、キャンキャンと鳴く子犬。
だが、目の前の子犬は、必死に胸を張り、少しだけ顎を上げた姿をしていた。
――勝ち犬のふふん! か。
なるほど、悪くない。
「……がんばってるな」
小さな頭。
それにそっと手を伸ばし、ゆっくりと撫でた。
「ふぇ……」
すると、碧色の目が丸くなって……。
そして、雫がぽろりとこぼれた。
「……っ、これはちがいますっ!」
「ああ」
「こ、れは! っスープですの!」
「ああ」
「スープがおいしいから、目がびっくりしただけですわ!」
「ああ」
わかってる、と頷くと、幼女は急いでポケットからハンカチを出し、その目を拭った。
そして、一度、深呼吸をした後、俺をじっと見上げる。
「わたくしは元の名前を捨てました。これからは『フィン』という名で生きていこうと思ってますの」
「フィンか。……いい名前だな」
そう。この子にとっては『フィニリアーズ・レガート』はもう過去のものなのだ。
だから、『元の名前』と言い、『侯爵の跡取りだった』と過去形で話した。
……生きよう、と。
未来を目指して、歩こうとしているのだ。
「よし、じゃあ、まずはお客様の相手をするか」
「……お客さま、ですの?」
俺の言葉に幼女――フィンは不思議そうに首を傾げた。
「ああ。さっきからこのキャンプ地周辺を探索している連中がいる」
そう。結界を張っているから気づかれてはいないが、明らかになにかを探している一団がいる。その一団は顔を布で隠し、腰には剣を佩いていた。
そして、なにもない丘からなにかを探し出そうとしていて……。
「……もしかして、私を追って、前侯爵夫人が……」
その可能性に気づいたフィンが顔をさっと青ざめさせた。
どうやら、嫉妬深い前侯爵夫人は夫の間違いを許すことができないようだ。
――そう。これはフィンに向けられた暗殺者だろう。
「来い、フィン」
立ち上がり、手を広げれば、そこに小さな体がぎゅっと抱き付く。
俺はそれを抱え上げ、右口端だけで笑った。
「盛大に勝ち犬のふふんをしてやろう」
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