誰かの罪、誰かの嘘

チェシャ猫亭

第1話 義妹

 深夜の救急医療病棟。病室から出てきた私と恵美えみは、廊下のソファにへたりこんだ。

「よかったね」

 恵美に声をかけると、

「うん、よかった」

 ほっとした声が返ってきた。

 恵美は私の弟、尾関雪於おぜきゆきおの妻であり、私の親友でもある。

 雪於は数時間前、睡眠薬で自殺を図った。幸い、発見が早く量も少なかったため、命に別状はないとのことだった。

「疲れたでしょ、恵美」

沙耶さやの方こそ、ショックだよね」

 大切な弟さんが、こんなことになって、と恵美はつづけた。そして、

「あせったわ、枕元に薬の空箱がいっぱい転がってて」

「そうなんだ」

 自殺をするということは、周囲に向かって「おまえなんか嫌いだ」と宣言するようなもの。家族や友人がダメージを受けるのも無理はない。

 夫に自殺未遂された妻の反応とは、どんなものだろうか。

 きっと取り乱し、一命をとりとめたと聞けば泣いて喜ぶ、と想像していたのだけれど。

 恵美は、いたって冷静に見えるのだ、まるで今夜のことを予測していたtみたいに。


「春菜は?」

 姪のことを、私はやっと思い出した。

 まさか三歳児をひとり残してきた?

「姉さんに来てもらってる」

 近所に住む恵美の姉が自宅に来てくれているという。

「それなら安心ね」

「うん」


 雪於に自殺する理由はないはずだった。

 二十三歳での授かり婚。ふたつ年上の、しっかり者でやさしい妻、娘は可愛い盛りの三歳で、仕事も順調。

 しかし、それはあくまでも表向きの話だ。

 かつて雪於には恋人がいて、周囲がうらやむほどの熱々ぶりだったが、向こうの親が実家に呼び戻し、それっきり。人づてに「別れたい」と連絡があり、雪於は絶望した。

 傷心の彼を慰めたのが恵美で、いつしか二人は深い仲になった。そして妊娠。


 今年の春のとある土曜日。

 恵美が同窓会に行くというので、私は久しぶりに弟宅に出向いて夕食を作った。

 食事の後、ソファで酒を飲みながら雪於は、

「視線を感じて目を上げると、恵美が冷たい目で見てる。監視されてるみたいで気持ち悪い」

 とこぼした。

「僕に興味がないくせに、なんであんな目で見るんだろう」

「気にすることないよ」

 と私は言った。

「春菜のことは可愛いんでしょ」

「うん」

 春菜は雪於によく似ている、将来は誰もが振り向く美少女になるだろう。

 テレビアニメに見入っている春菜に私は目を細めたが、雪於は暗い声で、

「サーちゃん、僕は」

「ん?」

「こんな生活、もう」

 雪於は言葉をつまらせ、両手で顔を覆った。

「会いたい」

 と小さくつぶやく。

 誰に会いたいのかは、痛いほど分かった。

「パパ」

 春菜が駆け寄ってきた。シャツの袖を引っ張り、

「パパ、泣いちゃダメ」

「泣いてないよ」

 雪於は、口の端を上げた。



「ごめんね、こんなことになって」

「あやまることないよ」

 雪於を慰めているうちにそうなったのだ、仕方ないと私は思っていた。

「ユキちゃん、結婚しようって言ってくれた」

 はにかみながら恵美は告げた。

「そう、よかったね」

 親友が義妹になる、それは喜ばしいことだ。

「ほんとにおめでとう恵美、私も嬉しい」

 本心のはずなのに、もう一人の私は、心の底でこう叫んでいた。

「そんなことは絶対に許さない、堕ろして別れろ!」

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