傷心旅行
旅館と温泉、ホテルとビュッフェ。人はどうしてこうも、非日常というだけで胸が高鳴るのだろう。
仕事で一山越えたご褒美に、県内の高級旅館を予約。エントランスで仲居さんのお出迎えを受けた途端、仕事のことなど一切を忘れた。
記帳し、いざ俺だけの客室へ。悠々と一人でくつろぐはずが、聞き慣れた声に呼び止められた。
「青井くん?」
振り向けばそこに先輩の姿。偶然を祝して手を振っていた。
「赤坂……先輩……」
最大にして唯一の宿泊目的、「心穏やかに過ごす」はもう果たせそうにない。
胸の鼓動がそう教えてくれた。
何を隠そう、例の一山を共に登ったのが赤坂先輩。その過程で見えた気概と強さ、難局で知った本気と少しばかりの弱音。ありのままの人柄が、俺の心を強く惹きつけた。
だが、風の噂で既にパートナーがいると聞き、俺の心は強張った。プロジェクトを終えて相棒関係が解消された今、この気持ちも同時に手放すいいタイミング。傷心旅行でもあったのだが、俺の心はまた喜びを感じている。
軽く会釈をして、足早に客室へと向かった。
予期せず旅の目的が変わった。癒されることは二の次に、いかに孤独を確保するかが重要ミッション。
お茶菓子を片手に館内案内をめくると「グリーンハンモック」が目に留まる。庭園に置かれたハンモックに身を委ね、本県自慢のなだらかな山並みを眺望できるそう。先輩は虫が苦手と言っていたから、絶対ここには来ないだろう。そして何より「地酒サービス付き」の言葉に期待が膨らんだ。
紅葉の時期ともあれば、さすがの賑わいを見せる庭園。一方の、最奥のもみじの下に置かれたハンモックは穴場らしく、ひと気はまばら。適当に陣取りゆったりと揺られながら、秋の日差しを全身に浴びてみた。人間も光合成が出来るのかもしれない、そんなことを思うほど、心地よさで包まれた。
「お酒をお持ちしました」
「ありが……」
「……冗談言ってごめんけど、そんなに驚いた?」
驚きじゃなくて喜びです、なんて言えないから、慌てて起き上がりグラスを受け取る。
「いえ、あの、すみません先輩。お手数お掛けしました」
「いいって。偶然見かけたからさ、つい追ってきちゃった」
照れ臭そうに頬をかく姿があまりに可愛らしい、なんて口が裂けても言えないから、地酒を押し込み言葉を呑んだ。
一人悶々とする間に、当然のごとく隣へ腰掛ける先輩。
「先輩は呑まないんですか?」
「うん、甘党だからね」
「なるほどですね」
その先は言葉が続かなかった。
本当は沢山聞きたい事がある。貴方のことをもっと知りたい。
けれどそれをしてしまっては歯止めが効かなくなるから、今はただ隣で、葉擦れの音を共有したい。
「良い景色だね」
「はい」
「好きな人と見れたら、きっと幸せだろうね」
「……すみません。隣にいるのが俺で」
「何言ってんの。充分嬉しいよ」
その言葉を貰えただけで、俺も充分。
「お相手さん、都合付かなかったんですか?」
「え? いや? そもそもいないし」
「いないし?」
「はははっ。そこリピートするんだ」
胸の中でこだまする声。風の噂は、本当にただの噂だった。
音を立ててタガが外れた。
「あの、ということは、好きな人いないんですね?」
こちらを見つめる先輩は、いたずらっ子の目をしている。
「いないって言ったらアプローチしてくれるの?」
恋には、一度ならず何度でも落ちることが出来るらしい。そう教えてくれた人と、翌年同じ旅館に宿泊することに。
今度は傷心旅行でなく、交際一周年記念のお祝いに。
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