第2話

 雨が降っていることには気付いていた。

 それでも私は傘を差していなかった。小雨だし。家までもうすぐだし。傘差してると片手が塞がっちゃうし。

 しかし家が近づくにつれ、雨脚は強さを増していく。

 そうしていよいよ無視できないくらいの本降りとなったが「まあでもここまで濡れちゃったら今更か」とやはり私は傘を差さずに濡れたアスファルトの道を進んでいた。

 大丈夫、この横断歩道を渡ったらすぐ家だ。帰ったらあったかいシャワーを浴びよう。

 額に貼りついた前髪の隙間からぼんやりと光る赤信号を睨みつける。私は半ば意地になっていた。

 けれど信号はなかなか変わらない。目を逸らすと、右手で無念そうにしているビニール傘が視界に入った。

「傘、差さないんですか?」

 ビニール傘が喋った。かと思えば、ぱたぱたと叩くような音がして、知らない男の人が隣に立っていた。

 雨が止む。

「降ってますよ、雨」

 私よりも頭ひとつ大きいスーツ姿の彼は、私の頭上に自分の傘を差していた。

「あっ、いや、もうすぐ家なので」

「そうですか」

 つい言い訳のようなことを口にする私に、彼はそれだけ言った。

 それから沈黙が訪れる。静けさに雨音が目立つ。

 私はうまく言葉が出せなかった。当然だ。急に現れて傘を差してくれる見知らぬ男の人に対しての気の利いた話題なんて持ち合わせていない。それどころか少し怖い。

 信号、早く変わって。

 心の中で必死に願うも赤色の光は微動だにしない。

「青信号って、緑ですよね」

「え」

 突然意味のわからない呟きが聞こえて私は思わず彼のほうを向いた。彼の横顔に表情はなく、その向こう側には青信号が光っている。

「思いません? どう見ても緑でしょ」

「あ、うん。確かに」

「あれって青空に紛れないようにするためらしいですよ」

 彼は真っ直ぐに赤信号を向いたまま「諸説あるみたいですけどね」と続ける。車が一台、水たまりを蹴散らしながら交差点を駆け抜けた。

「晴れた日に見ても判別つきやすいように、ってことらしいです。真っ青だと溶け込んじゃうから」

「青空と見間違えないように」

「そういうことです。でも、じゃあなんでみんなそれを青信号って呼ぶんでしょう」

「緑なのに?」

 そうそう、と彼は頷いた。傘が少し傾いて、滑り落ちてきた水滴が目の前を通過する。

「それって、みんな青のほうが平和なイメージがあるからじゃないかなって思うんです。青空とか、青葉とか、青春とか」

「緑はエコとかリサイクルって感じですもんね」

「それも十分平和ですけど」

 そこではじめて彼は笑った。無機質だった表情に色が見えて、私は少しほっとする。

 くしゃりと歪んだ顔の向こうで青信号が点滅した。

「まあ結局、みんな晴れたら歩き出したくなるんでしょうね」

 赤信号が青に変わる。

 それを見て、彼は足を踏み出した。私に再び雨が降る。

「え、そっち?」

 青信号になった横断歩道ではなく、歩道の続きを進んでいく彼に思わず声をかける。

 すると彼は「はい。僕の家こっちなので」と平然と答えた。そしてそのまま颯爽と歩き去っていく。

 ……変な人だなあ。

 歩幅が大きいのか、あっという間に小さくなった背中を見ながら思う。

 そして私は横断歩道を進んでいく。雨脚は心なしか弱まっている気がした。

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