第17話 “瑞帆”じゃなくて“ヒロ”でないと


「ちょっと、客を前にして固まるなんて何事?」


紅亜に目を細められ、我に返った瑞帆はしどろもどろに言い訳を探す。


「すみません、その少し、感極まったと言いますか…」

「なあに、私が来たのがそんなに嬉しかった?でも私に見惚れるのはまた今度にして。はどう、良い感じ?」


紅亜の眼差しが、声が、容赦なく瑞帆の痛い部分に突き刺さる。

自分はまだ、紅亜に喜んでもらえるようなもの情報を何ももっていない。

なんの成果もない。言い訳すらできないほどに。


「……すみません。実はまだ、何も」


瑞帆は顔を伏せた。とても目を見てなんて話せなかった。

少し遠くから、はぁ、と気の抜けたため息が聞こえた。


「あのねぇ。わかってると思うけど、たった3日で何か結果を出せるほど楽な仕事じゃないから。特にあなたは素人だし、功を焦って余計なことをしていなければそれだけで上出来。で、どうなの。初めての居酒屋バイトは」


厳しさの中に、どこか優しさを感じる声。

瑞帆はそっと顔を上げた。


「えっと…店のメニューと席番号を事前に全部覚えていたおかげで、何とか人並みにはやれてるんじゃないかと思います。初日に大量のジョッキを一度に運んだせいか、今日はちょっと筋肉痛ですが…」

「腕力まで鍛えられて良かったじゃない。1週間頑張った甲斐があったわね」


得意げに微笑む紅亜。

そう……瑞帆のバイト未経験とは思えないこの仕事力は、1週間にわたる紅亜のスパルタ指導の賜物だ。ついでに、別人級に仕立てられたこの見た目も。

萌咲の働く店の間取りや仕事内容、提供している全メニューをとことん頭に叩き込まれ。

「オドオドした挙動は言語道断」と、姿勢や歩き方、声の出し方から表情まで、徹底的に矯正された。

紅亜に「明日から毎日会いに来てね」と笑顔で言われたあの日、愚かにも淡い期待をしてしまった自分を恥じるほどに。

その結果、「チャラそうな見た目のくせに、仕事は完璧。さぞ遊んでるかと思いきや意外と寡黙で、どこか近寄りがたい不思議な魅力のある男子高生」という、いかにも少女漫画の当て馬にいそうな人物が誕生した。

紅亜いわく、瑞帆がボロを出さずにギリギリ対応できそうな設定にしたらしい。気恥ずかしさはあまり考慮に入れてもらえなかったようだが。


「おかげで、初日から即戦力扱いになって大忙しですよ。店長さんからもすごく褒められました。けど何故か、事あるごとに怯えた感じで“弥刀代さんに是非ともよろしく”って念を押されるんですけど…なにかあったんですか」

「別に。あなたを確実に採用してもらうために、ここの経営状況や内部事情を調べた後、ちょっと楽しくお話しただけ」

「ああ、なるほど…」


瑞帆は軽い相槌だけ返した。こういうのは深追いしないに限る。知らない方が良いこともあるのだ。自分のためにも、たぶん店長のためにも。

紅亜が瑞帆から目を離し、店のメニューをパラパラとめくりだす。


「じゃ、第一段階は無事クリアね。そうでなくちゃ困るんだけど。先にを完璧にさせたのは、に集中してもらうためだし。萌咲さんとは、常に仲の良い雰囲気を醸し出せてる?2人は幼馴染ってことにしてあるんだから」

「えっと…空いた時間にはできるだけ話すようにしてます。と言っても他愛ない雑談ばかりで、これでいいのかなって不安もあるんですけど…」

「ちょっと、最初に言ったでしょ?喋る内容や回数なんてどうだっていいの。重要なのは、一緒にいる時のちょっとした視線のやりとりや表情。関係性っていうのは、そういったところにこそ表れるんだから。ちゃんとの?」

「はい、たぶん…」


もちろん、萌咲といるときは常に気を付けている。あれだけ紅亜と散々練習したのだ。

けれど“仲の良い演技”だけで言うなら、どういうわけか萌咲の方が圧倒的に上手い。女の子は皆こういう事に長けているのか、それとも萌咲がたまたま得意だったのか…

考えれば考えるほど、自分が「ちゃんとできているのか」と訊かれると自信がなくなっていく。


結局のところ、自分が人からどう見えているかなんて、わからないのだから。


すると紅亜は、持っていたメニュー表でこつんと瑞帆の頭を叩いた。


「自信のなさは表に出さないの。何を言われても、何が起きてもね。“水川ヒロ”は、絶対にそんな顔しない」

「すみません…」

「だめ、顔を上げてやり直し」


優しく微笑む紅亜。

それが合図だということを、この1週間、瑞帆は肌で学んできた。

切り替えろ。

少しだけ口角を上げて、余裕たっぷりに、まっすぐ紅亜の目を見つめる。


「すみませんでした。次からは気を付けます」

「よろしい。それでこそ、“ヒロ”くんね」


それだけ言って、紅亜はまたメニューに視線を戻した。

無事及第点はもらえたらしい。だがそれよりも、紅亜が言った、“私の”というのは……

…いや、きっと意味なんてない。ないに決まってる。

だから考えるな。せっかくの“ヒロ”の顔が崩れてしまう。

瑞帆は拳を強く握った。


「じゃあ、今後のことだけど。とりあえず1週間以内には、梨沙子さんと悟さんに接触するように。当初の予定通り、頑張ってたくさん好かれて、たくさん嫌われてね?もちろん、全員の観察も怠らずに」

「わかりました、任せてください」

「頼りにしてるから。そしたら…桜海老と豆腐のサラダに、ワカサギのから揚げ。あとかつおの塩レモンたたきと…特製きのこ雑炊もお願い。雑炊は最後にもってきてね。飲み物はホットジャスミンティーで」

「は?…いえ、かしこまりました!」


不意打ちの注文に一瞬たじろぐも、聞いたことを忘れないうちに、急いで注文を端末に打ち込む。マニュアル通りに復唱すると、紅亜が微笑んだ。


「じゃあ、よろしくね。良い報告を期待してるから」

「ご注文ありがとうございます。失礼します」


瑞帆は貼り付けた笑顔のまま端末をポケットにしまうと、一礼してゆっくりと個室の戸を閉めた。

誰にも聞こえないよう、こっそり息をつく。



――次は、一週間後。

そんなに耐えられるだろうか。


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