第3章 あるいは虚堂懸鏡な女神。

第16話 変化と多忙で目が回る


 「お待たせしました。こちらお造りのおまかせ三種盛りと、旬野菜の天ぷらになります」

「すみませーん。さっき頼んだグレープフルーツサワーがまだ来てないんですけど」

「申し訳ありません、すぐお持ちします!」


紺の作務衣と黒い腰エプロンを身に纏い、瑞帆は居酒屋のホールを駆けまわる。


髪はブルーブラックに染めあげ、ところどころにくすんだ白いメッシュを入れた。

耳はピアスを開けることにどうしても覚悟が持てなくて、代わりに大量のカフスを付けた。

キツく見えるからと隠していた鋭いつり目は、眉と前髪を整えただけで“クールな切れ長の目”に変わった。


「あ、来た来た!ねえお兄さん、グラス下げてもらってもいいですか?」

「かしこまりましたっ!」


女子大生らしい3人組が、手招きして瑞帆を席に呼ぶ。

急いで駆けつけ、グラスをまとめる。その間ずっと、彼女たちから上目遣いで見られているのを瑞帆は肌で感じていた。

見た目を変えてから、こうやって頻繁に人の視線を感じるようになった。バイト中でも、街中でも。最初は自分が変だからじゃないかと気が気じゃなかったけれど、どうやら単に派手な外見が注目を集めているらしい。

気にしても仕方ない。けれど人から見られることなんてほぼ皆無だった身としては、どうしても気恥ずかしくなってしまう。


「ねえお兄さん、大学生?それともフリーター?」

「すみません、まだ高校生なんです」


「えー、嘘でしょー!」と派手に驚き笑う彼女たちに、作り笑顔で会釈をしてさっと退散する。

あと数年もしたら、自分も笑いどころがよくわからない話で爆笑したり、大声でウーロンハイを注文したりするのだろうか。とても想像がつかないけれど。


瑞帆が萌咲の…いや、萌咲のバイト先に潜り込んで、今日でちょうど3日目。

『全個室と和風の創作料理を売りにしている居酒屋』だと萌咲から聞いた時には、ゆっくりお酒を楽しむ大人が集まるお店かと思った。しかし実際は、ファミレスのボックスシートのような席を薄い壁で区切り、廊下側にささやかな引き戸をつけて強引に“個室”にしただけの大衆居酒屋で。


瑞帆が大量のグラスを携え厨房に戻ると、すぐまた呼び出しボタンの音が鳴った。


「ヒロくん、悪いけど行ってきて。こっち手が離せない」

「わかりました!」


空のグラスを置き、手早くサワーを作りそれを届けつつ、急いでボタンが押された席に向かう。

あの席は事前予約限定の、この店に2つしかない個室だ。基本的には、10名以上の団体客が宴会で使うために用意されている。


「あ!お兄さーん、お皿片付けてもらってもいいですかー?」

「すみません、順番におうかがいします!」


女性客に軽く目くばせし、瑞帆はさらに足を速めた。

呼び出しに応じオーダーをこなしながら、周囲の状況に目を配りつつ、次にどうすべきか考える。一瞬でも気を抜いたら、すぐ目を回してしまいそうだ。


(――週末の居酒屋が、まさかここまで忙しいなんて。)


甘く見ていたわけじゃない。けれどどうしても今はまだ、目の前の仕事接客だけで精一杯だ。

それゆえに、自分が本来為すべきは、現状全くの手つかずで。


『私、優秀な人が好きなの。忠実に仕事をこなせるだけじゃ全然ダメ。当然のことだもの』

『私をがっかりさせないでね』


あの日の紅亜の言葉が、頭の中を反芻する。

その度に不安になる。焦る。自分の至らなさに、心が重くなる。


(このままじゃ、合わせる顔がない――)


……だめだ、考えるな。少なくとも今は、目の前の仕事接客に集中しないと。

他の席からは少し離れた場所にある個室の前で、軽く目をつぶり、ゆっくり息を吐く。

憂鬱を、邪念を少しでも吹き飛ばそうと、瑞帆は思い切り戸を引いた。


「お待たせいたしました!ご注文、は…」

「なかなか様になってるじゃない。どう、進捗は」


…何かの間違いじゃないかと思った。

こんな広い宴会室に、女性がぽつんと1人だけ。

グレーのスーツに、上品に結いあげた栗色の茶髪。尊大でからかい交じりの口調。

こんな時でも見入ってしまう。好きだと思い知らされる。


けれど、今はまだ会いたくなかった――



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