第5話 愛読書

「大和、どうしたの」


 東風の声に肩を震わせる。


「たまにぼーっとしている時あるけど、今のはひどかったね」


 東風は青信号で立ち止まったままの俺の手を引いて、急いで横断歩道を渡った。


「なにか考え事?」


 答えられない。一緒にいる誰かに、そこにいない別な誰かを語るのは苦手だ。それに、若松虎帯のことは祖父以外の誰も知らない秘密であり、そのことにわずかな自負がある。


「今日の飯のこと。じいちゃんが当番だから」


 祖父と孫の二人暮らしのため家事を分担している。一週間ごとの持ち回りだ。


「そういえば大和って意外と家事できるんだよね」

「少しくらいはな」

「私も見習わなくちゃ」


 東風は勉強も運動も得意だ。魂鎧の操縦だって井伊先生が手放しで褒めるくらいには上手い。

 ただ、人間誰しも欠点があるくらいがちょうどいい。彼女もそうだ。


「東風は家事とかできないもんな」


 それは調理実習でのことだった。

 火がつかないと騒ぎ、味がおかしいと首を傾げ、出来上がった味噌汁はとても日本の朝食の顔として君臨してきた料理と呼べるものではなかった。

 味見をしたがひどかった。ぬめりのある塩水、と形容したのは東風の親友である日高道子だ。


「わはっ、どうやったらあんなものが出来上がるんだ。笑ってごめん、でも、ニヤけるね」

「練習したからもう作れるよ!」


 東風は学園の寮に住んでいる。その寮の前まで同行し、玄関先で彼女は冗談めかして敬礼し、手を振った。


「お疲れ様でした。氷澄三等陸兵」


 正式な挨拶にしては緩すぎるし、親密かといえば微妙な距離のこの別れの告げ方は、東風の奇行といっていい。

 さよならとか、バイバイとかの別れの挨拶を嫌っているのだ。

 明日生きているかどうかもわからない。もう二度と会えなくなるのではないかという不安がそうさせているのだ。

 気持ちは、わかる。だから彼女といるときは俺もそうやって別れを告げる。


「お疲れ様でした。東風三等陸兵」


 軍の階級における最底辺が俺たち学生兵である。一番下が三等という名で呼ばれ、これは学生のうちだけだ。

 しかし、卒業し軍属になれば軍曹とか伍長とかを飛ばして少尉の階級章が付けられる。


 東風と別れ家に帰ると、すぐに祖父への挨拶をする。それがこの家のルールだ。


「ただいま帰りました」


 手をついて一礼。これはあくまでも祖父の決めた儀礼的なもので、他はどこにでもある祖父と孫との関係だ。


「すぐに飯にしよう」


 そう言って台所に立った。

 祖父、氷澄国主くにぬしは整備士だった。だからといって家に工場のようなものはなく、日中は散歩や日向ぼっこで過ごしている。背が高く、七十を超えた今でも俺をおんぶできるのではないのだろうか。

 俺は祖父が料理をしているのを横目にテレビを見ている。鍋に火をつける音と味噌の匂いがした。「できたぞ」と飯をよそい、いただきますの後で、


「話がある」


 と箸で魚の骨を外した。急だが、こんなことはしょっちゅうだ。その内容も成績のことから明日の天気まで幅広く、彼なりのふれあいなのだ。

 焼き魚と味噌汁、豆腐、おひたし。おかずは質素だが、飯だけはたくさん炊く。氷澄の血は大食らしく、父もそうだったらしい。

 それほど裕福ではない。しかし、祖父はどうかわからないが、俺はこの毎日に満足している。家には必要な家具とくたびれた本棚があるだけで、物欲が乏しいのも伝統らしい。


「話ってなに」


 あっちから言い出すくせに、切り出すのは俺の方だ。


「ん、学校はどうだ」

「今日は鎧に乗って演習をした。市街戦を想定したやつ」

「そうか。よく学んでおけ」


 口数は少ないが、なぜだか機嫌が良さそうだった。飯を食いながらたまに口角が上がる姿は気味が悪い。


「なんかあった?」


 そう聞くと、待っていましたとばかりに膝を叩いた。


「わかるか」

「わかる」

「実はな、昼に古い友人が訪ねてきたんだ」


 整備士だったから知り合いにはパイロットなど軍関係者が多い。戦争の嫌いな彼でも、その感情を職場には持ち込まなかった。仕事一筋で愛想もよく、そこで祖母と出会ったらしい。

 俺の母親も整備士であり、ここ数代において氷澄家は全員が軍に身を置いていた。


「パイロット?」


 今では魂鎧の搭乗員をパイロットと呼ぶが、昔は騎手と呼んでいたらしい。


「んだ。腕のいい騎手だ」


 そのことが誇らしいのか会津訛りで答え、回顧が彼に哀愁に似た表情をもたらす。


秀真ほつまの葬式にもきていた」


 秀真とは俺の父親だ。

 広々とした葬儀場のホールには常に嗚咽が響き、棺の中には無数の勲章が並べられ、それを誇りには思わなかったが、偉大な人物が亡くなったと、誰もが男泣きしていたのを覚えている。

 あの中にいた人物など俺はわからない。数え切れないほど励ましの言葉をもらったが、幼い俺には喪失感と空虚さがあっただけだった。


「天狼って名前だが、習ったか?」

「さあ。知らね」


 習うほどの大人物がウチを訪ねてくるものか。

 俺の答えにも、じいちゃんは寛容に笑った。


「歴史には残んねげども、あいつは俺たちの中では一番優秀だった」

「なんで遊びにきたの」

「孫がこっちにくるから、その付き添いらしい」

「会津に? なんで」


 文化的にも戦争的にも歴史は古く、城や博物館、図書館などが多く健在している会津若松だが、果たして小さい子どもが喜ぶだろうか。まあ勝手に小さい子どもと仮定したが、本当のところは知らない。もしかしたら大男がのっしのっしとやってくるかもしれないが、それはそれで話してみたい。


「友人に会うそうだ。さて、俺は風呂に行く」


 何事も素早く行動せねば気が済まないのが氷澄国主という男だ。風呂から上がると少しだけ酒を飲んで寝る。それが彼のルーティーンだった。

 風呂が空くまでの時間、日課となった筋トレをする。軍人としての嗜みだと愛読書に記してあったからそれを真に受け三年は続けているが、効果があるのかは疑問だ。魂鎧の操縦に支障がないところをみると、一応の目標は達成できているのかもしれない。


「おう。上がったぞ」


 国主から襖越しに告げられ、そのまま俺も風呂に入った。鏡に映る生傷はこれまでの訓練や出動で得た一つの証だ。引け目などは感じないが、怪我をすると祖父が悲しむ。彼は口にこそ出さないが、しばらくは口数がへるので一目瞭然だ。


 布団は薄く、この時期はともかく冬は悲惨だ。しかし、それすらも清貧だと思えば、支障もない。思い込みとは素晴らしい。

 タオルケットを腹にかけ、小さな卓上ライトで手元を照らす。寝る前に父の日記を読む。これが俺の愛読書なのだが、叱られた演習と、東風との帰り道、機嫌のいい祖父――たったこれだけのことでも誰かに、父に報告をしたいのかもしれない。

 日記にはいつも読むページがある。とある激しい戦いの前日と、その翌日だ。


『天気は晴れ。雲もない。機体調子良好。死に向かう人間とは、むしろ雄々しくあるべきである。目を背けても仕方なく、やってやるという気概がなければならない』


 写真の父はとても穏やかで人が良さそうだ。眼鏡を鼻にかけ、戦争よりも小説家の方がよほど似合っている。

 だけどこの日記には彼の激しい心中が記録されている。


『晴れのち曇り。機体大破。今回も無事に生き延びることができた。だが被害は大きく、見知った顔が死んだ。明日は我が身である。常に努力を怠るなかれ』


 日記を閉じて目をつぶる。明日も魂鎧に乗るのだろう。休めるうちに休まなければいけない。いつ警報が鳴ってもおかしくないのだから。

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