イノセント・ダイブ

しえり

第1話 始まり

「何をしているの?」


 彼女との一番古い思い出だ。誰もいない公園であの子は俺に声をかけた。かなりきつい言い方だったのを覚えている。


「別に」


 ブランコに乗るでもなく、砂場をいじるのでもなく、ただベンチで空を見上げていた俺は、その凜とした声でようやく彼女を見たのだ。

 白いワンピースに麦わら帽子。長い黒髪を夏風にそよがせて、俺のすぐそばで仁王立ちしていた。


「あそこに何かあるの?」


 彼女は空を指差した。まるで避雷針のように、太陽の光を一身に浴び、まっすぐ俺に純粋な疑問を投げかける。


「さあ。知りたくもない。空なんて嫌いだ」


 雲ひとつない綺麗な青空。吸い込まれそうで、自由で、綺麗。幼い俺はなぜだかそれが怖かったのだ。


「へえ。珍しいわね」


 彼女はおもちゃでも見つけたように、嬉しそうに微笑んだ。


「あなた、名前は?」

氷澄ひずみ大和やまと


 名乗ると彼女は目を丸くした。その理由はわからないが、とにかく驚いていた。


「そう。大和は空が嫌いなのね」


 この時は八歳くらいだったのかな。だからかもしれないが馴れ馴れしいとか、いきなりなんだとか、そんなことは思わなかった。ただ、この子が誰なのか気になっていた。

 蝉の鳴き声が響いていたが、その切れ間に車のエンジン音が轟く。今でこそわかるが、あれがリムジンというやつなのだろう。真っ黒で、胴が長い。公園の入り口を塞ぐように停車してあった。


「呼ばれちゃった。それじゃ、また」


 短く言うと彼女は車に乗り込み、どこかへ行ってしまった。

 たったこれだけの記憶。淡くもなく、華やかでもない。しかし、これこそ彼女との最初の出会いなのだ。彼女との、若松虎帯こたいとの出会いなのだ。




              ◇ ◇ ◇




 八年前、世界は四度目の大戦を迎えた。

 俺は疎開先の、首都である東京から北へ数百キロの福島県は会津若松市へ祖父とともに逃げ、今でもそこで暮らしている。

 今年は冷夏だそうだが、太陽は乱暴に暑さを撒き散らしていて、じっとりと張り付く額の汗をぬぐった。


「暑い」


 街路樹すらない登校ルート。独り言でも言わなければやっていられない。


「おーい!」


 ヤブ蚊を手ではらい、その声に振り返る。息を切らせた女の子が俺の肩に手を置いた。


「おはよう。大和」

東風こちか。おっす」


 東風右膳うぜんが短いスカートを揺らして、隣について歩く。彼女はハンカチを取り出して、首筋に当てた。夏になると彼女は冷蔵庫でハンカチを冷やしてから持ってくる。一時的なものだが、登校を乗り切るには十分らしい。


「くあー! こう暑いと訓練も嫌になるねぇ」

「そうだな。でも、あの中は意外と快適じゃないか」

「まぁね」


 授業の愚痴を言いながら、微妙な傾斜を登りきると、俺たちの校舎が見えてくる。

 国立会津国士学園。それが、今尚続く世界大戦の最前線、戦争のいろはを学ぶための養成所、国同士の喧嘩のためにつくられた不純な学校が、俺たちの母校だ。


「今年は涼しいみたいだけど、来年は」


 東風はそれに続く言葉を語らず、それきり静かに歩んでいく。俺たちに来年のことなどわかるはずもないのだ。

 空には空軍の型落ち戦闘機が列をなし、道路には戦車の轍。聞こえてくるのは鋼の擦れるノイズ。


「急ごう。遅刻したら罰走だ」


 二千百八年、夏。戦火が荒び、学生は皆兵士である。

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