第13話 藤森あやめは農家になる⑤
三歳の頃から一緒だった。
お隣さんで、幼稚園からずっと一緒にいて、あやめの将来の夢は「奏太くんのおよめさん」だった。それを聞いた奏太は「俺があやめを一生しあわせにする!」と先生の前で宣言した。
幼稚園から小中高、大学に至るまでずっと一緒だったのだ。
思い出すのは楽しかった日々。
二人で行った海。
二人で行った花火大会。
二人で過ごしたクリスマス。
お正月には両家を交えておせちをつついた。
「二人の結婚はまだかしらね?」と両家の親が言い、あやめは頬を染めたものだ。
いつからだろう。
あやめの愛が重く感じるようになったのは。
彼女は完璧主義者だった。
奏太が「そこまでしなくていい」と言っても聞く耳を持たず、どんどんと家事のスキルを磨いていった。見た目も奏太の好みのドストライクをいくようなスタイルを貫いていった。
あやめがその能力を遺憾なく発揮して花嫁修行を頑張れば頑張るほどに、残念ながら奏太の心は急速に冷えていった。
もっと普通の女の子がいい。ちょっと料理を焦がしてしまうくらいの失敗をする、隙がある子の方が気が楽だ。こんなに頑張り屋の彼女が一生側にいるのかと思うと正直に言って息がつまる。
「あやめの愛は、重すぎる」
この決定的な一言を出すのに迷いがなかったわけではない。別れた直後は気が楽だったし、「あーこれで他の子とも付き合える」と思ったし実際そうしてみた。
けれどどうだろうか。
付き合ってみると物足りない。あやめは奏太に対して文句というものを言ったことがなかった。いつも明るく、前向きな発言ばかりで、「奏太くんのためなら」と言って炊事洗濯掃除と言わなくても勝手にやってくれた。プレゼントしたものはなんでも喜んでくれた。
しかし現実にはそんな女は貴重な存在なのだと思い知らされた。
何もしないのにプレゼントばかりねだる子もいれば、やたらとネガティブな発言ばかりを繰り返す子もいる。仕事で疲れているのだから労って欲しいのに、構って欲しいと泣いてくるような訳のわからない子もいた。
次第に奏太はあやめが恋しくなっていることに気がついた。
そんな時に道で具合悪そうにしている女性に出会い、声をかけてみたらなんとそれはあやめだった。そのままぐったりとした顔色で倒れた彼女を抱えて救急車を呼び、共に乗り込み病院へと向かった。
意識のない彼女は明らかに痩せて疲れていて痛々しい。
彼女をこんな風にしたのは自分のせいだと罪悪感にかられた。
今ならば、もっとうまくに付き合える。
そんなことを考えながら奏太はあやめによりを戻したい、と告げた。
+++
「急にこんなこと言ってごめん。でも俺は本気だから、ゆっくりでいいから考えて欲しい」
爆弾発言を投下した奏太はそう言い残して病室から去って行った。あやめは一人病室の中でスマホを見る。時刻は午後四時。いい加減実岡に連絡を取らなければ本気で心配させてしまう。
点滴の管を引きずらないようスタンドを持ち、キャスターをカラカラと押しながら病室を出る。通話可能エリアまで行くと実岡の連絡先を表示させ通話ボタンをタップした。
しばしのコール音の後、実岡が出る。
「もしもし、どうしたの?」
「実は、熱中症で倒れてしまいまして。今病院にいるんです」
「えっ、大丈夫?」
途端に実岡の声が慌てた声音に変わった。
「はい、幸い大事には至りませんでした。一晩入院して明日帰ることになるので、実岡さんにはご迷惑をおかけしますが……」
「どこの病院?」
「中目黒にある目黒総合病院です」
「じゃあ明日、迎えに行くから待ってて」
「えっ」
「えっ、じゃないよ。病み上がりなんだから当然だろう。それともご実家で少し休んでから帰る?その方がいいかな」
「いえいえ、そこまで酷くないので大丈夫ですよ」
「じゃあ迎えに行くから待ってて。くれぐれも自分で車動かして帰ろうなんて思わないように。絶対だよ、待ってないと怒るから」
「あの」
「いいかな?」
「あ、はい」
常になく強い口調の実岡に押されるようにあやめは思わず頷いてしまった。フーッと長いため息が聞こえる。
「ごめんね、そんなに追い詰めるほど仕事させて……ともかく今夜はゆっくり休んで」
「はい」
心底申し訳なさそうな声を出す実岡にむしろあやめの方が申し訳ない気持ちになった。勝手に頑張って勝手に倒れたのはあやめだ。もっと体調管理に気を配るべきだったと悔やまれる。
スマホを脇に置き、ポスンと枕に頭を預ける。
なぜ奏太は今更になってやり直そうなどと言ってきたんだろうか。動揺が拭い去れない。
まだ気だるい体調に、うとうとする間もなく意識は引き摺り込まれた。
翌日の午後、実岡は本当に病院へとやってきた。さすがに農作業着ではなく普段着で迎えに来て、体調を確認してからひとまずローズマリー号の鍵を受け取ると車を取りに行った。
戻ってくると今度は退院手続きを済ませあやめの荷物を持ってローズマリー号の助手席へ乗るように促す。
「実岡さん、どうやってここまで来たんですか?」
まさか電車で来たのかと思い尋ねると実岡が答える。
「軽トラの片道レンタルだよ。納品物も積み込まないといけなかったから。納品終わらせてから来たから遅くなってごめんね。ていうか本当に帰って平気なの?車に乗ってても日差しはきついし、実家に行った方が……」
なおも気遣わしげにこちらを見ながら言う実岡にあやめは精一杯元気に言った。
「大丈夫ですって。昨日今日とご迷惑かけた分、明日からは精一杯働きますから!」
「何言ってるの、しばらくは無理しない。配達要員も雇うから大人しくしてて」
いつも優しい実岡はこの時ばかりは怖い顔をして言った。怖い顔とは裏腹に声は優しく、本当に心配してくれているのがわかった。あやめは頭を下げる。
「本当にご迷惑かけてすみません」
「俺の方こそ気づかなくてごめん。本当に……大事に至らなくてよかった」
車内は静かだった。エンジン音だけが聞こえる車の中、ローズマリー号の助手席の背に身を預けて目を瞑る。
実岡の隣にいると不思議と落ち着いた。がむしゃらに頑張り続けるあやめを優しく包み込んでくれる空気が実岡にはあった。
平日の空いている関越道を通って群馬へと入り、温泉街にも程近い見慣れた畑が視界に入るとあやめはホッとした気持ちになる。ローズマリー号が車庫に入ると、我が家に帰ってきたかのような錯覚を覚え、いやいやここは実岡の家だったと首を横に振る。あやめはあくまで住まわせてもらっているだけだ。
家の隣に設けられている作業場からはエンジン音を聞きつけたパートの佐藤さん、鈴木さん、田中さんが出てきた。
「実岡くん、あやめちゃん連れてきたかい?」
「あやめちゃん!大丈夫?熱中症だって?」
「だから頑張りすぎだって言っただろ、もう!配達なんてうちで暇してる息子とっ捕まえてやらせりゃいいんだよ!」
五十すぎのおばちゃんたちが口々に心配と安堵と小言を投げかけてくる。
「心配かけてすみませんでした」
「本当、心臓止まるかと思ったよぉ!」
「もう、これからはもうちょっと手を抜くんだよ」
「うちの息子にはもう話つけておいたから、明日からは配達任せてちょうだい!」
どうやら田中さんの息子が納品に行くことになっているらしい。しかしそうは言ってもあやめは販路開拓のために東京に行かなければならない。ならば一緒に行って配達を手伝い、あやめだけが東京に残って営業回りをするのかな。
「ひとまず藤森さんは涼しいところで休んで」
そんなことを考えていると、実岡がさりげなく背中を押して玄関にあやめを押し込み、冷房の効いているリビングの座椅子へと座らせた。冷たい麦茶を手渡してから実岡もあやめの前にあぐらをかいて座ると、何やら真剣な顔をして話を切り出す。
「藤森さんが倒れたって聞いて、俺は本当に驚いたし申し訳なく思ったよ。それで考えたんだけどさ、販路の開拓はもうやめないか?」
「え……でもそれじゃあ、残りの野菜の行き場がなくなってしまいます」
「うん。思い出したんだ。藤森さんがここにくる前にやっていた仕事ってなんだったっけってね」
「それは、店舗開発事業部ですけど」
「そう。だからさ、自分たちで店を作ってそこで野菜を使って料理を出せばいいんじゃないかって思ったんだ」
「あ……」
そうだ。そうだった。あやめは店舗開発事業部として新店舗のオープンに携わり成功を収めてきたのだ。実岡はあやめの目を見て力強く頷く。
「ここは温泉街に近くて、週末になると都心からお客さんがやってくる。公道に面した空き店舗を買い上げて改装して、シェフを雇ってレストランを開こう。それなら配送の手間もかからないし、料理を食べたお客さんが野菜を買って帰ってくれる可能性も高い。そう思ったんだけどどうだろう」
「いいと思います」
一も二もなく賛同した。もちろん成功させるためには相応の準備が必要だ。お客を呼び込みやすい立地の確保、しっかりしたコンセプトの確立、シェフの雇用。何よりも必要なのはお金とやる気だ。
「実岡さん、確か預金が心もとないって言ってましたよね」
「借金くらい背負うさ」
「ダメです。私にいい考えがあります」
死蔵していた結婚資金一千万を、惜しみなく投資する時が来た。
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