第12話 藤森あやめは農家になる④

 四苦八苦しているうちに七月に入ってしまった。梅雨が過ぎて照りつける日差しは容赦なく体力を奪い、炎天下に外に長時間いると命の危険を感じる季節になった。今年の夏は特に暑くなるとニュースで言っていた通り、連日最高気温を記録するような猛暑日が続いている。

 そんな中でもあやめと実岡は諦めない。もう夏野菜の収穫はピークに達しつつあり、一日たりとも休むわけにはいかなかった。

 野菜の納品を終わらせたあやめはスーツに着替えて営業回りに奔走する。

 苦労して育てた野菜の半分は行き場のない状態にある。赤く色づいたトマトが、みずみずしさをたたえたキュウリが、どっしりと実の詰まったかぼちゃが、買い手がいないという理由だけで処分されていく現状は我慢がならない。

 あやめは焦っていた。

 早く、早く取引先を決めないと!

 このままお盆にでも入ってしまったらどこの会社も休みになってしまう。そうなる前に一社でも多く、取引を決めてしまいたい。 

 実岡は畑で作物の世話をし、個人消費者向けに出荷する野菜たちの箱詰め作業を行なっている。おかげさまでネットを介した販売は順調だが、それだけで全ての収穫量をさばける状態にはならないだろう。


 真夏の太陽は東京のコンクリートジャングルに跳ね返って熱線を浴びせ、ギラギラとうだるような暑さのせいで空気が揺らいで見えた。

 上からも下からも熱波が押し寄せてくる。

 汗が滴り落ち、スーツの中は全身が汗ばんでいる。

 ヒールを履いた足が痛い。

 額からは汗が滴り、体内は行き場をなくした熱が渦を巻いている。

 あやめは視界がぼやけて見えることに気がついた。


「あ……はあっ」


 気持ちが悪かった。たまらず足を止めてその場にうずくまる。

 連日の激務に加えて追い詰められている精神的なプレッシャー、そしてエアコンでキンキンに冷えた建物の中と灼熱の外歩きを繰り返して気温差に体がやられ、あやめは知らず知らずのうちに体力が相当削られた状態にあった。

 それでもやらなければならないことがある。

 足を止めてしまえばそれまでだ、約束している先方にも申し訳が立たない。

 何よりも、待ってくれている実岡のためにもあやめは動き続けなければならない。

 あやめの気持ちとは裏腹に体が言うことを聞かなかった。

 指先が痺れて視界が暗くなってくる。あれだけ流れていた汗が引き、代わりに背中が冷えた汗で驚くほど冷たい。

 もう意識を保っていることすら危うい状況の中、無機質なコンクリートを見つめるあやめの視界に一足の革靴が見えた。


「大丈夫ですか?」


 視界が暗転する直前、かろうじて見たその顔は逆光で誰のものかはわからなかった。

 ただその声はひどく懐かしく、同時にあやめの胸の内に焦がすような何かが湧き上がる。

 そうしてあやめは意識を手放した。


+++


  目が覚めたあやめが最初に見たものは白い天井だった。瞬きを繰り返し、ゆっくりと起き上がる。寝かされている硬めのベッド、周りはカーテンで仕切られていて見えない。

 来ていたはずのスーツは脱がされていて脇の小机の上にたたんで置かれていた。今身につけているのは、簡素な寝間着のようだった。左腕には針が刺されており、管が通されて脇に置かれている点滴につながっていた。

 ミルクティーブラウンの髪をくしゃりとかきあげて状況の把握に努めた。


「ここは……病院?」


 何があったんだっけ。確か、歩いていたら気持ち悪くなって倒れた気がする。誰かに声をかけられたような気もしたけど。


「あ、今何時かしら!?」


 先方との約束があったのに、こんなことをしている場合ではないと立ち上がろうとすると、カーテンがシャッと開いて看護師さんと目があった。


「あら、藤森さん。目が覚めたのね、よかった」


「あ、はい」


 その看護師はにこりと微笑むとあやめを即座にベッドに戻してテキパキと体調を確認していく。あまりの手際の良さにあやめはされるがままとなった。


「あなた熱中症で救急搬送されたのよ」


「え、そうなんですか?」


「そうよぉ。念のため今日は入院よ。助けてくれた方にお礼を言ってね」


「はい」


 看護師がにこやかに去って行き、そうして入れ替わりにカーテンから入って来た人物を見てあやめの心臓が止まりそうになった。


「奏太……」


 そこにいたのは紛れもなく、かつてあやめの恋人で幼馴染の吉野 奏太だった。


「久しぶり」


 奏太はやや気まずそうながらもカーテンの内側に入って来てベッドのすぐ側にあったパイプ椅子に腰かける。病室が狭いので距離が近い。

 あやめは上半身だけを起こして奏太に声をかける。なんとなく顔は見れなかった。


「あの、助けてくれたの?」


「ああ。びっくりしたよ、具合の悪そうにしている人がいるから声をかけて見たら、あやめだったんだから。仕事中だったのか?」


「うん、そう。先方と約束があったんだけど、すっぽかしちゃった。お詫びの連絡を入れないと……」


 言って立ち上がろうとするあやめを奏太が押しとどめる。久々に触れた彼の手は白く細く、いつも見ている実岡の掌とは似ても似つかない。実岡の手はもっと日に焼けて真っ黒で、ゴツゴツしている。


「倒れて搬送されたんだからまだ休んでないとダメだろ。連絡が必要なら俺がしておいてやるから」


「直接私からお詫びをしないと相手方に失礼になるわ」


「そりゃ普通はな。今は緊急事態なんだから仕方ない。ひとまず俺が事情説明だけするから、あとできちんとお詫びの連絡しておいてくれ」


「……お言葉に甘えて、そうする」


 有無を言わさない奏太に素直に従い、あやめは先方の連絡先を教える。スマホを持って病室から出て行く奏太の姿を見送ると人知れずため息が出た。

 別れを告げられたあの日からもう四年経ったが、奏太はあまり変わっていない様子だった。真夏も近いというのにスーツを着こなし、短く切った黒髪をきちんとセットしていて、髭<ひげ>の一本も剃り残しがない。いかにも都会のビジネスマンといった風貌だ。

 それに比べると自分はどう見えるのだろうか。最近では化粧もヘアセットも服の選び方も、以前に比べるとおろそかになっている。指先は荒れていて、マニキュアは塗らなくなって久しい。実岡はそんなことを気にしていないが、奏太に会う時の自分はいついかなる時も百パーセント気合を入れてメイクをして服を選んでいたため、こんな姿を見られるのはいたたまれない。

 柄にもなくセンチメンタルになっていると、奏太はすぐに戻って来た。


「お待たせ、連絡しておいた。お大事にしてだってよ」


「ありがとう」


「にしても、今の相手って都内で小規模に展開してる飲食チェーンレストランの本社だろ?何の用で会いに行く予定だったんだ?」


「実は今、私、農業していて」


「あやめが農業?」


「うん。色々あって有機野菜を売る場所を探しているの。日に日に収穫量が上がっていくのに、このままだと販路がないから棄てることになっちゃうから急いでて」


 説明しているうちに焦燥感が湧き上がる。そうだ、こんなところで休んでいる暇はない。今も実岡があの畑であやめが帰ってくるのを待ちわびていることだろう。連絡もなしに帰らずにいれば心配させてしまうし、とにかく電話だけでもしなければ。

 そう思って三度立ち上がろうとするあやめを奏太が慌てて押しとどめる。


「ちょ、休んでないとダメだって言ってるだろ」


「離して。実岡さんに連絡しないと」


「実岡って誰だよ」


「一緒に農業やってる人。心配させちゃう」


 押し問答を繰り広げるうちに、奏太がふうとため息をつき、困ったように眉尻を下げた。


「……変わんないね、あやめは。相変わらず、やると決めたことに全力投球してるんだ」


「だってそれが私の性格だから」


 花嫁修行も、仕事も、農業も。

 自分がやると決めたからには全力でぶつかって、こなして、やり遂げたい。

 今のところ上手く行ってるものなんて何一つないけど、それでも頑張りたいと思うのだ。だって諦めることなんていつだってできる。もう無理だと思って足を止めてしまうのは至極簡単なことだけど、それは同時に自分の限界を自分で決めてしまうことだ。なんて勿体ないことだろう。

 諦める前に、精一杯やりたい。


 そんな想いを汲み取ったのか、奏太はあやめの肩を押しとどめていた手を滑らせて、あやめの手をそっと握る。


「日に焼けたな。それに、手荒れしてる。マニキュアもやめたのか」


「農業やってるとそれどころじゃないの。これでもケアしてるんだから」


「それにちょっと痩せた。やつれたっていうのかな。顔に疲れも出てる」


 言いながら奏太はあやめの頬に手を触れようとする。あやめはなぜだか、その手を反射的に払いのけた。


「あ……ごめん」


「いや、いいんだ」


 奏太は手を引っ込め、所在無さげに膝の上に置く。


「ごめんな、こんなにあやめを追い詰めたのは、俺だ」


「そんなことないよ」


「いいや。あの時俺があんなこと言わなけりゃ、今頃あやめは相変わらず綺麗な見た目のままで東京で仕事して、俺の隣で笑ってくれていたんだ」


 奏太は切なそうな表情を浮かべた。そして何かを決心したようにあやめの目を力強く見据え、言う。


「なあ、こんなこと今更言うなんてって思われるかもしれない。けどやっぱり、こんなにやつれた顔のあやめを見ているのは辛いんだ。俺たち、もう一度……やり直さないか」

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