第2話 乱される男心

 まるで、僕とあきのために用意されたかのような宴に、尻込みしたい気持ちを奮い立たせて、吉井に言われるまま、あきの隣にあぐらをかいた。

 

「初めまして~」

 あきは、首をかしげて僕の顔を覗き込む。

「初めまして。ども……」

 真っすぐこちらに向けられた視線に耐え切れず、俯いた。


 ゆるくウェーブのかかった髪が揺れて、柑橘系のあまずっぱい香りが鼻先をくすぐる。

 顔は昭和のアイドル系で、どこか垢ぬけないのだが、それがなんだかかわいらしくも見えた。天然の濃く長いまつ毛が横顔を印象的にひき立てている。

 まともに目を合わせる事ができないのは、初めて会う人と話をするのが苦手なだけであって……。

 どうか、悪い印象を持たないで欲しい、と祈る。


 各々、飲み物を注文する。

 僕と吉井は生ビールを、にいなはレモンサワー。あきは、こじゃれた名前のカクテルを注文した。

 こんな店にもそんなしゃれたカクテルがあるとは驚いた。

 手持無沙汰を解消するため、手を拭いたおしぼりで、汚れてないであろう口元を拭う。


 何度も拭う。


 既に、料理の注文は済ませてあるらしく、店員があわただしく料理を運んでくる。

「大根とシラスのサラダでーす」

 入口に一番近い吉井が受け取りテーブルに置いた。


「取り皿持ってきますねー」

 吉井は店員が去るのをチラ見して、「酒の前に料理持って来るんじゃねぇよ」。

 店員に聞こえない程度の小さな声で、冗談ぽくぼやいた。

 全然面白くないのだが、場の雰囲気を悪くしないためか、二人の女子がケラケラと苦笑した。

 その様子にご満悦の吉井。

 スベっても気づかない吉井の鈍感力だけは羨ましい。


 ぼやいた甲斐もなく、飲み物はすぐに運ばれた。

 お約束通りの乾杯をして、久しぶりの生ビールを喉に流し込む。

 連日のアルコールで焼けた胃や喉が刺激され、自然と眉間に力が入るが、1ミリほど肩の力が抜けた。そして3ミリほど楽しくなってきた。

 改めて生ビールの力はすごいと感心する。


 二口目のビールに口を付けようとしたところで「池平さん、でしたよね?」。

 いきなり、あきにそう質問され、口に含んだ少量の液体を、胸元に少しこぼしてしまった。


 ふふっとあきは笑って、僕が使ったおしぼりで素早く拭ってくれた。


「あ、ごめん。ありがとう」

「お仕事は? 何されてる方ですか?」


「あー、それが、今は……無職」


 情けない事に、僕は元カノを寝取られた後遺症で、仕事にも行けなくなってしまい、クビ同然で自主退社に追い込まれた。

 すずめの涙ほどの退職金を渡されて、それでどうにか食いつないでいる。


「3か月前までは、吉井と同じ会社の経理で……」


「そっか、じゃあ今は毎日がお休みだ」

 胸元にこぼしたビールを拭うみたいに、あきはそう言った。


「はは、長期休暇……」と、僕。

 あきは少しだけ頬を緩めて、ほんのり赤い液体が入ったロンググラスを口元で傾けた。

 一応、スベった事は理解している。


 他にもっとおもしろい事を言わなくては……。


「充電中!」

 僕の渾身の自虐ネタに、あきは少し間を置いてクスっと笑った。

 気を取り直したように赤くはじけるカクテルで喉を鳴らす。

 何も聞かないで欲しいという顔をするのはかっこ悪い。なんでもない事のように振舞いたかった僕の心情まで見すかしたかのように「よきよき」と言った。


 対面に座る吉井とにいなは、親し気に耳元に口を寄せ合い、何やら楽し気に話し込んでいる。サラダを取り分けながら、時々「あっははははー」と言う、にいなの笑い声だけが宴席に華を添えている。


 焼き鳥や揚げ物が次々とテーブルを覆っていく。

 いつの間にか、吉井の分をにいなが、僕の分をあきが取り分けるという暗黙のルールが出来上がり、一つのテーブルに座っていながら、あちらとこちらで別の世界が出来上がっていた。

 自然と隣に座るあきと会話せざるを得ない状況である。

 途切れがちの会話を繋ぐのはいつもあきで、僕は相槌と愛想笑いを繰り返す。

 これではいけないと、 苦し紛れにあきの持つグラスに視線を向けた。


「それ、なんていうカクテルだったっけ?」

「ああ、これ? スプリッツァールージュって言って、赤ワインを炭酸で割っただけのカクテル」

 カクテルと言えば、モスコミュールやジントニックくらいしか思いつかないカクテルビギナーの僕にとっては、さして話題にする事もなかったのだが……。


「おいしいよ。一口飲む?」とグラスを差し出され、2秒、時間が止まった。


 差し出されたロンググラスに添えられた華奢な指先は、艶やかなさくらんぼ色で、まるでスプリッツァールージュ。


 止まった時間を動かすかのように、あきがケラケラと笑い、金縛りを解く。

「えぇ? なに? まさか、間接キッスー? とか思ってるわけーーー?」


「はぁ? まさか、中坊じゃあるまいし」


 その声に反応した吉井が、野次馬のようにこちらに興味を向ける。


「あきちゃん、こいつセカンド童貞だから、いじめていいよ~」


 吉井の言葉で急に頭部全体が熱を持つ。地味にムカつく。

 セカンド童貞と言われるほど、ご無沙汰でもない。

「うるせぇ。まだ三ヶ月じゃ!」


 未だ、元カノ以外の女性を抱いた事がないだけで、間接キスぐらいは……何度かある。

 別にモテなかったわけではない。なんていうかその……、父子家庭で、男ばかりの兄弟で、男子校出身で、女性に不慣れなだけで……。


 僕は、あきのグラスを半ば強引に奪った。

 グラスのふちに残る、ほんのりとピンクがかった唇の痕跡。

 その少し横に口を付けて、グラスを傾けた。


 間接キスを意識したわけではない。訪れるかどうかわからない、ワンチャン彼女が戻って来るかも、という未来が脳内をよぎっただけだ。

 

 じゃあなぜ合コンに来たのか? という矛盾からは目を反らした。


「うん。おいしい。爽やかで飲みやすい」


 グラスを返すと、あきは僕が口を付けた個所をチラ見して、その部分にゆくっりと唇を付けた。僕に向けた視線を維持したまま、意味深な笑みを湛える。


 その瞬間、封じ込めていた元カノ以外の女性への興味が、内側からふつふつと胸を叩いた。

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