君は春一番と共に……

神楽耶 夏輝

第一章 Side-智也・君は春一番と共に

第1話 NTRの後遺症

 胸元をかきむしりながら、文字通り浴びるほどの酒に溺れ、眠りに落ちる毎日だった。

 ベッドに体を投げ出してはシーツを握りしめ、スマホのスクリーンに彼女の写真を写し出し、まくらの奥に、ベッドカバーの隙間に、彼女の匂いを見つけては自慰をした。

 彼女とまじわった場所は、徐々に自分の匂いに移り変わっていくというのに、時間はあの時から止まったまま。

 ベッドサイドに置いた卓上カレンダーだって、去年の12月で止まっているのに、腕時計の日付だけは容赦なく進み、季節は冬から春へとかわっていた。



 夜はまだ随分冷え込むというのに、街は華やかなパステルカラーに彩られ、桜ソングで賑わっていた。

 もうこんな季節か、と改めて驚く。

 去年のクリスマスイブで止まっていた僕の時間は、まるで無理やり再生ボタンを押されたかのように動き出した。

 

「めっちゃかわいい子用意してるからな。びびるなよ、親友!」

 僕を親友と呼ぶ知人の吉井は、いやらしく口の端を上げた。


「ご忠告どうも」


 元同僚の吉井が開催する合コンは、確かに女の子のレベルが高いと定評がある。それなのに、全く驚かないのは吉井がこうしてハードルを上げるからである。


 クリスマスイブまで一緒に暮らしていた彼女と知り合ったのも、吉井が開催した合コンだった。その合コンに、確かもいたんだっけ。


 ひと際賑わっている駅前通りを、夜風から体を守るように背中を丸め、両腕を組み、並んで歩く男二人。

 あごに手を添わせると、ずいぶん伸びた無精ひげが少しだけ気になった。

 ひげを剃る事すら億劫だったこの3か月。そんな日々にピリオドなど打てるのだろうか。

 半ば強引に僕を連れ出した吉井には、もちろん善意しかない事はわかっている。

 いい加減、こいつを前進させよう。どうせ、そんな意図なのだろう。


 去年のクリスマスイブ。

 僕は、三年一緒に暮らした恋人を、寝取られた。

 相手の男は、三田という元同僚。アレのサイズばかりを自慢するダサいヤツ。絶対セックスは僕より下手にちがいない! 

 しらんけど……。


 たった一度の過ちを、僕はどうして許す事ができなかったんだろう。半ば強引に三田に抱かれた彼女を、僕はどうしても受け入れる事ができなかった。


 春一番が顔面を殴るように吹きつけるから、眼球を刺激して涙がにじむ。吉井に今の顔を見られたら、そう言い訳しよう。

 気付かれないように、そっと肩口で涙を拭った。


 体とは裏腹に全く前に進めていない気持ちを引きずりながら、会場の居酒屋へ向かう。

 吉井が連れ出した場所が、風俗店じゃなくてよかった。僕はそっと胸をなでおろす。

 まだ他の女を抱ける気がしない。


 電車を降りて、5分ほど歩いただろうか。

 炭火と濃いたれの匂いが漂う安っぽい居酒屋に辿り着く。入り口には赤い提灯がいくつもぶら下がり道行く人を誘っている。


 吉井は言う。汚い店ほど、女はきれいに見える。

 つまりは、掃きだめの鶴がたいそう美しく見えるのと同じ原理だと。

 逆も然りである。ブランド物のカラフルなトレーナーにブルージーンズをこぎれいに着こなした吉井は、この店ではさぞかっこよく見えるのだろう。

 無精ひげのくたびれた男でも多少はよく見えるのだろうか。

 ニットの毛玉を二、三粒つまみ、鼻くそのようにとばして無駄な抵抗を試みる。


 ガラガラとサッシの引き戸を開けると、炭で獣を焼く匂いで充満していた。

 「らっしゃい」

 こわ面の店主が見た目とはちぐはぐに、愛想よく声を張り上げる。

 10人ほどが座れるカウンタ―席はいっぱいで、背中を丸めたサラリーマンたちが飲食に没頭している。その中の3人ほどがこちらに振り向いた。


 この瞬間が嫌いだ。


 どんな奴が来たのか、知り合いか、常連か。なんだ違うのか。とでも言いたげに何事もなかったかのように視線を戻す。


「いらっしゃいませ。こちらへどうぞ」

 店主と揃いの黒いシャツを着たアルバイトらしき女の子が、店の奥へと先導する。

「忙しそうじゃん」

 よく利用する店なのか、吉井はこなれた様子で軽薄に声をかける。

「お陰様でー」

 店員もこういう客には慣れた様子で受け答える。


「こちらです」

 茶ばんだふすまで隔てられた部屋を指した。

「ありがとう」となれなれしく言った後、吉井がふすまを開けた。


 僕はその瞬間、俯いた。

 部屋は思ったよりも狭く、何とも場違いな、華やかな女の子が二人、ぎゅっと詰まっていたのだから。

 真っ先に視界に映ったのは、こちらを向いて座っている、柔らかそうな茶色い髪の女の子。大きく胸元が開いたフリルのワンピースは、朝顔のように眩しい。

 胸元からはたわわな双丘が、くっきりと谷間を作り照明に反射してぷるんと輝いている。

 本能と理性の狭間で、視線は行ったり来たりと落ち着かない。


「こんばんはー。初めまして」

 はつらつとした声がはじけ飛んだ。

 吉井に言ったのか僕に言ったのかわからなかったが、俯いたまま頭を下げた。そのまま金魚のフンよろしく、吉井の後について座敷に上がった。


「にいなちゃん、あきちゃん久しぶりー」

 吉井の挨拶に反応して、こちらに背を向ける形で座っていた女の子が「お久しぶりー」とテンションを上げる。続いて奥に座ってる子も「おひさしぶり~」と、片手を挙げた。

 ということは、さっきのはじめましては僕に言ったんだなと理解した。


「こいつ、俺の親友で、池平智也いけひら ともや

 吉井が僕の背中を押す。


「あ、あー、どうも」


 28にもなってこんなあいさつしか出来ない自分が恥ずかしい。

「すいません。なんかこういうの久しぶりで」

 取ってつけたようにそう言って、後頭部をポリポリとかいて見せる。


「お前、向こう側に座れよ」

 段取りよく、吉井がアキの隣を指さした。

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