第281話 喪失の果てに
――世界会談の場でアグルエが決意表明を果たした頃、エリンスは未だ深い眠りの中にいた。
黒いまどろみの中、まるで水の中を漂うような奇妙な浮遊感に包まれていることに気がついた。
――ここは?
呟いたはずの言葉は声にはならず、ごぽごぽと気泡が昇っていく。
自分がどこにいるのか、どうしているのか。まるで理解もできずに、しかし、重たい水の中に沈んでいるのだと理解した。
そう意識しはじめると、途端に息苦しさに支配された。
慌てて息を吸おうとしてもそうすることはできず、ごぽごぽと、吐き出した空気は暗い水中へ気泡が昇っていく。身体に纏わりつく重たい感覚に腕を振り回し藻掻いて、詰まる息を押さえるように喉元へと手をやった。
――『エリンス!』
息苦しい。
だけど、ふいに聞こえたそう呼んでくれる懐かしい声に導かれるように、エリンスは右を向く。
僅かながら、暗い水底の先に白い光が見えている。
――『エリンス!』
もう一度はっきりと聞こえた声に導かれて、エリンスは吸い込まれるようにその光のほうへと泳いでいった。
胸元に溜まった苦しさになりふり構わっていられずに、藁にも縋る思いで手を伸ばす。
『エリンス!』
男の子の声が、エリンスを呼んでいる。
忘れるはずもなく、それはエリンスがまだ五歳の頃に出会った幼馴染の声。
――どうして……ツキトはもう、死んだのに。
エリンスがそう思って白い光を掴むと、周囲の光景は一変した。
鬱蒼とした森の中の獣道、五年前――十二歳の姿のままのエリンスは、横に並ぶ同じような背丈をしている幼馴染、ツキトと何かから逃げるように駆けていた。
「こいつはやばいかもしれない!」
緊迫したように叫んだツキトは、既に鞘から剣を抜いていて、エリンスもまた剣を手にしていた。
その場面は、忘れるはずもない。
口から火を吹く魔族との遭遇――出会ってはいけなかった、運命の分岐点。
あの日、師匠の話を盗み聞きしてしまったエリンスは、ツキトと二人、禁じられていた森の奥まで足を運び、そして、出会ってしまった。
「エリンス! このままでは二人共倒れだ、分かれて逃げよう!」
あの日出会った魔族――ダーナレクから逃げている最中、ツキトはそう言った。
それがどれだけ危険な提案で、ツキトがどんな覚悟を決めていてそう言ったのか。
それも、今となってはわかってしまう。
「ダメだ! ツキト!」
しかしエリンスがいくら叫べど、夢の中の彼も、そして、目の前にいた彼女も、エリンスのほうを振り返ってはくれなかった。
突如として、また周囲の光景は一変する。
真っ白な空間へ投げ出され、エリンスは駆けた勢いのままに転びそうにもなって足を止めた。
「すまぬな、エリンス。約束を、守れそうにない」
小さな背中を向けた友が、白い空間の中に浮かび上がった。
夢の中だからだろう。次から次に、エリンスのトラウマを抉るようなシーンばかりが繰り返される。
いつの間にか現在の姿まで成長したエリンスは、自身の手のひらを見下ろして、呆然と立ち尽くしてしまった。
エリンスは咄嗟に一歩を前に出し、そしてやはり同じ言葉を吐き出した。
「ダメだ! ツキノ!」
だけど夢の中であっても、やはりツキノは止まってはくれなかった。人の姿を取り戻した彼女は横顔を向けて、にこりと微笑むだけだ。
その赤銅色の瞳が涙で煌いていたことにも、エリンスはあのとき気づいていたのに。
手は届かない。受け止められやしない。強くなると誓っても敵わなかった。強くなんてなれなかった。胸を締めつけるこの重さは、どうしようもない無力感。暗い水底へ沈んでいた想いは、すぐそばにあった温もりを失ってしまった喪失感だ。
なんだかんだと言いながら、一番近くから旅を見守ってくれていた優しい温もり。
いつだって導いてくれた。いつだって見守ってくれていた。頼ってはいけなくて、だけど、頼りにはしていた。
そんな彼女に、最期の決断をさせてしまった。
――どうしてこんな夢を見ているのか……そうだ、俺はまた、ツキノに救われた。
ようやく思い出してきて現実味が帯びてきた。現実味だなんて、夢の中だというのにおかしな話だとも、エリンスは思った。
――しかし、ここは本当に夢の中なのか?
そう考えついて顔を上げると、白い空間の中、浮かび上がったかけがえのない友の姿は、まるで霧散するようにして消えてしまう。
ただエリンスは、目の前にある白い光に導かれるように、一歩ずつ歩きはじめた。
――目の前の一人を救えなくて、勇者になんてなれるはずがない。
ツキノは別に助けてほしかったなどとも思っていないだろう。彼女も彼女なりに、二百年という長い時間の中、考えた末にした決断もあったのだろう。
――だけど、そんな一番近くにいた人も救えなかったことが、単純に悔しいんだ。
力になれなかった。力が及ばなかった。
エリンスとアグルエ、二人の前に立ち塞がった『神の器』たちのことを思い返すと、余計に悔しくもなる。
そう思っていると、果てもなく途方もない白い空間を歩いていたエリンスの前に、突然白い影が浮かび上がった。
エリンスのことを嘲笑うように浮かび上がる
エリンスの剣をへし折ったときのように、笑うクラウエルの影。
揺らめく光のようにぼんやりと浮かんだ二人の姿は、あのときの力の差を思わせるように、どんどんと巨大になっていく。
エリンスは呆然と見上げながら立ち尽くして、握っていた拳を振り解いた。
力が抜ける手のひらからは白い光が溢れ出していて、手を放せばその温もりが消えていくようだ。
――こいつらにも、勝たなきゃいけない……いけなかった。
幼い頃、勇者に憧れ、勇者候補生になると決意した想いが、ツキトに引っ張られ、ツキノの力に支えられ、ここまで導いてくれた。
だけど、憧れや夢に見るだけではダメだった。
勇者候補生として旅をして、世界の真実を知って、思惑を打ち破るためには――。
憧れや、夢じゃない。世界を変える……世界を救う。たしかな想いが必要だった。
――『……まだ、全てが終わったわけでは、ない』
魔王が最期に呟いた言葉が胸のうちに広がっていく。
――『希望を託す。二人に未来を紡ぎ、この世界に訪れる真の救済を信じている』
友の言葉が繰り返される。
託された想いを胸に、剣が折れようと、戦わなければいけない。
そう思い返したとき、ふいにエリンスの手元には折れてしまった
アグルエと出会って、旅立ちを果たして、そして願った星空に、決意した想いが湧き起こる。
――『俺はもっと強くなる。そして、勇者になる――』
きみを守れるほどに、強くなる――そう決意した想いが。
思い返したところで、エリンスの胸のうちから白い光が溢れ出した。
エリンスは驚きながらも胸に両手を当てて、その力を抑え込むようにと願った。
そうして覚悟を決めてもう一度二つの影を見やると、
――こんなところで……凹んでばかりもいられない。立ち止まってもいられない。
「そうじゃぞ、エリンス」
いつもの調子でからかうように、だけど、優しい声色でそう呼んでくれたツキノの声がすぐ後ろから聞こえて、エリンスは慌てて振り返った。
だけど、そこにエリンスが想像したように笑っている彼女の姿はなくて、途方に広がる白い空間だけが広がっていた。
「はは……これは、どうせ夢だ……」
本当に夢だったのか――妙にはっきりとした感覚は眠っているはずなのに、脳裏に刻まれているようだ。
エリンスは開いた手のひらを見下ろして、手のうちに溢れる白い光をもう一度ぎゅっと握った。
――『エリンスは、弱くなんかない。ちゃんと、わたしのことを、救ってくれたから』
最後に思い出したのは、悔しさを分かち合った彼女の涙を流した顔だった。
アグルエもたくさん悩んだのだろう。いっぱい迷ったのだろう。だけど、エリンスが追いついたとき、抱き止めることができたとき、彼女は再び手を取ってくれた。どうしようもない強大な敵を前にして、きっとアグルエだって無力さを痛感させられていたはずなのに。
それでも、帰還を果たしたあのとき、アグルエは真っすぐと前を向いていた。一緒に想いを共にしてくれている。
どうしようもなく、好きだから。もう彼女を泣かせないと約束したのだから。
そんな紡いだ想いこそが、今のエリンスを唯一支えてくれているものだった。
目の前から友が消えていくときに感じた無力さと共に、勇者の力までが消えていくようなそんな想いを味わった。
あれは――白の軌跡で、初めて勇者の試練に挑んだ時に感じたものに似ていた。
想いこそが力であるのだ。
ならば――まだ、紡げるはずだ。
そう想えば想うほどに、近くに寄り添ってくれるアグルエの香りが強くなる。手を取り合った彼女が、今もまだ戦っているような気配が胸の中に溢れていく。
一人で何か大勢に向かって声を張り上げて、頭を下げたアグルエの姿が思い浮かんだ。
「おかしいよな、夢のはずなのに……」
妙にはっきりとした感覚を
――だったら。
思い返して、再び振り返り、
眠ってばかりもいられないだろうと。彼女一人に背負わせるわけにはいかないだろうと。
二人で背負うと決めたのかだから。二人で進むと決めたのだから。
エリンスは覚悟を持って一歩を踏み出す。
白い空間の中、ふいに浮かび上がった透明な階段を一歩一歩、確実に昇っていく。
◇◇◇
エリンスが身体を起こすと、そこはベッドが十台ほど並ぶ見慣れない一室だった。だが、どこか落ち着くような静かな空気に、そこが勇者協会総本部であるサークリア大聖堂の医務室であることはすぐにわかった。
「帰ってきたんだよな……」
目の前で起こった何もかもが夢であってほしかった。だけど、そうではないのだと胸に灯る熱い想いがそう語る。
ベッドのサイドテーブルの上には、剣身が半ばから折れてしまった
その空から、もう何かがはじまっているのだろうということだけを感じ取って、エリンスはふいに感じた人の気配へと目を向けた。
窓際のベッドは直前まで誰かが寝ていたように毛布がめくれていて、そして、その逆、エリンスのベッド脇に置かれていた椅子の上に座って、エリンスのことを見つめている人がいた。
まるで生気がないような、透明な存在感。エリンスが気付いて目を向ければ、だけど彼女は微動だにせず、エリンスの顔を無表情のままに見つめていた。
金色の刺繍が施された白いローブ、薄いピンク色の髪、薄いアンバー色をした瞳。ただ、そんな彼女の瞳が薄っすらと白く光を発している。
「メイルム?」
エリンスが疑問に思ってそう彼女の名を呼んでも、メイルムはじっとエリンスのことを見つめていた。そんなメイルムの額に、何やら白い紋章が浮かび上がっていることにも気がつく。
「目覚めましたか、勇者を継ぐ者よ」
メイルムの声で静かに語る
「……メイルムじゃないな」
エリンスがこたえれば、彼女はこくりと頷いた。
肯定の意味だろう。しかし、エリンスが彼女から感じた気配は、どこか安心するようなもので、彼女の光る眼差しはずっと見守ってくれていたもののように感じられる。
彼女はすっと立ち上がってから口を開いた。
「……わたしは、ランシャ・スターンス」
そうなのだろうとエリンスも思っていたが、彼女はメイルムの身体で、メイルムの声でそう名乗った。
「聖女……」
「今は、彼女の身体を借りています」
アグルエの言葉によれば、普段は魔竜の中にいるという聖女の魂。どういう理屈かエリンスには理解できそうにもなかったが、その宿主をメイルムに移し替えているということだろう。
どうしてそのようなことをしているのかは、聞くまでもない。
「あなたに……話しておきたいことがある」
アグルエと言葉を交わすことができる魔竜ではあるけれど、エリンスに対して、直接伝えたいことがあるようだ。
立ち上がったメイルムもといランシャは、エリンスの返事を待たずに背を向けて医務室の出口のほうへと歩き出す。
エリンスはサイドテーブルの上に置かれていた折れた剣へ目をやって、そして、覚悟を決めて手に取り鞘へと納めた。
「ついてきてください」
そんな様子を見守るようにして振り返ったランシャはぽつりと言う。
エリンスは頷いて、薄暗い部屋の中を一歩進み、その後について医務室を後にした。
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