第235話 帰ってきた場所
ラーデスア帝国を巡る戦いが終息を見せ、人々が復興に励みはじめたその夜。
月明かりも届かない雲ばかりが覆う夜空の下、麓に広がる街明かりが小山の頂上にまで薄っすらと届いていた。
厳かに構えられる白色の石柱が並んだ大聖堂正面入り口。それに連なる長い廊下、渡り廊下までかかる四階建て二棟の建物を総じて、勇者協会総本部、サークリア大聖堂と呼ぶ。
勇者協会の右腕、剣聖と呼ばれるディートルヒの転移魔法で帰還を果たしたエリンスたちは、勇者協会最高責任者マースレンに呼び出され、帝国奪還に関する報告をひと通りさせられた。
その後、試験の際にも利用した宿舎の部屋をそれぞれに割り当てられて、勇者候補生たちにも休む時間が与えられた。
マリネッタとメイルムは治療の必要があると治療室へと担ぎ込まれたらしい。エリンスとアーキスにしても簡単な治療は受けたが、特に大事はなく、そのまま自室で一眠りすることになった。
名目としては休暇であったが、ラーデスア帝国の闇に近づいた可能性が高い勇者候補生たちの監視のためでもあろうと、エリンスも悟っていた。
そんなこんなで夢見心地がいいはずもなく、エリンスは疲労困憊の沈む意識から目を覚まして、身体を起こした。
「眠れたかの」
枕元で寝顔を見守るようにしてくれていたツキノに、「……あぁ」と軽く返事をする。
白いシーツのかかるベッドに、壁に向かって置かれた机と椅子。家具も少なく、寝泊まりするだけの簡素な部屋だ。
薄いカーテンの引かれた窓の向こうは真っ暗だった。
「ん……今、何時だ」
軽く腕を伸ばして身体を伸ばす。ツキノにそう問えば、ツキノは「ふむ」と頷きながら返事をしてくれた。
「夜じゃ。
「五時間も寝てしまったか。十分だ」
あれから、報告やら何やらを済ませて、エリンスが解放されたのは夕方だった。
戦いの疲労があったせいもあるだろうが、昼寝にしては寝すぎてしまった感覚もある。だが、おかげで英気も十分に回復した。
エリンスはベッドから出て立ち上がると、立てかけてあった自身の剣を腰に下げ、ツキノを抱きかかえた。
そのまま部屋を出ると、同じような部屋がずらっと並ぶ廊下へ出る。本堂のほうへと向かって歩けば途中で協会職員に呼び止められて、食堂に夕食が用意してあることを告げられた。
階段を降りて、そのまま一階の広間の一つである食堂へ足を踏み入れる。長椅子がずらっと並び、整頓されたテーブルも並んでいる。
今はエリンス以外、利用者も見えないが、多いときでは勇者候補生や職員たちで席が埋まるほどになる場所だ。
やけにがらんとしているせいで寂しいが、エリンスが席へつけば、職員が料理を運んできてくれた。
緑黄色野菜が盛られたサラダに、パスタと呼ばれる小麦から作られる麺をチーズとクリームソースで絡めた料理。それに、魚の切り身だろうステーキと薄い色をしたスープ。
一人前にしては多い量に思えたが、戦いを終えた勇者候補生たちのことを思って奮発してくれたのかもしれない。
エリンスが料理を前にフォークとナイフを手に取れば、職員が小皿に乗ったパンも持ってきて、テーブルの上に置いてくれた。ツキノがその前に跳び下りる。
「いただきます」
一人挨拶をすれば、ツキノも「いただこう」と続いて手を合わせた。
ツキノがかじかじとパンをかじりはじめたのを横目に、エリンスも腹が鳴るのを我慢できなくなって、料理を口に運びはじめた。
一人でする食事は思ったよりも寂しく、口へ入れたものの味もわからないほどだ。魚の切り身を一切れツキノの皿に乗せてやれば、ツキノはそれもぺろりと食べる。
旅をしている間は、ずっと一緒にいてくれる人がいたのだと、改めて失ったモノの大きさに気づかされた。
こうして一人で食事をすることもなかった。いつも必ず、目の前には何でも美味しそうに食べて頬を赤める彼女の笑顔があった。
そう想いながらフォークでまいたパスタを口に運べば、妙にしょっぱくて、エリンスは慌てて目元を腕で拭った。
一人で旅立った場所へ、一人で帰ってきてしまったのだ、と思い知らされる。
胸にぽっかりと空いてしまったその気持ちは、もう一度彼女の手を取るまで埋まりそうにもない。
そうしてエリンスが一人、夕食を食べ進めていると、食堂へとやってきた見慣れた顔が一つ。
「起きたか、おはよう」
爽やかに笑って挨拶をしてくれたのはアーキスだ。
「っても、そんな時間でもないか」
あはは、と軽く笑いながらも、エリンスの向かいの席へと腰かけた。
エリンスはもう一度目元を手で拭って返事をする。
「……おはよう。アーキスも、休めたか?」
「休めたよ。少し、寝た。戦いの後も寝てたんだけどな」
互いに戦いでの疲れが残っているような顔色はしていたが、それでも眠れたことに代わりはない。
それにエリンスとしては、ちらりと目をやったアーキスの腰に二本の刀剣が差さっていることが気になった。
「あいつの刀、だよな」
天剣の他にもう一本提げている刀が、ザージアズの持っていた
「あぁ、あいつに勝負の終わりに無理矢理に押しつけられた。相棒の面倒を見てくれってさ」
アーキスはどこか苦しそうに笑いもするが、それをしっかり受け取ったということは、彼の意志も継いだのだろう。
「ちゃんと約束も果たしてくれたよ、あいつは。最期まで勝手なやつだったが」
それに関してはエリンスも苦笑いだ。
「……まだ、見つかってないのか?」
念のためと思ってエリンスが聞くと、アーキスは目を伏せて首を横に振った。
「メルトシスの行方はまだ見つかってない。でも、俺は諦めたくはない」
真っすぐと顔を上げたアーキスの視線は、エリンスを射抜くような鋭さを持っていた。
その目は語る――「きみは、どうする?」と。
だから、エリンスはこたえた。
「俺も、このままにするつもりはない」
エリンスの決心は揺るがない。
エリンスが真っすぐと見つめ返したところで、それがアーキスにも伝わったのか、アーキスは「ふっ」とどこか寂しそうにも微笑んだ。
「何があったんだ?」
タイミングだと思ったのだろう。アーキスは一歩踏み込むように聞いてきた。
エリンスは「あぁ」と頷くと、手にしていたフォークを皿の上に置いて静かにこたえる。
「魔界へ、帰ったんだ」
「言ってたよな、あのときも。それはまた、突然だな……」
アーキスも同情するように肩を落とす。
「でも仕方がなかったんだ。時間がなかったから」
そうこたえたところで、エリンスが全てを受け入れていることにもアーキスは気づいたらしい。
「……そうか。世界が分かたれた話、か」
「あぁ、
マースレンへの報告の際、同席したアーキスにもその辺りの話は共有された。
「ファーラスをめちゃくちゃにして……セレロニアとラーデスアまでも」
「あぁ、だから、俺はアグルエを追う」
ツキノは黙り込んでパンをかじりながら、二人の顔を見やって話を聞いていた。
「追うって言っても、向こうとこちらは絶たれてしまったんだろ?」
「でも、
エリンスが力強く断言しても、ツキノは黙々とパンをかじっている。
「そうかもしれない……何か、方法が見つかるといいな」
アーキスがそうこたえてくれたところで、エリンスは「あぁ」と頷きながら置いていたフォークを手に取った。
最後のひと口に残っていたパスタを口へと運んだ。胡椒が効いたベーコンに、チーズとクリームソースの濃い味がしっかりと口の中に広がっていく。
「あぁ、そうだ」とそこでアーキスは思い出したように話を切り替えた。
「マリネッタのほうは、きみが寝ている間に目を覚ましたよ」
「……そっか、それはよかった」
最後のひと口を味わって呑み込んでからエリンスは頷いた。
攫われたメイルムを追ったマリネッタ。戦いの消耗が激しかったためだろう、二人は大聖堂に帰ってきたところで目を覚まさなかった。
「メイルムは、まだ?」
「残念ながら。彼女はどうも極度に大量の
幸いなことに大聖堂に戻ってきてすぐに協会側の治療を受けられた。「もう峠は越えたらしい」とアーキスは頷いた。
エリンスが「そっか」と頷いたところで、空いた食器を協会職員の人が片づけてくれた。ツキノもちょうど食べ終わったらしい。
「二人で掴んだ勝利だった、とマリネッタが泣きながら話してくれたよ。あのマリネッタが、俺に泣きつくとは思わなかった。まあ……ここにいる限り、メイルムも安静は要するが大丈夫だろう」
爽やかに笑ったアーキスに、エリンスも笑顔で返す。
「あぁ、そうだろうな。よかった、二人とも無事で」
「マリネッタへ顔を見せてやったらどうだ? まだ会ってないんだろ? ああ見えてあいつは、きっときみのことも心配しているはずだ」
ああ見えてもは余計だろう。マリネッタに聞かれたら怒られるだろうに、と思ってエリンスは笑った。
「あぁ、そうするよ」
そのまま席を立って、アーキスともその場で別れた。
肩の上に飛び乗ったツキノの頭を軽く撫でる。
彼女とした約束の続きはまだ果たされていない。
何を言われるかわかったものではないが――と覚悟を決めて、エリンスはその足でマリネッタの部屋を目指した。
◇◇◇
廊下を進んで、協会職員に訊ねて聞いたマリネッタの部屋を訪れた。
こんっ、と軽く手の甲でドアを叩けば、中から「どうぞ」と静かな返事があった。
エリンスはドアを開けて中へと入る。
エリンスの部屋と同じような造りの簡素な部屋の中、マリネッタはベッドの上で身体を起こして座っていた。
「エリンス、起きたのね」
よかった、とマリネッタは安心したように微笑んでくれる。
「そっちこそ、大事なくてよかったよ」
「一度は死にかけたわ。今こうしていられるのもメイルムのおかげ。メイルムは?」
「あっちも大事はないって。絶対安静だけど、しばらく休めば大丈夫だってさ」
エリンスもマリネッタの部屋へ来る前に様子を見て、容体を診てくれている協会職員に話を聞いてきたところだった。
「……そう」と静かに返事をするマリネッタは、ベッドに座ったままエリンスへと真っすぐとした眼差しを向けている。
改まったような雰囲気にエリンスも身構えた。
「エリンス、わたしに言うことがあるのよね」
逃げられないし嘘も吐けない、そんな雰囲気だ。
エリンスとしても、元より逃げるつもりも嘘を吐く気もなかったが。
「アグルエは、魔界へ帰ったよ」
そう告げたところで、真っすぐと見開かれていた彼女の瞳に涙が浮かんだ。
「あの子は、約束したのよ、わたしと」
「あぁ……」
「必ず勝利して、合流するって」
「……うん」
涙を流しながら立ち上がったマリネッタは、エリンスへ寄りかかるようにしてその胸に拳を打ちつけた。
痛くはない。優しい感触だった。
「ただ、見送ったって言うの?」
「……違う。だけど、結果的にはそうなった」
マリネッタの青い瞳が近い。エリンスはそれを真っすぐと見つめ返した。
マリネッタはこらえきれないかのように目尻より涙を流して、そして、ふらついた。
エリンスはそっとその両肩を支えると、マリネッタをベッドへ座りなおさせる。
机の上からは心配そうに水瓶様が見つめていた。
――まだ、マリネッタも絶対安静が必要だ。
そんな彼女の気持ちを乱すつもりもなかったが。
「だから、ちゃんと迎えに行ってくるよ」
エリンスは俯いてしまったマリネッタの頭頂部を見つめて、そうこたえた。
マリネッタはそのエリンスの言葉で、ハッとしたように顔を上げる。
「……わたしは、あの子の不安をわかってあげることが、できなかった」
マリネッタはアグルエのことをずっと気にかけて見ていてくれた。
それはエリンスもよく知っている。
「アグルエは、わたしに、この道を……進む意味を教えてくれたというのに」
「それが、アグルエの優しさなんだよ」
全てをそっと包み込んでくれている。
何も告げずに去って行ったのも、優しさだ。
あのときは冷静さを欠いてしまったけれど――今ならちゃんとわかる。
「今度はちゃんと、迷いも不安も、一緒に抱えられるようにする」
エリンスは決意を胸に、それを口にした。
マリネッタは真っすぐと、そんなエリンスの眼差しを受け止めてくれている。
「ずっと、一緒に旅をして、何でもわかっているつもりになっていたんだ」
でもそうではなかった。
話を聞いただけでは、受け止めきることができなかった。
アグルエの迷いも不安も。最強だなんて謳われても。
彼女はたった独りその名を背負って、立場を背負って、迷っていた。
「でも、違った。それは間違いだった。想いが伝わっているつもりでも、ちゃんと言葉にしなきゃ伝わらないこともある」
あのとき、アグルエが不安を零してくれたとき――もっと俺がしっかりしていれば、違った今があったのだろうか。
それはほんのちょっぴり覚えたエリンスの後悔で、だけど、もうそれも振り返らないと決断した。
だからその覚悟を自分に言い聞かせるように言葉にして、マリネッタへ告げた。
「俺は、アグルエのことが好きだ。だから今度はちゃんと、全部受け止められるようになる」
真っすぐとした言葉はマリネッタにも響いたのか。驚いたような顔をして、だが、マリネッタはそれもわかっていたようにして、安心したように微笑んだ。
マリネッタは改めて涙を拭うと、エリンスのキリッとした瞳を見つめ返してこたえた。
「……二度と、アグルエのことを泣かせたらダメ。わたしが許さないから」
笑いながらそう言ったマリネッタに、エリンスも思わず笑って真っすぐとこたえた。
「あぁ、もう、手を離さない」
「絶対に連れて戻ってきて。わたし、あの子にまだ、お礼を言えていないのだから」
「任せろ。絶対一緒に、ここへ帰ってくる」
エリンスが力強く頷いたところで、マリネッタも柔らかく、慈愛に満ちた笑顔を浮かべて頷いた。
机の上の水瓶様とエリンスの肩の上のツキノも、安心したように顔を合わせて頷き合っていた。
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